未来社会の道しるべ

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「ルポ児童相談所」を読んで

「ルポ児童相談所」(大久保真紀著、朝日新書)は素晴らしい本でした。これこそ朝日新聞記者がするべき報道です。「マザコン国家ニッポン」で私が批判した朝日新聞Eduはお受験冊子ではなく、こういった恵まれない子どもたちをテーマにした教育冊子にすべきでしょう。

児童相談所は、ほとんどの日本人が関わったことのない機関だと思います。医療職である私ですら、一度も関わったことがありません。新聞などで、虐待相談件数が2000年から2020年までで11.5倍、虐待摘発件数も10倍近くと、発展途上国人口爆発を上回る速度で増えていることを知るくらいです。

もちろん、世の中が豊かになって、少子化になっているのに、児童虐待が増えているわけがありません。昔の方が児童虐待は数も率も多く、程度もひどかったのですが、見逃されていたことは誰もが認めるはずです。

上記の本を読めば、児童相談所は社会にいかに必要か、その職員の仕事がいかに大変であるか、よく分かります。職員の仕事が大変なのは、本で何度も指摘されている通り、職員数が少ないことも原因ですが、制度の問題もあります。たとえば、子どもを一時保護しても、虐待した親の機嫌を損ねないように職員は対応しなければなりません。大抵のケースで、結局、子どもは親元に戻ることになるからです。子どもを助けるためには、親との協力が必要な制度になっているのです。

しかし、モンスターになった親にここまで真摯に対応していたら、ワーカー(社会福祉士)たちの心がもたない、というシーンが本で頻出します。極端なケースばかり紹介しているからだとしても、これはひどすぎます。「怒鳴るのなら、今日はお帰りください」「先ほどから同じ話ばかりしています。申し訳ありませんが、他の仕事もあるので、今日はお帰りください」と言える権限を職員に持たせるべきでしょう。児童相談所に限りませんが、親や客がモンスターと化した場合、具体的には怒鳴ったり、無理難題を言ってきたりする場合には、話を一方的に打ち切れて、すぐに対処が必要ならクレームを言われた方がその場で対処を決められる権限を認めるべきでしょう(もちろん、それが妥当かどうかについて不服申請および事後検証できる制度も必要になりますが)。

本で何度も指摘されている、一時保護所にいる子どもたちが学校に通えない制度は、即刻、修正しなければなりません。著者は15年以上も前から指摘しているのに、未だに実現していないようです。「親が学校に乗り込んできたら、学校側が対応に困る」「登校途中に子どもが虐待した親にさらわれるかもしれない」などと心配しているのかもしれませんが、「学校が親に子どもを渡さない」「親から再び子どもを保護して、親を留置場に送る」などと適切に対応すればいいだけです。無条件で子どもを勉強させない方がデメリットだといいかげん気づくべきです。というより、10年以上前に気づいて、制度変更しておかなければなりませんでした。

上記の本で私にとって興味深かったのは、2013年から2016年、名古屋市副市長として子どもの虐待問題に関わっていた岩城弁護士の話です。

「一時保護する場合、一時保護所ではなく、中学校区ごとのグループホームで保護して、親への接近禁止命令をとる形にして、地域で子どもを育てなければいけない」

これは私の「子ども集団生活施設」ほど急進的ではありませんが、似たような発想です。親によって子どもの人生がメチャクチャにならないように、その子どもが大人になって周りに迷惑をかけないように、上記のようなグループホームは、たとえ税金がかかっても、作るべきだと私は考えます。もっとも、それが日本で実現するのは何年後、何十年後、あるいは百年後になるかもしれない、とも思います。

社会福祉士の大切さを認識していない現代

「現在の日本で最も足りていない職種はなんでしょうか?」

人によって上の質問の答えは変わってくるでしょう。介護士、保育士、プログラマー、3K仕事などがまず思いつくでしょうか。

しかし、100年後、あるいは200年後の人が現代を振り返ると、社会福祉士が圧倒的に不足していると考えるに違いありません。未来の世界では、社会福祉士は現代の10倍あるいは100倍くらいに増えているはずです。

問題の本質は、社会福祉士の不足そのものではなく、社会福祉士の重要性あるいは必要性を現代人が認識できていないこと、あるいは、社会福祉士を有効活用する制度になっていないことです。福祉制度を作ったら、困っている人が自動的に救われるわけではありません。福祉制度を運営させていくためには、多くの場合、困っている人に対する人的援助が必要になります。また、人的援助により福祉制度がより好ましく運営されていくことに、多くの現代人が気づくべきです。

このブログで何度も出てくる「家庭支援相談員」も社会福祉士の仕事になります。次の記事で出てくる児童相談所の職員も社会福祉士です。さらに、「高齢者以上に現役の社会的弱者にも個別事情に応じた人的援助を与えるべきである」にも書いたように、無職の人に就職を支援する社会福祉士、出所後の受刑者の社会復帰を支援する社会福祉士不登校やイジメや非行に対応する社会福祉士の予算は、桁違いに足りません。

心理士の仕事は社会福祉士がするべきである

日本では長年、臨床心理士という民間資格はあったものの、公認心理士という資格はありませんでした。受験料徴収で税金の足しになるのならともかく、そうでないのなら、公認心理士の資格は不要でしょう。そもそも、心理士という職業が社会に不要だと私は考えています。

医学的事実として、カウンセリングは科学的でないと分かってきています。より具体的にいえば、再現性がなく、反証可能性がありません。同じ心理療法でも、する人によって、受ける人によって、効果はまちまちです。どこまでいけば治癒したかも明確ではありません。これでは科学とは言いにくいです。

たとえば、明治時代になって、漢方医は公式な医者でなくなりました。なぜなら、漢方は同じ病気でも、患者さんによって処方(使う薬)が異なるからです。もっと言えば、同じ病気で、同じ患者さんでも、その時の体調によって、処方が異なります。しかも、たとえ治らなかったとしても、処方を変えることで対応し、失敗とはみなされません。これでは再現性がなく、間違っていると判定することもできないので、漢方は非科学的とみなされ、国家が公費を使うべきでないと判断されたのです。

心理士の仕事の基本は、相手の話を聞くことです。確かに、聞くだけで大失敗することはほぼありません。一方で、聞くだけで解決してしまうことはそれなりにあります。あらゆる心理療法を比較して、メリットがデメリットを最も上回るものが傾聴なので、過去から現在まで、傾聴が心理士の最大の仕事となっています。

