未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

愛情と友情を比べないでもらえないでしょうか

バンクーバーで留学中のことだ。会話相手は私と同じく語学留学に来ている日本人女性である。私の移動時間の節約術に相手が感心したので、さらに時間効率について語った。

私「僕がルームシェアよりもホームステイを選択しているのは、食料を買う時間と食事を作る時間の節約です。これだけで少なく見積もって、1日1時間は英語の勉強時間を増やせますよ」

相手「確かに。みんな自由な時間を持ちたいとか言って、ルームシェアしていますけど、結局、自由な時間が減っていますよね」

私「そうですよ、ホントですよ」

いい調子だったので、ここで挑戦してみることにした。

私「ぜひどこかで食事でもしながら、これまでの留学体験などについてお話して、お互いの知識を広げませんか?」

相手の表情が一変して、急に見下したようにこう言った。

相手「ハハハ! その時間は無駄じゃないんですかあ?」

 

「友情と愛情のどっちが大事?」

私の人生で、この質問は女性以外から聞いたことがない。男にとっては、比べるまでもないからだ。私も彼女になる可能性のある女性との約束なら、よほど大切な友だちの約束よりも優先する。結婚したい女性となれば、生涯で最も大切な友人が瀕死の重体だろうが、なんの躊躇もなく女性と会うことを優先する。当然、もし私が瀕死の重体であったとして、大切な友人が私より彼女と会う約束を優先したとしても、私は一片の不満も持たない。

 

上記のバンクーバーで会った女性とはメアドの交換もできずに終わった。私が相手の言葉に怒って、その女性との会話を中断したから、メアドが交換できなかったのではない。なんとかその女性の気を引こうと必死で頑張ったが、うまくいかなかったのである。上のような(私にとって)極めて失礼な言葉を浴びせられても、私は全身全霊で怒りの感情を隠そうとしていた。その程度で怒っていては、とてもではないが、私に女性と交際できるチャンスなど巡ってこない。自分の努力の限界まで、プライドを捨てていたのである。それくらい、私の恋愛の優先順位は高かった。私の高すぎるプライドよりも、もっと高かった。

 

(女性はどうして結婚への優先順位がここまで低いのだろう?)

口では「結婚したい」と言っているのに、私が会ったほぼ全ての女性の結婚願望は、私の結婚願望の太陽のような大きさと比べると、米粒ほど小さいとしか思えなかった。もちろん、女性だから男性への警戒心を持っているだろうし、私と結婚したいと思う奇特な女性などいなかったこともあるだろう。それにしても、それを十二分に考慮したとしても、本当に結婚したいと思っているなら、そこまで簡単に私を振っていいのか、と思わずにはいられなかった。

 

「好みのタイプは?」と質問されたら、「相手に求めるよりも、相手の長所を見つけられる人になりたいです」と20才頃から結婚するまで私は答えていた。答えるだけでなく、本気でそう思っていた。私も子どもの頃は「髪の長い女性が好き」「優しい人が好き」「趣味が合う人が好き」などと言っていた。しかし、外見よりも内面が重要であるし、優しいの定義は自分の中でも曖昧であるし、趣味が合わなくても素敵だと思う女性はいくらでもいることに、20才になる頃には気づいていた。「好きなタイプ」の範囲に入らなくても、実際に自分が好きになる女性はいくらでもいる。自分が次に好きになる女性は、自分でも予想がつかない。周りの人を見ていても、さすがに30才になる頃には、男女ともに「好きなタイプは?」と聞かれて、上のような幼稚な返答をする人は、浅はかな人生を送っている奴だけだった。

「相手に求めるよりも、相手の長所を見つけたい」と私が本気で思っていた証拠に、私は女性に振られたことはあっても、振ったことはない。「この女と共同生活していくなんて無理だ」「本当にどうしようもない女だな」と思ってしまう相手だって、私から振ったことはない。1回か2回会っただけで相手の内面まで分かるわけがない、と私が知っていたからだ。次に会った時に、その女性の素晴らしい魅力に私が気づくかもしれない、と常に考えていたから、あるいは、考えようとしていたからだ。「可能性が低いなら、最初から断った方が親切」という考え方もあるが、私は基本的に同意できない。

とはいえ、正直に言えば、私も人生でたった1回だが、女性を振ったことがある。結婚の直前である。私より5才も年上の女性だった。私が出会ったときには、彼女は出産が難しい年齢だった。

「出産できること」が私の結婚の大前提条件である。これだけは譲れないほどの条件である。それでも、結婚を前提に、彼女と交際した。私自身が彼女と結婚したいと思って、交際していた。

どういうことか?

