未来社会の道しるべ

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人間誰しも悪魔のささやきに身を委ねる機会がある

教誨師」(堀川恵子著、講談社)は性格(話し方や立ち居振る舞い)のいい例外的な死刑囚ばかり紹介しています。その筆頭で紹介されている死刑囚が山本勝美(仮名)です。

1961年冬、二人の男が中野刑務所を白昼堂々と脱走します。脱獄犯は刑務官の頭をバールのような凶器で殴り殺しています。殺害現場から500円札入りの刑務官手帳がなくなっていました。

脱走した一人の山本はコソ泥の常習犯です。捕まるまでは水道工事が得意な配管工で、実家に工務店を構えるほどの腕前でした。収監後の服務態度は極めて良好で、十数人の受刑者のリーダーを任されており、もう一人の脱走犯は山本の弟分でした。「二人は真面目な大人しい受刑者だった。今までも、作業のため毎日のように外に出しており、どうしてこんなことをしたのか考えられない」とは当時の刑務所所長の証言です。

二人の脱走劇は、翌日の昼にあっけない幕切れとなります。脱走のニュースが大々的に報じられる中、町をさ迷う坊主頭の二人組は嫌でも目につきます。二人は別行動をとりますが、山本の弟分は中学生に後をつけられ、御用となります。山本は、新聞に自分の顔写真が大きく掲載されているのを見て、逃げるのは無理と判断して、近くのタバコ屋で警察を呼んでほしい、と頼みます。翌日の新聞に載ったタバコ屋の女主人の談話です。

「山本は静かな物腰で凶悪な印象は受けなかったので、腰掛けるように勧めると、ありがとうございますと言って座りました。警察に電話していいんですね、と念を押すとお願いしますと言いまして、110番しました。警官が来る間、百円札を出して、タオルとちり紙が欲しいというので、金はいいからとやりました。すると、残りの金も私にはもう必要ありませんから差し上げますと言って差し出しました。警官が来るまで刃物と刑務官の手帳を出して座り、おとなしく待っていました」

渡邉は「あんたみたいな人間が脱走犯だなんて、わしには想像がつかんよ」と言っています。山本は「タバコ屋のおばさんには親切にしてもらいました。あの時にいただいたタオルは長年ずっと大切に使っておりました。たった一杯の酒が飲みたいばかりにね。まさか看守さんも亡くなるなんて思いもしませんでした……」ときまり悪そうな笑顔で答えたそうです。

脱走する数か月前、山本が服務として壁の補修工事をしていた時、シンナーの臭いに、ふと大好きだった日本酒を思い出しました。思わず、手元のタオルにシンナーをたっぷり吸わせて、鼻にあてて大きく息を吸い込むと、天にも昇る気持ちになりました。

「もうその日から毎夜毎夜、夢にまで出るんです。とにかくおちょこ一杯でいい。出所まで2年も待てるかと弟分と意気投合しましてね。もう後先のことは吹っ飛びました」

山本は裁判で弟分をかばい、一切の罪を引き受けました。たった一人の強盗殺人では通常、死刑まではなりませんが、収監中の事件だったこともあり、山本の死刑が確定しました。判決文によると、山本は極悪非道な脱獄殺人犯です。渡邉は、判決文の凶悪犯と、目の前の山本が別の人間に思えてならなかったそうです。

教誨を受け始めて2年間の山本は「聴こう」という気がなく、面接は世間話ばかりでした。しかし、ある時から親鸞悪人正機説に神秘的な衝撃を受け、そこらの生半可な僧侶とは比べようもないほど熱心に学び始め、次々と経典を読破しました。山本の希望で差し入れる本は、渡邉も事前に目を通しておかなくては後からなにを質問されるか分かりません。しかし山本の読書量は半端ではなく、もはや渡邉が追いつこうにも追いつけなかったと上記の本に書かれています。

余談ですが、今回この本を読み返している時、「そこらの生半可な僧侶」という言葉から、最近読んだ「お寺はじめました」(渡邊源昇著、原書房)の著者を思い出しました。著者の源昇は多くのお坊さんと違い、サラリーマン家庭出身なのに自らお坊さんになる決心をして、禁欲的な修行に耐えて、周囲の交通量調査までして、埼玉県に一からお寺を開いています。源昇が平均的な僧侶よりも遥かに困難な道を歩んできていることは間違いありません。それでも源昇を「生半可」だと私が判断したのは、本人の体力と気力があるから厳しい修行をまっとうできただけなのに、修行完了を自慢気に書いていたり、本のどこにも深みのある言葉が出なかったりしたからです。私が源昇の話に感化される可能性はゼロに近いでしょう。もっとも、同じことは、渡邉普相にも言えます。「教誨師」を読んで、渡邉に感心することは全くありませんでした。渡邉自身、自分はいいかげんなところがある、と認めています。しかし、私も死刑囚になったら、渡邉のような僧侶であっても、すがりたくなるのだろう、とも思いました。

話を戻します。

山本は親鸞の教えの中で「自利と他利」という言葉を好んで使いました。「自利」は、自らの悟りのために修行して努力すること、「利他」は他の人の救済に尽くすことです。浄土真宗では、自利と利他が両輪で回ることを大切にします。人間、ひとりの力で出来ることは知れているからです。しかし、この点についてだけは山本は異論を唱えました。

「先生、刑務所は更生する場じゃありません。再犯で入ってきた者はみんな雑居房で、次の犯罪の相談ばかりしておりますよ。私も懲りずに窃盗を40件ほどやった常習犯で、止めようと思っても自分の生き方を変えるのは難しい。自利と利他も大切でしょうが、私はやはり自利によってからしか、真の人の姿は見えてこないと思います」

罪人には自利こそ大切だと力説する山本の持論は、常に自分を厳しく律しようとする山本らしい考えです。渡邉は真宗の教えは百も承知の山本に、こう伝えました。

「私には、山本さんの生き方が自然と利他に繋がっているように見えますよ。この間も、あなたをならって教誨を受けたい受刑者が来たでしょう。あなたの生き方は既に多くの人を救っているのかもしれませんし、そういう人たちからあなたも良い影響を受けているかもしれない。人間ひとりでは生きていけません。自利だけではいけませんよ」

山本は黙って笑い、それ以上、反論しなかったそうです。

上記の本の情報だけだと、山本は死刑にすべき人ではない、となります。むしろ、一般人以上に自分に厳しく、真面目に働く能力もあるので、社会で活躍すべき人のようです。しかし、この本では山本に明らかに好意的に書かれているので、本当の山本が外の一般社会で誠実に生きられるかどうかまでは断定できないでしょう。

とはいえ、この本で指摘していることも納得できます。全ての人間には心の闇があります。感情のたかぶり、気の迷い、悪ノリ、山本のような酒や薬、運の悪さで、越えてはいけない一線を越えてしまう危険性はどんな人にもあります。「私が日本の最も嫌うところ」でも嘆いたことですが、自分も凶悪犯になる可能性があると考えていない日本人が多すぎます。日本人が西洋人と比べて、人間観で最も劣っている点はここかもしれません。