しかし、医療者としての経験で言わせてもらえば、精神科にまでかかる人の心の問題が、傾聴だけで解決することは100回に1回程度でしょう。精神患者さんは薬剤で効果なければ、カウンセリングで治すことになりますが、大抵は治りません。カウンセリングで治った稀な場合でも、傾聴ではなく、効果的な助言を与えたり、生活環境の調整をしたりした時になります。適切な助言を与え、適切な環境調整を提案するためには、心理療法の知識よりも、社会の仕組みを把握する能力、社会観が重要になります。

現在の心理士の仕事は社会福祉士に任せればいいと私は考えています。傾聴は、医療職や福祉職であれば、誰でもその重要性を知っていて、とりあえず実践しています。社会福祉士も傾聴くらいできますし、しています。心理士や精神科医よりも、傾聴が上手な社会福祉士もいくらでもいます。

また、福祉制度の知識が豊富な社会福祉士であれば、相手の話を傾聴しているうちに、適切な福祉制度、福祉施設につなげられます。だから、適切な助言や、適切な環境調整の提案もしやすいはずです。

誰もが知っているように、人間の心の問題は複雑であり、容易に解決しません。心理士のカウンセリングといっても、せいぜい1週間に1回30分から60分です。そのくらいのカウンセリングで治るのなら、最初から大した問題ではないでしょう。まして問題を聞いてもらっただけで治る程度なら、公的機関が税金使ってまで対応することもないはずです。

傾聴以外のカウンセリング方法だと、カウンセリングしたことで返って害になる弊害、カウンセラー自体も心の問題を負ってしまう弊害が大きくなってきます。これは有能で経験豊富なカウンセラーでも、程度の差はあれ、同じです。

以上から、カウンセリングの専門職、カウンセリングだけをする公的な仕事は不要だと私は考えます。もちろん、どんな薬剤も無効だったのに、ある人のカウンセリングで精神疾患が治ることはあるので、カウンセリングの効果を否定まではしません。しかし、誰のどのカウンセリングがどの患者さんに有効かは明確でありません。だから、医者や看護師や社会福祉士介護士などが専門の仕事をしながら、患者さんに傾聴し、適度に助言をするくらいでいいと考えます。とりわけ、現在の心理士、カウンセラーの仕事は、傾聴の技術も学んだ社会福祉士に代替できるはずですし、代替すべきだと考えます。その場合、社会福祉士は傾聴し、助言を与えるだけでなく、関係者との調整権限も与えられるべきでしょう。たとえば、現在のスクールカウンセラーの代替となる社会福祉士なら、教師や家族と面談を設定できる権限を持たせるべきです。

次の記事に続きます。

全ての人は精神疾患を少しは持っている

私が日本の最も嫌うところ」に書いたように、私の人間観の一番の柱は「人間は皆同じ」です。

だから、どんな人間でも精神疾患を大なり小なり持っていると私は考えています。

たとえば、前回の記事で書いた境界性人格障害を例にとってみます。「相手(主には恋人や家族)に過剰な要望を出すわりに、相手から見捨てられそうになると、異常なほどの執着心で相手との関係を繋ぎとめようとする人」で、女性に多い「精神疾患」です。実際の私の経験談になります。「ヤだ! もう出ていって!」と彼女に言われて、私は(つきあってられない)と思い、自分の部屋を出たら、自宅マンションを出る前に携帯に彼女から電話が入り、「なんで出ていくのよ!」となじられた経験があります。しかし、彼女がそうしたのは一度だけであり、境界性人格障害だったとは思いません。むしろ、境界性かどうかはともかく人格障害なら、自他ともに認めるほど性格(話し方や所作)の悪い私の方がよほどあてはまるはずです。

人格障害は性格の欠陥なので、全ての人にその問題があるのは当たり前と思うかもしれないので、統合失調症も例として考えます。統合失調症は妄想や幻覚が出てくる病気で、「よく分からないものに対する恐怖が強くなっている」「ありもしないものをあると信じ切ってしまっている」ことなどが共通です。「『東電が悪い』だけではいけない」にも書いているように、放射能原子力発電所など、よく分からないものに対する恐怖心は誰もが持っています。同様に、ありもしないものをあると信じたくなる気持ち、妄想に逃げ込みたい気持ちも、程度の大小の差はありますが、誰もが持っています。

人間であれば、うつ病的な部分、躁病的な部分を持っていることは言うまでないでしょう。

精神科は、ある程度客観的な診断基準のICD-11やDSM-5があるものの、他の診療科と比べると、判定する医師によって診断が変わってきます。犯罪者の精神鑑定で、精神科医によって診断名が異なり、論争になることもよくあります。1973年のローゼンハン実験では、健常者8名が精神病(統合失調症)のふりをすると、全員入院できてしまいました。

精神科の診断基準はどうしてもあいまいになります。それは精神医学が科学でない証拠になるのかもしれませんが、全ての人が精神疾患の要因を少しは持っている証拠にもなるのではないでしょうか。

次の記事に続きます。

性格は医療で治らない

しばしば誤解されていることですが、人格障害(パーソナリティ障害)は病気かどうか明確でありません。確かに、人格障害の診断基準はあり、病名は公式に使えて、精神療法の保険適応にはなっています。しかし、精神医学では「本当に病気なのか」「医療で対応すべき問題なのか」と昔から議論があります。

人格障害とは、換言すれば、性格の問題です。頭を良くする薬がないように、性格を良くする薬はありません(あったら、私が使いたいです)。人格障害には、どんな薬も効きませんし、保険適応されている薬もありません。

では、どうやって人格障害を治すかというと、精神療法、つまりカウンセリングになります。しかし、カウンセリングですぐに治ることはまずありません。長期間かけて、やっと治ることはありますが、それだと本当にカウンセリングで治ったのか、それ以外の要因で治ったのか、よく分かりません。「心理士の仕事は社会福祉士がするべきである」に書くように、そもそもカウンセリングはあまり科学的な治療法ではありません。

人格障害で、最も手に負えないのは反社会性人格障害サイコパス)です。反社会性人格障害の人は問題行動を起こすと、大抵、警察沙汰になるので、医療よりも警察が対応してくれます。医療現場の実感としては、最も手に負えない人格障害境界性パーソナリティ障害です。ほとんどが女性の疾患で、犯罪まではいかない問題行動を何度も起こします。「相手(主には恋人や家族)に過剰な要望を出すわりに、相手から見捨てられそうになると、異常なほどの執着心で相手との関係を繋ぎとめようとする人」です。境界性人格障害の人は周囲を巻き込むので、その人が原因で家庭崩壊することも少なくありません。だから、「なんとかしてほしい」と思って、境界性人格障害の人を精神病院に連れてくる家族はいますが、薬剤が効かないので、「とりあえず大人しくなったら退院させて、また犯罪にはならない問題行動をして再入院する」を繰り返すことになります。境界性人格障害で精神病院に10回以上入院した人は、日本に1万人はいるでしょう。人格障害の治療を担当して、無力感に苛まれる精神科医は少なくありません。「リストカットは精神病の症状ではないはず」「大量服薬してしまう病気なんて医学書のどこにも載っていない」という愚痴が出てくるのも当然です。