一つは、彼女は出産が難しい年齢であったが、出産が不可能な年齢ではなかったからだ。

しかし、それよりも遥かに重要な点は、「たとえ子どもがいなくても、彼女となら一生一緒に暮らしたい」と私が考えを変える可能性がゼロではなかったことだ。つまり、10年間以上死守してきた「子どもがほしい」という私の大事な願いであったとしても、女性のためなら、愛情のためなら、捨てることもある、と私は考えていた。それくらい、愛情の優先順位は高かった。

友だちよりも、家族よりも、仕事よりも、もちろん金よりも、自分の信念よりも、この世のありとあらゆるものよりも、女性もしくは結婚の優先順位は、私の中で高かった。

「そこまで高いと異常だ。そんなに結婚願望が強いから、返って引かれて、なかなか結婚できなかったんじゃないのか」

そう思われるに違いない。そんなことは私も十分承知していた。結婚願望の高さで女性に嫌われたら本末転倒なので、現実には女性との予定を優先しすぎることのないよう気をつけていた。それでも、あまりに高いので、その高さを見透かされて、女性に引かれていたことはあっただろう、とは私も思う。

 

「私よりそっち(仕事)を優先してください」

女性からこう言われて、私がショックを受けたことは10回以上はあるように思う。私の中で仕事と恋愛の優先順位など、天と地の差がある。仕事と家庭の重要度分配でいえば、「仕事0で家庭10だ」と結婚前から言っていた。やたらと倫理を重視しているわりに、医療職はもともと私が希望して就いた職業ではないので、結婚後の今でも「仕事0で家庭10」の考えは変わっていない。

 

私と同じような恋愛観の人は、男性であれ、女性であれ、一体、世の中にどれくらいいるのだろう。結婚前に書きたかった内容だが、結婚後になってしまった。全くまとまりがないが、とりあえず、載せておく。

一夫多妻を禁止するのは大多数の男性のためである

結婚制度が社会に必要な理由」の捕捉記事になります。

世界史上、一夫多妻の存在する社会は多くありますが、一妻多夫の存在する社会はほとんどありません。なぜかを考えた人はいるでしょうか。

一番大きい理由は、やはり男性は同時に複数の女性を妊娠させることは可能ですが、女性は複数の男性の子を妊娠することはできないからです。昔読んだ生物学の本には、雌の数と繁殖数のグラフが載っていたことを記憶しています。繁殖数は雌の数だけで決まり、極端な話、雄は一匹でもいればいいからです。

そういったsexの問題でなく、genderの問題も含んではいますが、現在の日本で自由恋愛になれば、下の図のようになります。ネットで調べてみたら、同様の図が多く出てきたので、今の若者の間では常識になっているのかもしれません。

 

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「自由恋愛の規制」≒「結婚制度」が必要な理由、特に一夫一婦制が社会に必要な理由は、上記のような自由恋愛のいびつさを解消することもあるでしょう。もっと端的にいえば、自由恋愛からはじかれるモテない男子を救う効用があります。一夫多妻は男性にとって有利な制度だと勘違いしている人は女性に限らず男性にもいると思いますが、大間違いです。一夫一婦制は大多数の男性にとっては歓迎すべき制度だと自覚すべきです。

同時に、「浮気をする男」が道徳的に好ましくないことは社会常識になっているのですから、「モテる男を好きになる女」が道徳的に好ましくないことも、そろそろ社会常識になってくれないでしょうか。浮気する男は、それを受け入れる複数の女性がいるから、成立しています。昔は、売春する女が道徳的に好ましくない社会常識はありましたが、買春する男が道徳的に好ましくない社会常識はほとんどありませんでした。最近では、両者とも道徳的に好ましくないとの社会常識がほぼできています。だったら、「モテる男を好きになる女」は、その男が既婚であるだけでなく、未婚であったとしても、好ましくないとの社会常識ができてほしいです。

真犯人よりも私を罰した者を恨む

もし自分が犯してもない殺人で有罪になったとして、真犯人が名乗り出たとしたら、その真犯人に対してどう思いますか。

「ぶっ殺したい!」

それが普通の反応ではないでしょうか。しかし、「冤罪の軌跡」(井上安正著、新潮新書)によると、弘前大学教授夫人殺人事件では、冤罪被害者は真犯人が名乗り出た時、「感動しました」と言っています。なぜでしょうか。

大前提として、真犯人の滝谷福松が名乗り出た1971年の時点で、1949年の弘前大学教授夫人殺人事件は時効を迎え、裁判で懲役15年となった那須隆は仮出獄していました。滝谷が新たに罰せられる可能性はゼロでした。また那須仮出獄中なので、とりあえずは塀の外、一般社会で生活できています。だから、滝谷が「本当は自分が殺した。裁判は間違いだ」と名乗り出たのは、無実の罪で罰せられた那須の名誉回復のためでした。滝谷は国家から罰を受けないものの、正直に名乗り出ることによって過去に見逃されていた罪について、社会から新たに不名誉を被ることになります。それを覚悟して、自分の罪で他人が不名誉を被っているのを見るのは忍びないと思い、那須のために滝谷は正直に語りだしたのです。那須が滝谷に感謝するのは、そんな背景があります。

