未来社会の道しるべ

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三菱銀行人質事件はなぜ起こったのか

前回の記事の続きです。

強盗殺人犯の15才の梅川は岡山少年院に送られます。当時は今と異なり非行少年に対する処分が厳しく、少年院送りが当たり前に決められていました。ベビーブームのせいもあり、日本中の少年院は定員を越えており、岡山少年院も定員115名に、倍近い200名が詰め込まれていました。わずか4ヶ月後、梅川は脱走事件を起こしたようで、山口県特別少年院新光学院へ送られます。

新光学院に入っていた者によると、新光学院の教育はなにごとも軍隊調で、体罰がまかり通り、教官からも古顔の年長者からも押さえつけられる毎日だったそうです。彼は「梅川はいじめられていたに違いない」と推測しています。一方で、新光学院の元矯正官はこの話を「たしかに規律は厳しいが、そんな……」と一笑にふしたそうです。

新光学院で1年余りを過ごした後、梅川は両親の住む香川県引田町に仮退院します。その半年後、高松保護観察所に無断で親許を離れ、大阪に出ていきました。梅川家の遠縁にあたる人が西成区で飲食店を経営しており、ここで調理師修行をするつもりでした。

高松保護観察所はすぐに梅川の父に会い、このまま行方不明になれば、再び少年院に戻ることを告げ、梅川の大阪の住所を聞き出します。しかし、その住所をたどっても、梅川は既に引っ越していて、しかも転居先不明でした。このようなことが3度続いた後、ようやく西成区玉出の梅川の住所が突き止められます。この間、ざっと1年。梅川はこのとき、既に調理師の道を棄て、刺青を入れて同じ年ごろの女性と人目を避けるように暮らしていたそうです。刺青ありで女と同棲していたのに、当時74才の保護司は大阪保護観察所に「普通」と報告していたそうです。そして梅川が20才になった時、保護観察は自動的に打ち切られます。

三菱銀行人質事件を起こすまで約12年間、梅川は大阪で暮らし、その間の職業は一貫してバーテン兼貸金取立人である、と「破滅」(毎日新聞社会部編、幻冬舎アウトロー文庫)には書いています。裏の社会とも近い位置にいましたが、梅川はヤクザに入ったことはありません。梅川は「組織の中で耐えて励むタイプではなく」、「そこいらのヤクザと違うんだという気位の高さ」があるため、「ヤクザへの軽蔑と憧れを心の中で複雑にからませながら、一匹オオカミを気取っていたのかもしれない」と本では指摘しています。

梅川には交際した女性が三人おり、上記の本では20代の大半をともにした一つ年上の女性に注目しています。前回の記事に書いたように、この女性は殴られ、蹴られ、髪をつかんでひきずりまわされ、たばこの火を押し付けられることが梅川との日常でした。たまりかねて女性が実家に逃げ帰ると、梅川が実家まで迎えに来ます。女性の両親の前にきちんと正座し、折り目正しい言葉で「私が悪うございました。許してください。心からお詫びします」と涙を流して両手をつき頭を畳にすりつける梅川に、両親の方がすっかり信用して、「もどってあげえな。あないにおっしゃってるんやし……」と言うこともあったそうです。

メラビアンの法則」に書いたように、日本は外見ばかり重視し、中身を軽視します。ここまで暴力振るっていた奴と付き合う女も、外見上はしっかりした謝罪で許してしまう両親もバカです。こんな奴らが多いから、私はこの国でうまくいかないのだろう、と思ってしまいます。

女性が梅川の元に戻ると、もちろん、暴力沙汰は繰り返されます。ある時、女性は決心して、以前の情夫の元に駆け込み、その男と一緒に自分の家財道具を梅川との同棲先から運び出そうとしました。しかし、しばらくすると女性は「やっぱり、ここにおるわ。ゴメンな」と言って、決心を翻しました。

現代の精神医学の言葉を使えば、これは典型的なDVであり、共依存です。1979年出版のこの本に「DVや共依存は自力での解決が難しいので、福祉の助けが必要である」といった見解はありません。当時はどこにでもある男女の悲劇として見られ、社会全体で助けるべきとはあまり考えられていなかったようです。そんな観点からすれば、当時より現在は日本人の道徳意識も、社会福祉も発展したのでしょう。

梅川は25才の時、住吉警察署の銃砲所有許可証を見せて、銃砲店で銃を購入します。

前回の記事で、梅川が凶悪犯になった最大の原因は、梅川の子どもの頃の教育の失敗にある、と私は断定しました。その答えとは別に「梅川が三菱銀行人質事件のような凶悪事件を起こさないためになにをすればよかったか?」の問いに解答を出すなら、「15才で強盗殺人事件を起こした奴に、銃砲の所有を許可してはいけなかった」になるでしょう。同じ批判は事件当時から無数にありました。しかし、上記の本では「なぜこんな危険な男に銃を持たせたのか」についての考察は全くありません。こんな重大な考察をなぜ放棄しているのでしょうか。マスコミと警察の癒着、馴れ合いがあるからとしか思えません。