私も人格障害は医療で担当すべきではない、と考えています。精神病院ではなく、適切な隔離施設で好ましい生活習慣を身に着けてもらった方が遥かに効果的であり、再発も防げるはずです。人格障害は薬で治らないので、その施設に医師が常駐する必要はありませんが、高齢者施設のように、訪問診療する医師は必要になるでしょう。なんにせよ、医療者よりも遥かに重要な人材は、入所者の社会復帰を手助けする人たちになります。家事や仕事やレクリエーションを管理・指導する「教員」の他、心理面のサポートを行い、家族との窓口となり、社会復帰の筋道を提案できる「社会福祉士」も必要になります。特に、社会福祉士は、隔離施設退所後も、数年間、定期的に家庭に訪問して、問題なく過ごせているか調べて、場合によっては強制的に施設入所させる権限を持たせるべきです。

精神病院ではなく、上記のような施設での対応が適切なのは、依存症や拒食症にも言えることです。なお、拒食症は「頭の中は食事のことばかりである」「頭で分かっていてもなかなか止められない」「他人が止めさせようとすると、本人は天才的な言い訳を考え出す」ので、依存症に含めるべきだと私は考えています。

次の記事に続きます。

中学受験会場の異常さ

前回までの記事の続きです。

受験場でお祭り騒ぎする国民」に書いたように、日本では入学試験の日に、校門前に塾関係者が集まり、お祭り騒ぎをする変な文化が定着しています。上の記事にも書いたように、あれを見るたび、戦時中の出征兵士見送りパレードを思い出します。お受験の「過保護性」や「保守性」が見える側面です。

中学受験の入学試験の日には、もう一つ奇妙な事実を発見できます。子どもたちが全員、親と一緒に入試会場に来ていることです。私はそれを見て「子どもだけではなく、親も一緒に面接するのか。なんてくだらない」と思っていました。しかし、親も面接する変な中学も確かにあるのですが、ないところがほとんどです。だから、親は来る必要がないのに、職場に特別な許可をとって遅刻してでも、わざわざ子どもの入試に同行しているのです。「そんなに心配なのか」と呆れるかもしれませんが、たとえ心配でも高校や大学受験にまで着いていくバカ親はいないので、それが一番の理由ではありません。なんと「子どもがちゃんと電車に乗れないから」が一番の理由なのです。

中学受験する子どもは大学生でも解けないような難しい算数の問題を解ける一方で、電車の乗り方すら習得できていないのです。この教育の歪さに、同行している親たちは誰一人として疑問を持たないのでしょうか。もし私が電車の乗り方が分からないので、入試会場まで一緒に着いていってほしい、と子どもに頼まれたら、「そんな訳の分からない算数の問題解くよりも、電車を乗り継いで目的地に行ける方がよほど人生で役に立つ能力だ」「入試会場まで自力で行けないのなら、入試を受ける資格はない」と説教しています。

余談ですが、親面接をする変な中学は、圧倒的に女子校が多いです(最難関の桜蔭学園もコロナ禍前まで毎年行っていました)。つまり、親に恵まれなかった時点で、日本の女性はエリートコースから外れる可能性が高くなるようです。日本のエリート女性は西洋のエリート女性と比較にならないほど保守的ですが、保守的な日本男性以上にマザコン連中ばかりだからかもしれません。

日本で女性が社会進出できない理由の一つ

前回の記事の続きです。

日本は中学受験でエリートになれるかどうかが決まってしまう不公平な国です。私のように地元の公立中学校に無試験で入り、ある程度世の中の仕組みを理解してから目標を持って勉強しても手遅れで、小学生の頃からママの指図通りに塾で英才教育を受けた連中にはなかなか勝てません。

実際、一流の塾に通って、一流の私立中高一貫校に通って、東大や京大の一流大学に合格するルートが存在し、前回の記事に出てきた狂人の佐藤亮子などはこのルートの踏襲に執念を燃やしています。

しかし、このルートを詳しく見ると、「こんなルートで日本のエリートを育てていいのか」と疑問に感じる点がいくつもあります。

東大の合格者数ランキングでは、開成、灘、筑駒の3校が常に最上位に位置します。これら3校ともが中高一貫校で、しかも男子校です。男女平等がこれほど叫ばれる昨今、日本のエリート男子たちが思春期の多感な時期に、女子と離れて勉強しているのです。日本のエリートを多く輩出する学校が男子校である歪な体制が50年も続いているから、日本で女性が社会進出しないのではないか、という批判は当然あるべきなのに、中学受験賛成派の朝日新聞は見て見ぬ振りをしています(そもそも、朝日新聞社員も中高一貫の男子校や女子校出身者が多いはずです)。なお、この体制に疑問を持つ能力が皆無の狂人・佐藤亮子は「受験に恋愛は不要」とまで公言しています。

かつて去勢男性だけが就ける公的な職業の宦官が世界中で存在していました。「愛情と友情を比べないでもらえないでしょうか」に書いた通り、男性は性欲が異常に強いので、去勢した男性は有能だと考えられたのかもしれません。しかし、現在、そんな異常な役職は世界中で存在していません。未来から振り返ると、思春期に異性なしで勉強する集団が政治と経済の中枢にいた現在の日本は(それに異議を唱える人すらほとんどいない日本は)異常と考えられるのかもしれません。私立大学はともかく、国立大学は、男子校や女子校出身者について入試点数2割引きのハンデをつけるか、あるいは一気に入学不可にする案もあっていいと思います。

それにしても、思春期に異性なしで勉強したり、受験に恋愛は不要と考えたりするなど、戦前の日本のようです。こんな保守的な考えを正義だと考える佐藤亮子が朝日新聞の教育版に毎回登場し、その夫の弁護士は共産党員です。現代の日本の若者が「共産党朝日新聞こそ保守的で、維新の党や橋下徹こそ革新的だ」と感じる理由の一端がここに現れているのではないでしょうか。