滝谷がありのままの真実を証言をしたのに、あろうことか、再審請求は一度却下されています。無実の者に自白を強要して、その自白を元に有罪にしたのに、真犯人の自白は嘘だと判断したのです。もし私が那須だったなら「真犯人が名乗り出ても間違いを認めないなら、どうすればいいんだ」と途方に暮れるでしょう。何事も冷静な那須の顔がみるみる紅潮して「意外だ! 全く意外だ!」と叫んだのは当然です。

もっとも、滝谷が嘘をつくメリットがある、と考えられる余地はありました。再審請求して無罪が確定したら、刑事補償が出ます。これは決して安い金額ではありません。たとえば、東電OL殺人事件で冤罪が確定したゴビンダは15年以上も収監されていたため、1日12500円として6800万円も受け取っています(冤罪が確定した後の話になりますが、弘前大学教授夫人殺人事件ではまだ刑事補償の額は1日3200円と少なく総額1500万円ほどでした)。さらに国家賠償法による賠償金の請求も可能です(実際に弘前大学教授夫人殺人事件で認められた額は960万円)。関係者が口裏を合わせて、儲け話を企んだことも考えられます。ヤクザが関わる殺人事件では、「自分が真犯人だ」と嘘で名乗り出てくる者も間違いなくいるので、司法が警戒したのも無理はないかもしれません。

事態を好転させたのは、新証拠の出現ではなく、司法界で有名な1975年の白鳥判決です。再審開始の判定にも「疑わしきは被告人の利益に」の原則が適用される、との判決です。間違った判決が出ないために3回も裁判したのだから、新証拠が出たくらいで再審など開かないと頑なだった裁判所が変わったのです。最も端的にいえば、それまで新証拠によって誤判が生じる可能性が「100%」が求められたのに対して、「50%以上」に引き下げられたのです。この画期的判決によっていくつかの冤罪事件の再審が開始され、無罪が確定しましたが、弘前大学教授夫人殺人事件もその一つです。

再審は1976年に始まり、翌年には無罪が確定します。再審に深く関わった元検事は「(真犯人が名乗り出てから)再審開始までの5年間は、私にとって実に長い時間だった。本人家族にとっては、私の何倍も長かったはずだ」と再審裁判で語っています。その通りでしょう。

那須の母は再審が終わった後、「もう恨んではいない、今の生活を大事にしてほしい、と滝谷さんに伝えてください」と取材に答えています。おそらく、那須本人も同様の気持ちだったと思います。この時の那須の恨みは、真犯人よりも司法制度に向かっていたはずです。冤罪被害者が殺人の真犯人を恨まず、むしろ感謝までして、警察や検察たちを恨んでいるのです。日本の司法制度の欠点が生んだいびつな現象です。

無実の人を国家権力によって殺害した可能性がある

飯塚女児殺害事件は冤罪の可能性が高いです。日本の冤罪事件で多発する以下の要因が揃っているからです。

1,警察が見込み捜査をしていた

2,マスコミも見込み捜査が正しいとの前提で報道していた

3,足利事件で間違ったDNA鑑定した同一のメンバーがこの事件でもDNA鑑定を行っていた

4,既に十分に捜査したはずの車から1年以上経過して突如として新証拠が発見された

1について、ある新聞記者は「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)でこう証言しています。

「今考えても異様な捜査でした。捜査員が久間(犯人とされた人物)の顔写真を持って聞き込みにあたったため、地元住民の間では『久間が犯人である』と周知の事実のようになっていたし、車での尾行はカーチェイスのような状況になって、久間と直接トラブルになったことが何度もあったようです。県警の幹部が地元のラジオ番組に出演して、明らかに久間を犯人視していることが分かるような発言をしたうえで『人の心があるなら出てこい』などと呼びかけたこともありました。精神的なプレッシャーをかけるのが狙いとしか思えないような捜査でした」

そう感じた新聞記者がいる一方で、警察が最も疑う久間が逮捕された時は次のように報道されています。

「執念の捜査実った」(毎日新聞

「身近に容疑者、やり切れぬ」(朝日新聞

久間が真犯人と断定しているような書き方です。しかし、さすがに1990年代であり、警察捜査に疑問を感じた記者もいたので、次のような記事もありました。

「捜査幹部は『ミクロの世界のものを対比し、一つひとつ積み上げた成果』と自信をのぞかせるが、どれも状況証拠の域を出ない」(読売新聞)

3のDNA鑑定を行った者たちは坂井活子のグループです。坂井は「でっちあげ血液鑑定人の古畑種基」と同じく「でっちあげDNA鑑定人の坂井活子」として歴史に名を刻みそうなほど間違ったDNA鑑定を量産してしまっています。

