未来社会の道しるべ

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社会の成功者たちをどう考えるべきか

「ナンバー1は常に批判されるべきだ。ナンバー1になれるほど幸運なのだから、それくらいでないと、割に合わない」

この考えを私は西洋人に英語で何度も言いましたが、全ての西洋人が同意してくれました。しかし、日本人に同じことを言うと、ほぼ全ての日本人が疑問を呈してくれます。

「すごく努力しないとナンバー1になれないのだから、批判しなくてもいいんじゃない?」

そんな理由です。

しかし、すごく努力できることも、多くは幸運によるものです。私もそうですが、多くの人は成功するためにどこまでも努力したい、と考えていますが、どうしても体力と気力と集中力が続きません。たとえば、私は1日中本を読もうとしても、1時間もすれば字面を追いかけているだけで、内容が全く頭に入ってこなくなります。しかし、読書の才能を持っている人、あるいは子どもの時に恵まれた教育を受けた人は、何時間でも集中して読めるはずです。また、そういう人になると、誰よりも速く集中して読めることに達成感を味わい、さらに読もうという気持ちが湧いてくる好循環も出てくるでしょう。

私がこのように主張すると、次のように反論されたりします。

「確かに運もいいのだろうが、オリンピックで金メダルをとることは、運だけでは無理だ。才能があり、努力もしている競争者たちの中で、自分なりの創意工夫をしたからナンバー1になった。がむしゃらに努力するのではなく、必死で頭を使って創意工夫しているのに、批判される理由はない」

確かに、その選手だけが創意工夫をしたのなら、その反論は妥当だと思います。しかし、全員が創意工夫した中で、たまたまその人の試みだけが成功したのなら、やはりそれは運になります。

西洋と比べると日本では、社会の成功者を無条件で賞賛しすぎだと私は感じます。どんな人でも成功すると傲慢になりがちなのに、周りの人たちが賞賛すれば、さらに傲慢になってしまいます。必然的に、成功者は他者を見下すでしょうし、一般人よりも自分が尊重されるべきと勘違いするでしょう。そんな実例は、古今東西、枚挙に暇がありません。成功者たちをやたらと賞賛してしまう人たちは、その成功者たちを人間的にダメにしていると知るべきです。そんな大衆がいるからこそ、日本に国際的に尊敬される成功者がなかなか現れないのではないでしょうか。

「才能で成功した人よりも、努力で成功した人を評価すべきである」

「精神力だけで努力した人よりも、効率を考えて努力した人を賞賛すべきである」

そういった考えには、私も同意します。同時に、「成功者は常に批判されるべきだ。成功者の今後のためにも、成功者を賞賛しすぎるべきでない」も、早く日本社会の常識になってくれることを願います。