マザコン国家ニッポン

このブログをよく読めば分かりますが、私が購読しているのは朝日新聞です。朝日新聞には、朝日新聞EduAという別刷りの特別版がたまに入っています。実態は教育新聞というより、お受験新聞であり、最大のテーマは中学受験になります。お受験に力を入れる人たちが、日本で進歩的とみなされる朝日新聞を好んで読んでいる証拠でしょう。こんな「お受験新聞」なんて止めよう、朝日新聞は中学受験で人生が決まってしまう教育システムを推奨しているのか、保守的な学歴社会を容認するのか、と言い出す人が読者にも社内にもいないのでしょうか。

事実として、現在の日本社会を動かしている人物のほとんどは、中学受験経験者です。東大や京大に入る学生の多くは、中高一貫校出身です。自我の芽生える思春期に目標を持って勉強しても既に手遅れで、児童期の小学校までにどう勉強したかでエリートになれるかどうか決まってしまう現実があります。

残念な事実として、中学受験は、半分以上、子ども本人ではなく、その母が行っています。「中学受験は、半分、お母さんが受験しているでしょう?」と私が中学受験経験者に言ったことは30回以上あるはずですが、否定されたことは一度もないどころか、ほとんどの人は「あ~」と同意の返事をしていました。つまり、日本のエリートのほとんどはお母さんの言いなりになる子ども時代を過ごしています。マザコン国家ニッポンです。マザコン度ゼロを通り越してマイナスの私がこの国で生きにくいわけです。

朝日新聞EduAでは、子ども4人全員を東大医学部に合格させた佐藤亮子なる教育ママが毎回記事を執筆しています。コイツは受験の半分どころか「受験は母親が9割」と考えて、そのタイトルの本まで恥ずかし気もなく出した狂人です(本当です)。ありえないというか、あってはならないのですが、この本を買い求めた人が日本に何万人もいて、改訂版まで出版されています。「母親ではなく自分の努力で合格したんだ」と当事者の4人の子どもは出版を止めなかったのか、せめてタイトルは変えるように要求しなかったのか、という疑問は自然と出てくるはずなのですが、本を読む限り、子どもたちも母のおかげで日本最難関大学の最難関学部に合格したことを認めているようです(重要な情報なので書いておきますが、この狂人の夫は東大卒で、しかも弁護士なので、4人の子全員の東大理Ⅲ合格は、父の遺伝のおかげでもあります)。

ちなみに、とある中学受験の進学塾には、一流中学に合格した生徒たちが自ら執筆した「合格体験記」だけでなく、その保護者たちが記した「保護者体験記」なる冊子まで費用をかけて作成し、配布していたりします(これも本当です)。中学受験が親で決まる最たる証拠かもしれません。

それにしても、母によって、学校や社会のエリートになれるかどうかが決まるなど、情けないと同時に、不公平なシステムです。子どもは親を、母を選べません。本来、自由や平等を重視する「進歩的な」朝日新聞が、中学受験や上記の狂人の記事を定期的に付録にするなど、不公平な世襲制を容認する保守派と批判されても仕方ありません。ネトウヨなどの若い保守系の人たちが朝日新聞を「おかしい」「間違っている」「不公平だ」と批判したくなるのも、朝日新聞のこういった保守性にあるのではないでしょうか。

中学受験がいかにおかしなシステムであるかは、次の記事からも示していきます。

一流新聞社記者と私の差

前回までの記事の続きです。

「誰もボクを見ていない」(山寺香著、ポプラ文庫)の著者はこう書いています。

「犯人の少年に社会から救いの手が差し伸べられなかった理由を、もっと単純なものだと想像していた。分かりやすい『悪』があるのだと思っていたのだ。たとえば、児童相談所の対応の不手際、あるいは周囲の人の冷たく無関心な態度、などだ」

前回までの記事に書いたように、小学校4年生の時の先生、モーテルの管理人、児童相談所の職員たちは、自分なりに少年の心配をしていました。筆者の価値判断だと、「善意」が十分感じられる人たちで、間違っても「悪」ではなかったようです。しかし、現実に少年は「善意」の人たちに救われることなく、祖父母殺人事件を起こしてしまいました。

上記の関係者たちの対応に批判されるべき点もあると私は考えていますが、上記の関係者たち全員が少年を救うべきだ、救いたいと考えていたことまでは否定しません。私が上記の関係者の一人であったとしても、少年の母を口汚く批判はするでしょうが、情けないですが、現状の制度であれば、少年を母から引き離すことはできなかったと推測します。

だから、これは制度の問題です。救われるべき犯人の少年は母の洗脳から解放された後、「道ばたで見かける助けを必要としている子どもに、少しでも気持ちを向けてほしい」と総括して、著者はその言葉に感銘を受けて、タイトルまでその言葉から取っていますが、気持ちを向ける程度でネグレクトの子どもは救われません。本来養育すべきでない家庭環境で育つ子どもを救うためには、制度を変えなければいけません。日本の強すぎる親権を弱めるしかありません。前回の記事に書いたように、虐待が発見されて、一時保護すべきと児童相談所が判断した時にまで、「両親の同意を必要とする」という条件は即刻なくすべきです。もちろん、児童相談所が「善意」で虐待と判断したが、実際は虐待でなく、誤解だった可能性はあるので、父母が不服申請できるべきであり、不服申請がなくても事後検証する制度は必要ですが、現在のように虐待時に子どもを保護するのに虐待している親の同意が必要な理由はないはずです。

そもそも、生まれた頃からこの少年の家庭環境は好ましくなかったので、それに気づいた誰かが少年を救うべきでした。遅くとも、小学4年生の先生はそれを把握できていたので、この時点で、親権停止できるくらいの制度を作るべきです。また、こういった問題を解決するためにも、「家庭支援相談員」の制度は必須だと私は考えます。

上記の本では、CA(Child Abuse児童虐待)情報連絡システムが機能していないことも指摘しています。対象者が引っ越した後も、児童虐待の情報が引継ぎされる制度で、1999年にできています。この少年に対しても2回の失踪時にCA情報連絡システムが使われましたが、全く反応がなかったそうです。情けないことに、あるいはIT後進国日本らしいというか、CA情報連絡システムでは、全国の児童相談所に、あろうことかFAXで虐待児童の情報を提供します。情報を一元的に管理する機関もなく、年間100件以上の連絡票が届いてしまうので、それを全て記憶している児童相談所の職員など日本に一人もいません。こんな無意味なシステムなら、職員の業務を増やすだけなので、ない方がマシです。上記の本でかなりのページを割いて、虐待児童の情報を全国の児童相談所のネットで共有するシステムを作成すべきだ、と著者は主張しています。