4も常識的に考えれば、ありえない発見です。久間は事件から半年後に新車購入のため、事件時に使用したと警察が推測している車を売却します。この車を警察は押収して、徹底的に捜査しますが、なにも出てきませんでした。かりに久間が犯人だとしても、証拠隠滅してから売るでしょうから、当然です。しかし、1年以上たった後に、微量の血痕と尿が突如として発見され、それが被害者の女児と一致するというのです。

1960年代までの冤罪事件と大きく違うのは、飯塚女児殺害事件だと容疑者が最後まで自白しなかった点です。警察や検察に対してだけでなく、久間は裁判でも死刑確定後でも自白していません。

飯塚女児殺害事件では、検察側が証拠隠滅を図ったのではないか、と疑われるような時間経過があります。たとえば、足利事件でDNA鑑定の杜撰さが分かり、東京高裁が再鑑定を認めたのは2008年12月です。しかし、久間はその直前の2008年10月に処刑されています。同じく足利事件の冤罪発覚を受けて、古い方式で実施されたDAN鑑定の証拠品の保全を2009年6月に全国地検に通知します。しかし、2009年5月に飯塚女児殺害事件で保全すべき証拠品は「いずれも廃棄処分、あるいは還付済みであり、当庁には保管してありません」との福岡地検の通知が再審請求中の弁護士の元に届きます。足利事件のような再鑑定はしようと思っても、もうできないようです。

冤罪の可能性がある死刑はなかなか執行されないものですが、飯塚女児殺害事件では死刑確定してから、わずか2年で執行されています。この後、「取り返しのつかない不正義を日本は犯したのではないか」との疑念から、いくつもの冤罪を訴えるテレビ番組が放送され、本が出版されています。

拷問王の紅林麻雄を教祖にしてしまった日本

現在のwikipediaで拷問王として載っている紅林麻雄は検事総長賞など500もの表彰を受け、その全盛期には「国警の星」などと激賞されていました。当時から紅林は「証拠などなく勘で犯人だと分かった」とあってはならない理由で犯人を特定していたことを堂々と自慢していました。山崎兵八など、この捜査手法に危険性を感じた警察官もいたようですが、ほとんどの警察官は何百回も表彰された紅林の推理が正しいと信じ切っていました(山崎兵八は紅林の全盛期にただ一人、その異常性を告発した人物で、それがために退職させられ、精神障害者として運転免許証をとりあげられ、家族全員が村八分にされた悲劇の人物です)。もはや紅林教と言っていいほど非科学的な警察集団が静岡に存在していました(あるいは、存在しています)。紅林教団が冤罪事件を量産したのは必然でした。

大きな事件だけでも、幸浦事件、二俣事件、小島事件、島田事件で紅林は無実の者を拷問で自白させたことが分かっています。まだ裁判で確定していませんが、袴田事件も紅林の部下が起こした冤罪です。他の小さな事件も含めると、紅林教団が生じさせた冤罪は数十件になると推測します。

紅林はありとあらゆる拷問方法を思いつき、自らはそれを実行せず、部下にやらせていました。容疑者に焼火箸を耳や手にあてて、バケツに排泄物を垂れ流しにさせています。紅林が行ったのは取り調べの拷問だけでなく、自分の直観に合致しない容疑者の捜査妨害、自分の直観に合致する容疑者の証拠捏造も上記全ての事件で行われています。

そのうちに紅林の強引すぎる捜査手法とそれによる冤罪が明らかになり、紅林は世間からも警察内部からも非難され、警察を辞職します。その2ヶ月後、脳出血で55才で亡くなりました。

ここまで道徳に反する紅林が何百回も公的に表彰され、部下たちに盲目的に従われた事実が恐ろしいです。そして、紅林のような人物が今後日本に出てこないと自信を持って言えない自分が情けないです。

でっちあげ血液鑑定人の古畑種基

戦後の冤罪事件を調べたことのある人なら、古畑種基と次の記事で紹介する紅林麻雄は嫌でも記憶に残るでしょう。

日本の冤罪事件がどれほどあるか私は知りませんが、世間で知られるほどの冤罪事件になれば明治から数えても100に満たないでしょう。そのうち一人の人間が関われる数となると、せいぜい数件に過ぎないはずです。それにもかかわらず、古畑の誤りが引き起こした事件は裁判で後に無罪と認められた稀な例だけで4件に及びます。

古畑は法医学の天皇との異名を持つ人物で、血液型のA因子とB因子に対してO因子は劣性であることを証明しています。その業績の価値は私も認めますが、血液鑑定に関しては問題のある結果を続出させています。島田事件では「胸部のところに革皮様化があるから、これは死後の傷でない」と法医学的にありえない発言をしました。「権力の犯罪」(高杉晋呉著、講談社文庫)によると、同じく島田事件の血液鑑定をした他の医師から「法医学の常識をふみ外した間違いです。医学生ならいざしらず、古畑先生がなぜこういう鑑定をされたのか」と疑問を持たれています。このように他の医師の血液鑑定と矛盾する鑑定結果を古畑は量産しており、財田川事件にいたっては以前の自身の鑑定とすら矛盾する鑑定を出しています。

