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三鷹事件の竹内景助と教誨師

三鷹事件は代表的な冤罪事件です。誰が考えても竹内景助の単独犯の可能性はゼロに等しいのに、竹内は死刑を宣告されます。しかし、誰もが冤罪だと分かっているため、最高裁の死刑確定後、どの法務大臣も死刑執行しないまま、竹内は獄中で12年間過ごした後、脳腫瘍で亡くなりました。

竹内が死刑となった最大の根拠は、やはりというか、残念ながらというか、自白です。多くの証言や物証が竹内の犯行が不可能だと示しているにもかかわらず、推定無罪の原則があるにもかかわらず、自白のために死刑になってしまいました。

私が恐ろしいと感じるのは、2011年に竹内の長男が2回目の再審請求をしたのに、2019年に再審開始を認めないと高等裁判所が判断したことです。もう有罪判決を下した連中は全員亡くなっているでしょうに、日本の裁判所はなぜ、なんのために過去の間違いを頑なに認めないのでしょうか。私は全く理解できません。理解できる人がいたら、下のコメント欄に書いてください。

なお、「日本では自白が作られる」に書いたような、検察からの圧力が竹内の自白の主因ではないようです。「共産党系の弁護士から罪を認めても大した刑にはならない。必ず近いうちに人民政府が樹立される。ひとりで罪を認めて他の共産党員を助ければ、あなたは英雄になると説得された」ため自白したと竹内は再審請求書で述べています。

竹内は浄土真宗の教えに真摯に向き合い、経典はしっかり読み込んでいました。特に写経はうまく、芸術作品の域にあったと本で激賞しています。読書好きで知識欲旺盛、頭の回転が速い竹内は、強盗や強姦殺人を犯した他の囚人たちを見下すような態度を隠そうともしませんでした。行く先々で反目の火花を散らして煙たがられ、売られたケンカを律儀に買っては諍いを起こし、たびたび、懲罰房に入れられていました。竹内は、刑務官が日々の業務でちょっとしたことを間違えて謝らずにいると、眉を吊り上げて食ってかかりました。竹内は教誨師の渡邉との面会時、付き添ってきた看守を「早く行け」といわんばかりの形相で睨みつけ、無言の迫力で追い出したりしていました。渡邉より10年前に面会していた精神科医は「死刑囚の記録」(加賀乙彦著、中公新書)で、竹内が他の囚人を軽蔑しているものの、看守には礼儀正しく、命令には従順だったと書いているので、竹内は10年のうちに変わったようです。竹内と対等に会話できる人物は、前回の記事に書いた山本くらいでした。

死刑囚は希望すると独房で手仕事を行うことができます。竹内はそこで得られた報酬と雑誌寄稿の原稿費を渡邉にそっくり預けていました。ある時までは家族に渡していましたが、家族に渡すと共産党の支援費用の名目で横取りされるのではないかと竹内は疑っていました。渡邉は死刑囚からいろんな物を預かっていましたが、金まで預けたのは竹内だけでした。

竹内の病死後、渡邉は預かった金を渡すため、竹内の妻の家を訪ねます。妻は竹内の裁判を支援した事務局長と一緒でした。

「事務局長さん、あなたはこの金をどう使われるおつもりか?」

出過ぎたマネと思いながら、渡邉はそう確認しないではいられませんでした。

「竹内くんは無実でしたから、彼の冤罪を訴えていく活動に使います」

事務局長の返答に、渡邉はこう告げました。

「竹内さんが奥さんに残した金ですから、奥さんの生活のために使ってください」

妻は無言で頭を下げたそうです。

竹内は「芸術作品」である写経も渡邉に預けていました。渡邉がお金を妻に渡した数日後、今度は事務局長が渡邉の寺に竹内作の大量の写経を取りに来ました。一体どうするつもりなのか渡邉がたずねると、竹内を知る人たちに売って換金し、今後の活動資金に充てると事務局長は答えました。

「換金」という言葉に割り切れないものを感じた渡邉は、そのまま竹内の書を渡す気になれず、寺の本堂いっぱいに書をずらりと並べました。事務局長に、いくつかの書の意味を聞いてみましたが、事務局長は意味が分からず、字の読み方すら知りませんでした。

「自分は共産主義者なので、宗教のことは分かりませんから」

事務局長は不愉快そうに弁解しました。

渡邉にとって、それらの書は、竹内が孤独な獄中で、その不遇な人生に絶望することなく必死に学び、心を込めてつづった作品です。意味も理解しない奴に引き渡し、「有名死刑囚の書」との触れ込みで換金されるのは我慢できませんでした。渡邉は竹内のために、ひとつひとつの書を大きな声で読み上げ、それらの意味を歎異抄論語を引きながら丁寧に解説していきました。

事務局長は関心もなさそうでしたが、これも引き渡しの儀式と観念したようで、気のない相槌を打ちながら聞いていました。渡邉の説明が終わると、事務局長はいそいそと本堂の端から書をかたづけはじめました。その乱雑さが、またも渡邉の気に障りました。

「事務局長さん、あなた、人が死んだらどうなると思いますか?」

「ええっ? 人が死んだら? 竹内くんは……霊魂になって、私らのことを見守ってくれているんじゃないですか」

「あんた、本当の共産主義者じゃないね」

「はあ?」

「人間、死んだら終わり、ゴミになるというのが唯物論者でしょう。あんたは宗教が分からないだけでなく、共産主義も分かっていない。竹内さんの書を全部あんたにやるわけにはいかん」

そう言って、渡邉は竹内の書を数枚抜き取ったそうです。

もし私が渡邉だったら、竹内の書は一枚も渡さず、事務局長を怒鳴り帰させているでしょう。