ただし、私に言わせれば、その著者の発想もまだIT後進国日本らしいと感じます。虐待児童に限らず、全ての児童、全ての国民の情報をネットで共有すべきです。虐待に限らず、学校、家庭の情報を全てネットで共有すべきです。それは極端だとしても、以前の記事で主張した「日本が世界最高のAI国家になる方法」に近づけるべきだと私は考えています。考えの古い日本人がいくら拒否しても、いずれ日本でも必ずそんな制度が導入されます(断定します)。

医療の例でいえば、ヨーロッパでは何十年も前から、患者のカルテは全国の病院や診療所で共有しています。日本はいまだそれをしていないので、病院を変えるたびに、無駄な検査を繰り返しています。個人情報の漏洩のデメリットよりも、無駄な労力や費用を削減するメリットの方が大きいと保守的な日本人たちが気づくのはいつになるのか、と医療職の私はいつも思っています。

このように、著者の人間観、社会観に劣った点は多く見つかります。特に、犯人の主張に感銘を受けて、個人の善意でなんとかなる問題ではなく、制度を変更すべき問題だと本質に気づかないところは、著者が毎日新聞記者であることを考えると、絶望してしまいます。義務教育もまともに受けられなかった犯人が見当違いの意見を述べるのは分かりますが、どうしてエリートの一流新聞記者が「分かりやすい悪があるのだろう」と世間知らずな浅い見解を持ってしまうのでしょうか。ふと、著者の略歴を見ると、私と同じ氷河期世代でした。「こんな見識の浅い奴が新卒で一流新聞社に就職できて文庫本まで出版できているのに、自分がブラック企業で自殺を毎日考えて、こんな閲覧者の少ないブログの犯罪記事で愚痴しか言えない差はどこで、どうして生じたのか」と考えずにはいられません。

日本では親権が強すぎる

前回の記事の続きです。

川口高齢夫婦殺害事件の殺人犯である少年が小学校4年生を修了する時、母は息子の通知表を受け取って、「実家のある川口市に戻る」と学校の先生に伝えました。それは嘘で、実際はさいたま市に引っ越して、母が働いていた店の客の家で暮らし始めます。少年は義務教育を完全に受けなくなり、憲法義務違反になるのですが、住民登録をしていなかったので、行政が接触したのは、少年が中学2年の年齢になった3年半後です。その間、母は息子を自宅に放置して1ヶ月間も行方不明になったり、元ホストと再婚して、一度も産科にかからないまま娘を生んだりしていました。

義父と母と息子は2年間、お金がある時はモーテルに泊まり、お金がなくなるとモーテルの敷地に野宿する生活を送っています。義父は暴力を振るい、息子の前歯4本をへし折っていました。

義務教育期間中の少年が学校に行っていないことをモーテルの管理人は把握しており、それなりに心配もしていましたが、宿泊費は払ってもらっているので、子どもや母に不登校について話すことはありませんでした。モーテルには薬物取締りのため定期的に立ち寄る警官がおり、モーテル管理人は少年の不登校について少し話していたようですが、警官は深入りせず、特別な行動を起こしていません。

また、母が娘を出産した直後、埼玉県内の児童相談所は、事前に受診がない飛び込み出産した女性がおり、その女性は知人宅から金を奪って家族4人で行方をくらませたことを把握していました。その際に息子が学校に通っていないこと、一家4名の名前と生年月日も把握していました。しかし、住民登録していない一家に接触することはできず、この半年後、横浜市児童相談所が一家の情報を得ますが、この時の埼玉県の情報は引継ぎされていません。

児童相談所が一家に接触できたのは、ようやく一家が生活保護を申請したからです。母は行政の介入を嫌っていたので、おそらく義父が申請した、と「誰もボクを見ていない」(山寺香著、ポプラ文庫)は推測しています。

生後半年の娘を連れて、野宿を繰り返していた一家が横浜市中区で保護されたのは2010年8月、殺人事件の4年前です。乳児を連れての野宿生活から緊急性が高いと児童相談所は判断したようで、通常なら2人の職員が出向くところ、4人の職員で駆けつけました。しかし、この期に及んでも、2人の子どもを親から引き離すこと(一時保護)ができませんでした。虐待がバレることを恐れたのか、母と義父が「家族一緒でないとダメだ」と頑なに拒否したからです。

義務教育中の息子を学校に行かせておらず、乳児を連れて野宿しているのに、どうしてネグレクト(虐待の一つ)にあたらないのか、なぜ一時保護して、親と子を引き離さなかったのか、と後で再三指摘されました。もしここで一時保護されて、息子が適切な施設で育てられていたら、息子は母の洗脳から逃れられて、殺人事件も起こさなかったかもしれません。

まず確実なのは、この件はネグレクトであることです。しかし、ネグレクトは身体虐待と異なり、主観的な判断が入るので、一時保護がしづらい虐待になります。この時点で、息子は前歯4本が欠けていたので、身体虐待として一時保護されうるのですが、前歯欠損を児相の4名の職員は発見できませんでした。息子も虐待を訴えていません。

また、かりに虐待だとしても、一時保護は「原則として保護者や子どもの同意を得て行う必要」があります。この事件後の2016年に「子どもの安全確保が必要な場面であれば、保護者や子どもの同意がなくても、一時保護を躊躇なく行うべき」という運営指針が出されてはいますが、「父母の同意が必要」の原則に修正はありません。上記の本によると、2016年の指針変更によって、一時保護がやりやすくなったという声もないようです。

一時保護は虐待が発見された時にしか使えないのに、そんな時ですら、虐待している親と虐待されている子どもの同意を求めているのです。バカげています。

この例に代表的に現れていますが、日本では親権が強すぎるため、多くの悲劇が生じています。悲劇とまではいかないにしても、「保証人制度をなくした場合の金利上昇はいくらなのか」にも書いたように、日本では保証人制度が異常に蔓延しているので、「なぜこんな時にまで保護者の同意が必要なのか。そんな面倒な手続きが省略できれば、関係者全員にとって好ましいのに」と感じることが無数にあります。

2010年8月から半年間、一家は生活保護費を得て、簡易宿泊所で生活し、息子はフリースクールに通います。しかし、母はまたも保護費をパチンコやゲームセンダーにつぎ込み、横浜市中区の職員から保護費の使い方に指導を受けると、「近くの部屋の男性から襲われたので」と嘘の書置きをして、一家全員で簡易宿泊所を逃げ出します。

2011年5月から5ヶ月間、横浜市鶴見区で息子は住み込みの新聞配達の仕事をします。その間に住民登録をしたので、児童相談所が2回来ますが、娘の予防接種のサポートをした程度でした。息子が新聞配達で集金の仕事を任されると、その金に目をつけた母の指示で、息子が集金した金を持ち逃げします。再び一家は住所不明となり、以後、殺人事件発生まで、行政および児童相談所は一家に介入できていません。