普通に考えて、それまでの血液鑑定で血液の付着はわずかとなっているのに、古畑鑑定で突如として鮮明な血液付着が何個も発見されたとしたら、古畑鑑定の前、あるいは古畑鑑定の最中に新しく被害者の血液がつけられたとしか考えられない(弘前大学教授夫人殺人事件では実際に裁判でそう判定されて冤罪が確定している)のに、その疑問を口に出さないばかりか、いくつもの裁判で検察側に必要以上に有利な証言をしています。この非科学的な鑑定について「権力の犯罪」では、古畑自身が検察謀略の一味であることを自供したようなものだ、とまで書いています。古畑が検察謀略の一味と断定はできないでしょうが、そう批判されても仕方ないほど、古畑は悪質な鑑定、悪質な発言を繰り返しています。

古畑鑑定により無実の人を何年も収監させている事実、それも1人でなく4人以上も収監させてきた罪を考えると、上記の学術業績も吹っ飛び、もはや極悪人として歴史に名を残すべきとしか私には思えません。こんな瑕疵鑑定を続出させる奴に、何度も鑑定させた検察あるいは公権力は今からでも謝罪すべきと私は考えます。

ここで恐ろしい事実をつけ加えておきます。古畑が関わった4つの冤罪事件、弘前大学教授夫人殺人事件、財田川事件、松山事件、島田事件で、全ての容疑者は犯人でなかったのに、自白させられています。そして、その自白の供述調書が最大の証拠となって、裁判で死刑判決をくだされていました。まさに「日本では自白が作られ」、「日本では検察が犯罪を作り出せる」の実例です。

余談です。多くの方が想像している通り、医学部は子どもの頃から勉強ばかりしてきた奴しか入れません。その中でも特に勉強しかできない奴が研究医になります。研究医とは、患者さんの診察や治療は全くせずに、研究ばかりしている医者のことです。患者さんを含めた一般人と交流する機会がろくにないので、研究医はコミュニケーション障害の極地に到達します。上の古畑はその代表例でしょう。この問題を少しでも是正するためにも、海外のように、研究室内で教授にも自由に発言できる雰囲気を作る、それが作れないなら教授にさせないくらいの制度を作るべきでしょう。

狭山事件の非合理的な結論

前回の記事の続きです。

石川一雄は弁護士を全く信用せず、一方で、「10年で出す」と嘘をついた長谷部警部を信用していました。にわかに信じられないことですが、一審で死刑判決が出ても、長谷部警部からの手紙が来ていたせいか(もちろんその手紙には裁判の証拠になるので10年で出すとの言葉はありません)、実際は10年で出られると安心していました。拘置所職員も、死刑判決が出ても石川は全く動揺せず、むしろ朗らかだった、と後に裁判で証言しています。

一審で全く抗弁しなかった石川にとって控訴をする必要はないのですが、刑務所の仲間から「死刑判決を受けて控訴しないのはアタマがおかしい」と言われたのにカッとなって、判決翌日に控訴します。この時、石川は控訴の意味もよく分かっていなかったようです。

その1ヶ月半後に東京拘置所に石川は移監されます。ここで石川は兄に始めて面会し、兄にはアリバイがあることを知ります。石川が自白したもう一つの理由は、兄が真犯人であると長谷部警部に思い込まされたからです。さらにもう一つの理由は、長谷部警部に「おまえを生き埋めにしてもかまわない」と脅されていたからです。自分が生き埋めにされたり、兄が死刑になったりするくらいなら、既に犯した別件の本来の罰である10年で済むのなら、犯していない誘拐殺人についても自白した方が得と考えるのは理にかなっています。

東京拘置所に来た石川に、荻原佑介という石川と同じく被差別部落出身の怪しい右翼が何度も面会しに来ます。荻原は「一雄、頭を下げるな。胸を張れ」と法廷で無実を訴えるように石川を励まし、毎日のように石川の実家にも凄まじい爆音のバイクで来ます。荻原は酒臭く大声でわめき、そこらじゅうに唾を吐き散らして、石川の家族を辟易させています。しかし、インテリで紳士的な弁護士たちよりも、言い方の乱暴な熱血漢の右翼の方を石川は信頼しました。これが長谷部警部からの呪縛から解放されるための儀式だった、と「狭山事件の真実」(鎌田慧著、岩波現代文庫)には書いてあります。

控訴審が始まると、一転、石川は犯行を全面的に否認します。この頃から石川は警察から10年で出られると言われたことを弁護士たちにも話し始めます。石川の自白のカラクリが分かった弁護士は俄然張り切りましたが、なにを思ったか、石川は弁護団全員を解任します。