日本のマスコミと警察の根深い癒着を知るために、「真実」(高田昌幸著、角川文庫)を読むことを強く勧めます。

梅川の趣味の一つは読書でした。徹底したハードボイルド派で、大藪春彦の作品は全て読むほどのファンでした。200冊近い蔵書には「人類の知的遺産」シリーズの「ドストエフスキー」「アインシュタイン」から、「人物現代史」シリーズの「ヒトラー」「ムッソリーニ」「チャーチル」などの伝記もありました。虚栄心の強い梅川は「毎月の本代が1万円を越えて弱っとるんや」「フロイトは面白く読めたが、ニーチェはさすがに難しかったなあ」「プレイボーイみたいなジャラジャラしたエロ本が読めるか!」と喫茶店や書店で自慢していたようです。

また、梅川は健康雑誌も毎号購入しており、健康には人一倍気をつかっていました。三菱銀行人質事件の最中も、カップ麺の差し入れに「こんなもの食えるか! もっとカロリーのあるもの持ってこい! サンドウィッチかなにかだ。ついでにビタミン剤もだ!」と怒鳴り散らしています。

差し入れといえば、「シャトー・マルゴーの69年ものを持ってこい」とも事件最中に梅川は警察に要求しています。虚栄心に満ちた梅川は自身も飲んだことのない高級ワインを要求したのです。ただし、本当のワイン通であれば70年ものを要求するはずだったので、梅川の一流好みは生半可であることが露呈しています。

梅川が銀行強盗の計画を始めて口にしたのは、事件から2年前の1977年です。香川で同郷だった友人の鍋嶋に銀行強盗の話を持ち掛けて、協力するよう勧めています。

その翌年、梅川の勤め先のクラブが閉鎖され、無職になります。深夜クラブ、バーを転々としてきた男に一時的な失職はよくある話です。しかし、「人に使われて働くのはもう嫌だ」「オレもお袋を心配させたらあかん年齢や」と言って、次の仕事を探そうとしませんでした。この頃から、銀行強盗の話を再び鍋嶋兄弟に何度も持ち出したようです。30才になった梅川はバーやクラブに客用の贈答品や景品を売り歩く商売をはじめますが、うまくいきません。それまでは苦しい中でも続けていた母へのわずかな仕送りも途絶えます。

1978年10月、経済的に困窮しているのに、高級車コスモを購入し、12月にはサラ金から派手に借金をして回ります。1979年正月に、2年ぶりに母親の元に帰り、郷里の知り合いたちに「母がいつもお世話になっています」と言って、高級なカズノコを贈答品として渡して回っています。

大阪に戻った梅川は鍋嶋兄弟に銀行強盗の協力を執拗に迫りますが、結局、どちらにも協力を断られ、1979年1月26日に一人で三菱銀行の強盗事件を起こします。

梅川は「銃を一発天井か床にぶっ放せば、みんな縮みあがって、手向かうものなどあるはずがない」とタカをくくっていました。また、襲撃した銀行は警察署から車で3分以上かかる距離にあるので、警察は3分間はやってこない、とみなしていました。

ところが現実には、銃で威嚇発射しても銀行員はすぐ現金を差し出さないばかりか、目の前に突き出された銃を振り払おうとして、梅川が現金を奪うまでに時間がかかりました。さらに、たまたま付近をパトロール中の警官がいて、現場から逃げた客の助けに応じて、3分もせずに梅川の目の前に現れます。それからすぐに警察に銀行を包囲されると、梅川は人質籠城を決め込み、42時間の悲劇が起こります。

2年あるいは1年もかけて計画していたわりに、「銃で威嚇射撃すれば、すぐに現金が手に入る」計画が失敗した時を考えていなかったり、「警察署に警察がいつも待機しているわけがない。普段は街をパトロールして、警察署に連絡がいけば、現場近くの警官に無線で連絡が来て、すぐに駆けつける」と思いつかなかったりしたことを、本では「自分の筋書き通りに相手が動いてくれる、動くべきだと思い込む『甘え』こそが、この計画の重大な欠陥だった。『甘え』に支えられた計画だけに、失敗の責任は他人に転嫁され、梅川は逆上した」と書いています。

事件後、梅川が射殺された後、人目をはばかるように立っていた母は「私だけは最後まであの子の味方でいてやりたかった……」と漏らしたそうです。

さて、「日本では検察が犯罪を作り出せる」の記事で、「犯罪本の批判を通じて、日本人の道徳について考察していきます」と書きましたが、今回の「破滅」(毎日新聞社会部編、幻冬舎アウトロー文庫)について、私が批判したいところはほとんどありません。むしろ、梅川の生い立ちについて、広島や香川まで足を運んで、よく取材していると賞賛したいです。強く批判したい唯一の点は、上記のように「なぜ警察は梅川のような危険人物に銃の所有を許可したのか」の取材や考察が全くされていないことです。

著者の見解は鋭いです。梅川の「甘え」、母や父への批判的な見解などは、本質を突いていると考えます。さすが1970年代の毎日新聞社会部の本です。

これと対照的に、著者の見解のあまりの幼稚さが目立つのが次の「死刑のための殺人」(読売新聞水戸支局取材班著、新潮文庫)になります。次の記事から、その幼稚さを指摘していきます。