次の記事で、このような悲劇を起こさないためにどうすればいいかを論じていきます。ただし、一番簡単なことは、児童相談所が「一時保護をするときに、両親と子どもの同意を原則必要とする」の削除になるでしょう。この条文を作った人の思考回路を疑いたくなるほど、異常な条件です。

児童虐待防止法の通告制度は空文化している

17才の少年が祖父母を殺害した川口高齢夫婦殺害事件では、日本の親権が強すぎるために起きた悲劇です。

少年の母はお金があると、ホストクラブやゲームセンターで必ず散財します。お金がなくなると、「お前のせいで金がなくなった」と息子を責めて、息子を通じて親戚相手にお金をせびらせるので(息子は祖母の姉から500万円相当もせびっている)、当然、ほぼ全ての親戚から拒絶されるようになりました。息子は小学校5年頃から義務教育すら受けさせられておらず、元ホストの義父から暴力を日常的に振るわれていました。金銭奪取目的で、息子に祖父母を殺させたのも母の指示です(母は裁判で否定したが、息子の裁判でこれが事実と認定される)。

責めを負うべきは実行犯の息子よりも、息子を劣悪な環境で育てた母であることに異論を挟む人はいないでしょう。事実、母は「犯罪事実の責任は息子より重い。後悔の念はうかがえず、規範意識が鈍磨している」と裁判でも批判され、懲役4年6ヶ月の刑が確定しています。しかし、母より責任が軽いはずの息子は懲役15年と母より重い罰を受けています。

事件後、息子に対する虐待(ネグレクト)が明らかなので、なぜ福祉の手が入らなかったのかに注目が集まりました。

「誰もボクを見ていない」(山寺香著、ポプラ文庫)によると、息子が小学校2年生の頃から、母はホストクラブに通い詰め、借金を何度も踏み倒しています。自宅ではホストたちが複数人居候し、母の友だちの風俗嬢たちが卑猥な会話をしていました。息子が学校に行かなくなったのも、母がゲームセンターに息子を連れていったりして、息子の生活リズムがおかしくなったからです。息子が無断欠席するようになると、学校の先生が自宅まで行って、母と金銭トラブルになった男が押しかけてきて玄関のチェーンを壊して入って、警察が来ているところに出くわしています。

この時点で、誰がどう考えても、こんな家庭で子育てすべきではありません。しかし、先生はこの件を児童相談所に通告しませんでした。少し調べてもらえれば分かりますが、この時は2004年の児童虐待防止法の改正後です。つまり、「児童虐待を受けた児童」だけではなく、「児童虐待を受けたと思われる児童」でも発見すれば、通告義務が発生することになっており、特に学校関係者はより早期発見に努めなければいけない、と法律に明文化された後です。だから、この先生は児童虐待法に違反をしているはずですが、先生が法的に罰せられないのはもちろん、「誰もボクを見ていない」の著者は先生を自宅まで何度も息子を迎えに行った「善意」の教師と書いています。「家庭環境に問題はあったが、少年はクラスに馴染んでおり、登校しない理由が分からない」と能天気なことを言う先生を目の前にして、著者は上記の法律違反について触れもせず、「信じられない現場を見たんですよね。どんなにいい学校環境でも全て覆すくらい家庭環境に問題があるとは考えられなかったんですか? あなたはそんな想像力もないのに教師をしているんですか?」という質問もしないままだったようです。

なお、この時、この先生が児童相談所に通告しなかった理由は判然としませんが、しても無駄だった可能性が高いことは、「誰もボクを見ていない」の続きを読んでいけば分かります。数年後、客観的に遥かに悲惨な状況になった時点でも、児童相談所は息子を救えていなかったからです。

次の記事に続きます。

生活保護の扶養義務を同一世帯に限定すべきである

「親ガチャ」という言葉があります。どの親に生まれたかで人生が決まってしまう側面が強い日本なら、もっと前から存在していてもいい言葉だったと私は思います。

アジアの国は知りませんが、法制度上、西洋先進国で、日本ほど家族の扶養義務が強い国はありません。それがよく分かるのが、下の生活保護(公的扶助)の要件です。

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西洋の国では、一般に、配偶者と未成年者の子どもしか扶養義務はありません。それより扶養義務の範囲が広いドイツであっても、同一世帯までです。だから、大人になり、親から世帯分離すれば、つまり家から出れば、親がいくら豊かであっても、親に子の扶養義務はありません。逆にいえば、親の家から逃げさえすれば、子どもは一人で健康で文化的な最低限度の生活を送れるのです。もちろん、公的扶助を受給するためには、なんらかの障害を証明するか、就職活動をしなければならないなどの条件はありますが、家族が金持ちかどうかは問題視されません。

だから、数年前に金持ち芸人の親が生活保護を受けて、世間でバッシングが生じたことを、多くの西洋人は理解できませんでした。「子どもが親の育て方を憎んで、お金をあげたくない場合でも、子どもが親を養わないといけないの?」が多くの西洋人の考え方です。この芸人の問題については事情をよく知りませんが、私も基本的に同意見です。

日本では、親子はもちろん、兄弟姉妹、さらには叔父叔母、甥姪、ついには祖父母、孫まで経済状況を調べられ、その中で一人でも豊かな人がいれば、その家族に経済的に頼る義務が生じます。一緒に暮らしていなくても、家族関係がいかに悪くても、基本的に考慮してくれず、その豊かな家族と同居するように強制されます。つまり、絶対に一緒に暮らしたくない豊かな家族がいる場合、最後のセーフティネットである公的扶助が受けられなくなります。この極端に広い範囲の家族の扶養義務制度こそが、日本で生活保護の捕捉率が他国と比べて異常に低い最大の理由でしょう。

この家族扶養義務の中で、とりわけ罪深いと私が感じるのは、住居の提供も入っている点です。私も1年ほど前に始めて知ったのですが、ヨーロッパだと、住居提供義務は家族ではなく、公的機関にあります。もちろん、家族が本人を同居させてもいいのですが、本人、家族のどちらかが拒否した場合、公的機関が住居を提供する義務が生じます。私は医療職に就いているため、患者さんがADL(日常生活動作)の低下により元の家に戻れなくなったので、患者さんの退院先がなくなる、という場面によく出会います。日本だと、まず患者さん家族の家への退院を考慮し、それが難しいなら、患者さん家族が、MSWなどの社会福祉士の力を借りながら、必死に退院先の施設を探すことになります。なぜなら、患者さん家族は患者さんの住居を提供する義務があるからです。しかし、ヨーロッパだと、同一世帯でなければ家族にそんな義務もなく、本人が自力で探すか、それができないほどの病気なら、社会福祉士が本人のための住居を探してきてくれます。