実は、弁護士たちは全員共産党系でした。石川の兄が同郷の共産党議員に頼んで、手配してもらった弁護士たちだったからです。右翼の荻原は共産党を蛇蝎のように嫌っていました。その荻原の情熱への義理立てとして、共産党系の弁護士たちを解任したのですが、有能な弁護士たちに無報酬で仕事をお願いしていた石川の兄が激怒して石川を翻意させ、なんとか同一の弁護士たちが再任されます。石川はどこまでも世間知らずでした。

後に石川が出版した「獄中日記」からの抜粋です。

「殺人犯にしたてられた経緯を苦しんで、苦しんだ末に理解し、警察の恐ろしさを知らされた時、そして、弁護団に抱いていた私の間違った考えが分かった時、私はこの独房の中で声をあげて泣きました。後から後からつのり来る悔しさにあふれる涙は止まらず、これほどまで見事に、警察のワナに陥ってしまった自分の無知を恨みます」

改めて調べてみると、石川の供述調書はおかしなところが多数ありました。

1,10名以上の警察が2時間以上もかけて2回石川家の家宅捜索をして、なにも見つからなかった後、誰もが気づきそうな石川家の入口の鴨居で突然、被害者の万年筆が見つかった

2,屋外で殺害された後、雨がかなり激しく降っていたのに、遺体の衣服は濡れていなかった

3,被害者の防水加工されていない腕時計が屋外で2ヶ月たった後に発見されたのに正常に動いていた

4,脅迫状を書いた用紙は妹のノートだった、と自供しているが、家宅捜索でもこのノートは出てこなかった

5,自供では扼殺(手で首を絞めて殺す)となっていたが、上田鑑定にて絞殺(ひもなどで締めて殺す)であることが分かっている

その他にも石川の供述調書が事実でない証拠はここに書ききれないほどあります。犯行当時は石川を極悪人に仕立て上げることだけに執心していたマスコミも手のひらを返して、石川を擁護しはじめます。

しかし、控訴審は石川を無期懲役減刑しただけでした。理論的にいえば、石川は犯行事実を全面的に否定したので、それを正しいとして無罪か、それを誤りとしての死刑かのどちらかしかありません。しかし、石川も弁護士たちも訴えていない情状酌量を裁判官は突如として持ち出し、無期懲役としました。「石川の供述調書が事実でない可能性が高いのだろうが、無実とするのはいきすぎなので、死刑ではなく無期懲役で我慢してもらおう」と裁判官の思考を上記の本では推量しています。私にとっても、それ以外の理由が考えられないほど、この判決は非合理的です。最高裁判所も、控訴審の判決を支持しました。結局、石川は31年7ヶ月も獄中で過ごすことになります。

石川は1994年に仮出獄して、その後に再審請求を3度行っています。石川は現在82才のはずですが、いまだ再審は開かれていません。

狭山事件での警察の許されざる嘘

これまでの記事にも書いたように、日本の冤罪事件は、容疑者の自白が異常に重視されて生まれているものが少なくありません。しかも、その自白が、検察や警察による身体的、精神的虐待によって生じていたりします。狭山事件では身体的および精神的虐待だけでなく、警察の卑怯すぎる嘘により、一人の無実の青年の人生が台無しになっています。

狭山事件については有罪を支持する本も出版されていますが、2010年出版の「狭山事件の真実」(鎌田慧著、岩波現代文庫)で有罪とする証拠は全て論破されていることは、普通の思考力のある人なら分かるでしょう。

wikipediaには今も脅迫状と石川の筆跡が似ている写真を載せていますが、これは証拠にはなりません。世界史上で最も有名な冤罪であるドレフュス事件でも筆跡鑑定が有力な証拠となっていましたが、筆跡鑑定がそれほど科学的でないことは既に証明されています。そもそも、石川は筆記能力があまりないのに、脅迫状を見ながら警察の命令で数十回も同じ文を書かされているので、そのうちのいくつかの文字が似てしまうのは当たり前です。これらを証拠として筆跡鑑定で一致すると裁判で判定されたことに石川は後に「怒りを禁じ得ません」と述べています。

狭山事件は、1963年5月1日から埼玉県で発生した誘拐殺人事件です。警察は人質と金の交換場所に張り込んでいたものの、現れた犯人を捕り逃してしまいます。同じ年の3月に東京の吉展ちゃん誘拐事件でも警察は誘拐犯の指定した場所に張り込んでいたものの、お金を奪取した犯人を捕り逃していたので、警察への批判は強まっていました。狭山事件の死体が発見された5月4日には、警察庁長官引責辞任しています。

狭山事件でも真犯人がなかなか捕まらないことに警察は苛立っていました。そう本にはありますが、「真犯人」の石川一雄が逮捕されたのは5月23日なので、事件発生からわずか3週間で警察は殺気立っていたようです。

この時点で石川だけが容疑者だったわけではありません。しかし、石川逮捕翌日の新聞各社は「ホッとした地元」「捜査の苦労実りそう」「目の前に(犯人が)いたとは……」「底知れぬ不気味な石川」「アリバイ工作の疑い濃い」と真犯人が捕まったかのような報道を繰り返しました。石川の逮捕容疑は窃盗、暴行、恐喝未遂であり、誘拐殺人容疑ではなかったのですが、最初から石川の取り調べは狭山事件についてばかりでした。つまり別件逮捕で違法なのですが、それについての指摘も非難も新聞各社は一切していません。

警察とマスコミがグルになって冤罪をでっちあげる構造は、残念ながら、ほぼ全ての冤罪事件で発生しています。

警察では当たり前のように石川に手錠をかけて、長時間の尋問をします。しかし、もともと「不良」であった石川は気性も荒く、警察に暴力を返すこともあったようで、簡単に自白しません。6月12日の東京高検との打ち合わせで、それまでの状況証拠(筆跡鑑定や足跡鑑定)では起訴は無理(裁判で有罪にできない)と判断されていました。6月13日に警察は別件で起訴して、引き続き狭山事件について石川を責め立てます。6月17日に勾留期限が切れ、石川は保釈されますが、その直後、留置場の門をくぐる前に強盗、強姦、殺人、死体遺棄で、つまり狭山事件の容疑者として再逮捕されます。

この再逮捕が石川に大きな勘違いを生じさせます。この時点で石川に3人の弁護士がついていて、6月18日に裁判所で勾留理由開示があると石川に知らせていました。しかし、石川は6月18日に正式な裁判が始まると勘違いしてしまい、再逮捕のため裁判が始まらなかったので(再逮捕のため裁判所に行かない可能性があることも弁護士は石川に伝えていたが、石川はそれを理解していなかった)、弁護士を信用しなくなったのです。このことを取り調べ中の警察に告げると、警察は「弁護士は嘘つきだからなあ」と石川に共感したそうです。もともとインテリの弁護士たちと、小学校もまともに通っていない石川は水と油であり、以後、控訴審開始まで石川は弁護士を全く信頼していませんでした。

再逮捕から3日後の6月20日、ついに石川は自白してしまいます。なぜ石川はしてもいない罪を自白してしまったのでしょうか。その最大の理由は、長谷部梅吉警視の「10年で出してやる」という嘘を石川が信じてしまったからです。既に認めている別件の犯罪でも10年は刑務所に入れられると警察に騙されていた石川にとって、これは渡りに船の提案でした。上記のような弁護士への不信感を逆手にとって、「(嘘をついても平気な弁護士と違って)警察は嘘をつくとクビになる。10年で出すと言えば、必ず10年で出してやる」と間違いなく長谷部は言ったと石川は後に裁判で証言しています。この10年で出す約束について、石川は警察と縁が切れるまで、執拗に確認したことを証言しています。

警察が刑を軽くしてやるから自白しろ、と嘘を言うのは、残念ながら日本の警察の常套手段です。石川はもちろんですが、ほとんどの一般人は刑事訴訟法などなにも知りません。まして、容疑者は一秒でも早く警察の強引な尋問から逃れたいと思っています。警察が量刑を決めるのではなく裁判所が決めることは少し考えれば分かるとエリートは思うでしょうが、この嘘にひっかかった日本人は無数にいるはずです。このような警察の嘘は、身体的あるいは精神的虐待と同等かそれ以上に道徳的に許されないはずです。

次の記事に続きます。

反省していた犯罪者を開き直らせた検察の不正義

前回の記事の続きです。

熊谷男女4人殺傷事件の尾形が裁判後に開き直った最大の理由は、警察や検察や裁判官の不正義です。

日本では自白が作られる」に示した通り、本当に残念ですが、日本の検察は調書を捜査側の好きなように作成します。この事件で、尾形の調書の最後のページは署名以外、差し換えられたと尾形は主張しています。さらに、共犯のマキは「事実と違うことは分かっていたけど、無理やりサイン・指印された」と裁判で言っています。「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)によると、尾形の言う通り、調書の差し換えは事実だろうと弁護人も考えていますし、私も事実と推定します。尾形の人間性や犯罪はともかく、正義を体現すべき警察や検察がこんな卑怯な手法を使うことは許されません。

尾形が我慢できない不正義はもう一つあります。

犯行時、泥酔状態だった尾形は二度精神鑑定を受けています。一度目は裁判所が認定した医師で、一人目殺害時の責任能力が著しく低下していたと判断しました。また、尾形は自分にとって不利になることも全て話しているため、その医師は調書よりも尾形の言うことの方が信用できると証言しています。

二度目の精神鑑定は検事が推薦した医師により行われます。この医師はろくに尾形から話を聞かず、調書を参考に鑑定書を作成しました。理性的に考えれば最初の鑑定が正しいことは明らかなのに、裁判官は二度目の鑑定を採用します。尾形の罰を重くしたいために、よりおかしな鑑定書が正しいと認定したのです。