もっとも、ヨーロッパはともかく、アメリカやカナダはあれだけホームレスが多いので、公的機関に住居提供義務はあったとしても、それほど機能していないはずです。マイケル・ムーアの「シッコ」という映画では、入院費が払えなくなった患者がパジャマのまま路上に放り出される衝撃的な映像が流れます。日本ではまずありえない光景です。

アメリカでは、同居していない家族の収入は調べられないかもしれませんが、単に「金も仕事も住む場所もない」だけで公的扶助が受けられることもないでしょう。「だったら借金すればいい」と言われるだけなのかもしれません。

また、上記の「諸外国の公的扶助制度の比較②」資料は厚労省のHPから引用しており、それによると日本の公的扶助の基準は他国同様「全国統一」となっています。しかし、「一人の取りこぼしもない社会」にも書いた通り、現実には「水際対策」と言って、各役所の対応職員によって、生活保護の対象者枠に幅があるのは、多くの福祉職の知るところです。

実際のところ、選り好みしなければ日本で仕事がないはずがないので、親戚が豊かかどうかにかかわらず、65才以下で、障害も子どももいない人が日本で生活保護を受けるのはまず無理です。「ブラックな仕事しかない」「コミュ障なので接客業は無理だ」「体力がないから力仕事はできない」などといった言い訳が通用しないのは、世界共通なのかもしれません。

そういった点を全て考慮しても、やはり生活保護で親戚の扶養義務は同一世帯までに限定すべきと考えます。法律上の家族扶養義務の強さから、日本だと家族の束縛から逃れたくても逃れることができません。家族格差は単なる貧富の差以上に大きいこと、家族に恵まれたエリート連中が想像できないほどその差が大きいことに、世界中の全ての人、特に日本人全員がいいかげん気づくべきです。家族扶養義務の強さから、長幼の序が強化され、社会的な必要な改革も進まない側面も見逃せません。

イラク日本人人質事件では家族の態度が最悪だった

2004年4月に起きたイラク日本人人質事件で、家族の態度はひどすぎました。

この事件は、発展途上国支援を重視する左翼と、それを軽視する右翼の対立も絡んでいるので、左翼は人質びいきで、右翼は人質批判になっている傾向があります。しかし、問題の本質はそこではなく、家族の態度だったと私は考えます。

人質家族が大きな態度をとったニュース映像は現在、簡単には出てきません。バッシングの元凶なので、家族が削除要請を出しているのかもしれません。もし見る機会があれば、ぜひ見てほしいです。歴史の検証としても、この時の映像は残すべきです。

私も当時、この報道を見ていました。ニュースのテロップには「小泉首相は面会拒否」「家族の訴え政府に届いたか」と書かれているので、当時のマスコミはいつものように政府批判すればいい、と考えてしまったようです。

しかし、人質家族の被害者面はひどすぎました。瞬時に批判が殺到して、マスコミの報道姿勢も少しずつ変わってきます。人質が解放された後に、小泉首相福田官房長官もマスコミの前で堂々と人質批判をしましたが、それにより小泉政権の支持率が下がることもありませんでした。一方、多くの外国人は、イラク人道支援して、テロリストの人質となった被害者に日本で批判が集まったことに、驚き、ショックを受けました。

このブログを読めば分かる通り、私も国際貢献に関心が高いので、人質となった日本人を賞賛こそすれ、批判する気にはなれません。しかし、この時の人質家族の政府に対する高圧的な態度は、道徳的に問題がありすぎます。映像を見れば一目瞭然なのですが、これは「クレーマー」「モンスターペアレント」以外、なにものでもありません。外国人も、少なくとも西洋人なら、この時の人質家族の映像を見れば「いくらなんでも横暴だ。だから人質バッシングが起きたのか」と理解するのではないでしょうか。

この時の人質家族の態度があまりに傲慢だったので、以後、日本では外国で人質事件が起きても、人質家族がマスコミの前で「人質となった家族が心配」との発言さえ許されない空気ができてしまいました。小さな事件なのですが、「変化のスピードが恐ろしく遅い時代」の日本なので、18年も後の現在までその影響は続いているかもしれません。

しかし、ここは問題の本質に注目すべきでしょう。まず、この事件で罪を犯したのは、人質家族であり、人質ではありません。人質家族が横柄な態度をとったからといって、それを要求していない人質まで責められるべきではありません。だから、人質たちは帰国した後、事情が分かったなら、「家族が厚かましい対応をしてしまい、申し訳ありませんでした」とマスコミの前で言うべきだったと思います。それを報道陣の前で言っていれば、事後に紛争地域でボランティアする人たちの影響はかなり少なくなっていたはずです。

もう一つ注目すべき問題は、人質家族の要望はそこまでひどくなかったが、人質家族が要望を伝える態度がひどかった点です。「家族の命が心配」という気持ちまで否定する人はいないでしょう(現実には、私のように家族の命を心配する気持ちすら否定する奴もいますが、ここでは無視します)。しかし、そうだとしても、社会人として最低限の礼儀は必要です。私は医療者なのでイラク人質事件の家族映像を見るたびに、小児科で何度も遭遇したモンスターペアレントを思い出してしまいます。家族の命が心配だとしても、そこまで正気を失くしてもらっては困る、医療にも限界がある、他にも重症の患者がいるんだ、と思うことは何度もありました。

人質家族が「人命第一だからお前ら政府が責任持って、なんとしても救え!」と言うのは極端ですが、かといって全て自己責任で政府は見殺しでいい、も極端です。実際はその間のどこかの対応が社会的に妥当の場合が多いことは誰もが認めるのではないでしょうか。これについては「紛争地域のボランティアに作成させてもいい誓約書」の記事でさらに論じます。

もう一つ、こういった問題の背景には、日本の法体系として、家族の扶養義務が強すぎる点があります。そのため、たとえ人質が家族を批判したくても、いざという時に家族に頼れなくなるデメリットが大きすぎるので、家族を批判しづらい面があります。これは「生活保護の扶養義務を同一世帯に限定すべきである」の記事で論じます。

「真説毛沢東」の衝撃

毛沢東の記事を書いたので、毛沢東の通説を根底から否定する一般書の「真説毛沢東」(ユン・チアン、ジョン・ハリディ著、講談社+α文庫)を読みました。「マオ誰も知らなかった毛沢東」(ユン・チアン、ジョン・ハリディ著、講談社)の文庫版です。

張作霖爆殺事件の黒幕はコミンテルンである、西安事件で張学良は国共合作ではなく中国の統治者になることを目的としていた、その張学良の目論見が破綻したのはスターリンの指示による、1937年からの盧溝橋事件が日中全面戦争まで発展したのは国民党所属の共産党スパイ張治中が上海の日本軍を勝手に攻撃したからである。

どれ一つとっても、世界史の教科書を書き換えなければならないほどの驚愕の事実です。これらが事実であれば、1920年代~1940年代の中国の激動期、中国を裏で意のままに操っていたのは、コミンテルンであり、共産党であり、スターリンであったことになります。確かに、ソ連コミンテルンは徹底した秘密主義で、しかも重要な記録の多くを意図的に抹消しました。結果、ソ連誕生から崩壊までの間、世界中の多くの重大事件に共産党の陰謀説が出現してしまい、しかもその真偽が判定できない、という未来永劫消えない罪を共産党は犯しました。

上記の多くの新解釈をとると、コミンテルンにまんまと騙されていた日本は間抜けということにもなりますが、日本の右翼、特にネトウヨにとっては歓迎すべき「事実」でしょう。「張作霖爆殺事件はやはり日本の謀略ではない」「日本は中国を侵略する気などなかったのに、ソ連によって日中戦争を始めさせられたのだ」「確かに戦前の日本は中国に嘘もついたし、残虐なところもあった。しかし、その後にあなた方が統治者に選んだ毛沢東はもっと嘘をついたし、もっと残虐だったではないか」といった言い訳が使えるからです。

他にも、「真説毛沢東」はこれまでの通説を根底から覆す新説をいくつも出しており、国共内戦での国民党軍指導者に共産党のスパイが多すぎる点など、私も読んでいて「いくらなんでも嘘くさい」と思うことは何度もありました。しかし、荒唐無稽と学会から無視されず、それどころか著名な歴史学者が何名も大真面目に批判しています。毛沢東の生涯をまるで見てきたように書ききっており、他のどの本よりも毛沢東を「理解」できてしまう面は注目すべきでしょう。

エドガー・スノーの「中国の赤い星」だけから毛沢東を理解するのは間違いなのと同様に、この本だけで毛沢東を理解したと考えるのは間違いです。ただし、「中国の赤い星」よりも「真説毛沢東」は毛沢東を遥かに深く広く理解できるので、「真説毛沢東」以上の毛沢東伝記はなかなか出てこないのではないでしょうか。

朝鮮戦争の謎

どうして朝鮮戦争の開戦時にソ連は国連安全保障理事会で拒否権を行使しなかったのでしょうか。この疑問を考えた人は少なくないはずです。私に言わせれば、そう考えない人の方がおかしいです。

もしソ連が拒否権を行使していれば、国連軍が韓国を支援できませんでした。他国からの支援がなければ、北朝鮮が瞬時に韓国を破り、半島を統一していました。もちろん、安保理決議などなくても、なんらかの名目でアメリカが韓国を軍事援助していた可能性はあります。ただし、国連決議なしの派兵となると、イラク戦争同様、国内世論も国外世論もアメリカを批判するでしょうから(国連決議があった現実の歴史でさえ、朝鮮派兵はアメリカ国内で不満が多かった)、アメリカの北朝鮮攻撃は躊躇され、朝鮮戦争ベトナム戦争のように泥沼化していたかもしれません。まだスターリンも生きていましたから、最悪、朝鮮戦争が核戦争、つまり第三次世界大戦になっていたかもしれません。そうなると、日本を含めた世界の歴史は大きく変わったに違いありません。

冒頭の質問の答えとして「中国でなく台湾が安保理常任理事国であることにソ連は反対していて、安保理をボイコットしていたから」しか私は見かけたことがありません。この答えで納得できた人はいないでしょう。「ソ連は台湾の常任理事国入りも反対で、韓国への国連軍派兵も反対すればいいだけだ。安保理ボイコットまでする理由にはならない。ソ連安保理で拒否権さえ発動すれば、少なくとも国連軍は朝鮮戦争に関われなくなる。場合によっては朝鮮半島全体を容易に共産主義国家にできていた」と考えるはずです。

「国連軍が来なくても、どうせすぐアメリカ軍が来るから、結局は同じことだ」とスターリンは考えていたのだろうか、と私は長年、推測していました。

「真説毛沢東」(ユン・チアン、ジョン・ハリディ著、講談社+α文庫)によると、やはり世界中の国は、この時、ソ連が拒否権を発動するものだと予想していました。ソ連のマリク国連大使安保理の審議に戻る許可を出すよう、スターリンに要請していました。しかし、スターリンは拒否したようです。なぜでしょうか。

なんと、スターリンはこの時、アメリカ軍を朝鮮戦争に呼び寄せたかったみたいです。毛沢東も同じ考えでした。現在も当時も世界最強の軍事国家のアメリカが参戦すれば、朝鮮戦争は間違いなく北朝鮮に不利になるのに、どうしてスターリンはそんなことを望んだのでしょうか。

上記の書によると、スターリンには大きなメリットがあったようです。ソ連製兵器に依存している北朝鮮と中国に対して、アメリカがどのように戦争するかを見られることが一点です。また、スターリン以上に朝鮮戦争アメリカと戦いたがっている毛沢東は、莫大な中国の人的資源の力によって「数年かけて数十万のアメリカ人を殺し尽くす」つもりでした。スターリンの考える最高の計画は、消耗品としての中国兵の力により朝鮮半島アメリカを釘付けにしている間に、ソ連が西ヨーロッパ諸国を占領することでした。ソ連が西ヨーロッパ諸国に侵攻すれば、米ソ全面戦争は避けられませんが、スターリンはそうなる覚悟をしていたようです。スターリンはいずれ資本主義国家群と共産主義国家群の全面戦争は起こると予想していたので、資本主義国家側についている西ドイツと日本の二大軍事大国が動けない間に、全面戦争した方がいい、とも考えていたようです。アメリカがそのスターリンの考えを知っていたとなると、あれだけ日本に平和主義を要請していたGHQが、朝鮮戦争勃発後、手のひらを返して、日本に再軍備を求めたのも納得できてしまいます。

なお、「真説毛沢東」(ユン・チアン、ジョン・ハリディ著、講談社+α文庫)は陰謀論に満ちており、歴史学会で痛烈に批判されています。ただし、冒頭の質問に的確な答えを出してくれている稀な本なので、鵜呑みにしてしまう人は多いだろう、とも思ってしまいます。