刑事事件の精神鑑定がいかにいいかげんかは、これからの記事でも書いていくつもりです。

繰り返しになりますが、尾形は事件後、死刑も受け入れるつもりでしたし、反省もしていました。しかし、上記の2つの不正義に憤激し、「死ぬかわりに、反省もしない!」と考えを変えました。これは検察捜査および裁判の失敗と断定していいでしょう。

ところで、上記の「絞首刑」の記述には疑問を呈したい部分があります。尾形の犯罪の凶悪性を認める一方で、被害者たちがまるで善人かのように書かれていることです。しかし、尾形に殺された一人は風俗店の店長ですし、もう一人はそこで働く風俗嬢です。尾形に車で連れまわされた残り二人のうち、一人はやはり同じ店の風俗嬢で、もう一人は殺された風俗嬢の友だちで「飲食店勤務」だそうです。少なくとも私の価値観では、善人よりは悪人の側面が遥かに強そうな人たちです。

生き残った女性二人は裁判で次のように訴えています。

「私はあなたにかけがえのない友だちを奪われた。あの子の代わりに私が死ねば良かったのかもと思った日もあります」

「あなたが死刑になったとしても亡くした者は返ってこないけど、死をもって罪を償う義務がある。人の人生をメチャクチャにして二人の将来を奪った。あなたの将来も奪われて当然です」

「傷が痛むたびに、思い出したくないのに、事件の時のことが、一コマ一コマ思い出されてしまいます。私は尾形がこの世にいる限り恨み続けるでしょう。私が望む刑は死刑だけです」

普通に考えれば分かると思いますが、これらは水商売の被害者たちから自然に出た言葉ではありません。90%くらい、検察の作文だと思われます。こんな表層的な言葉を裁判で並べられても、私だったらバカらしくなるだけかもしれません。

尾形の手紙からの抜粋です。

 

他の死刑囚を見ると、本当に殺人をやった人なのかと疑えるほど普通の人です。俺はぐれ始めてから、ヤクザやその他のアウトローを社会や少年院、刑務所で数多く見てきましたが、それらの人たちと比べてもかなり気の弱く大人しい印象です。

どのような事件を起こしたのか知りませんが、いろいろな理由により精神状態が乱れ、普段ならまともに判断できることができなかっただけなのだと思います。

だから、誰にでも死刑囚になる可能性はあると思います。

本当に心から反省している死刑囚を執行することで罪を償うことになるのでしょうか。罪を背負って生きていくことが、本当の意味での償いになるのではないでしょうか。

被害者や遺族の感情は、自分で犯人を殺したいと思うのが普通だと思います。しかし、それでは、やられたらやり返すという俺が生きて来た世界と同じです。

ほとんどの死刑囚は毎日反省し、被害者のことを真剣に考えています。そういう人たちを抵抗できないように縛りつけて殺すのは、死刑囚がやった殺人と同等か、それ以上に残酷な行為ではないのですか?

 

尾形の人間性は極めて悪く、その更生は難しく、犯した罪は重い、と私は考えています。死刑はともかくとして、尾形への極刑に私は賛成します。それはそれとして、尾形の意見には賛成したい部分もあります。

もう一つ尾形の手紙を紹介します。

 

一般の人は信じないと思うけど、今の刑事は事件のでっちあげも日常的にやっているし、ましては調書の改ざんなんて当たり前にやっているのです。

だけど無実を訴えても今の裁判では無罪になることはないし、たとえ無罪を勝ち取っても年月がかかりすぎるから、懲役に行った方が早く出られるので皆、我慢しているのです。

俺の殺人などは事実ですが、事件の内容はかなりでっち上げなのです。だから俺は100%無罪の死刑囚は何人もいると思っています。

 

あってはならないことですが、無実の死刑囚がいるのは事実です。再審で無実が認められたケースもあります。次の記事からは冤罪事件を取り上げます。

死刑よりも反省し、被害者に償うべきでないのか

下は熊谷男女4人殺傷事件で死刑が確定した尾形英紀の手紙で、「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)からの抜粋です。

 

俺の考えでは死刑執行しても遺族は、ほんの少し気がすむか、すまないかの程度で何も変りませんし、償いにもなりません。俺個人の価値観からすれば、死んだ方が楽になれるのだから償いどころか責任逃れでしかありません。

だから俺は一審で弁護人が控訴したのを自分で取り下げたのです。死を受け入れる代わりに反省の心を捨て、被害者・遺族や自分の家族のことを考えるのを止めました。

なんて奴だと思うでしょうが、死刑判決で死をもって償えと言うのは、俺にとって反省する必要ないから死ね、ということです。人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、繰り返さないようにするのではないですか。将来のない死刑囚は反省など無意味です。

 

1977年生まれの尾形はサラリーマン家庭で育ちます。尾形はごく普通の少年だったと本では書いてありますが、学業成績は悪く、指導要録には「友に誘われると手悪さあり(小3)」「根気に欠け、分からないことでも投げ出してしまう(小6)」「友だちとの遊びの中で不正の行動に走りやすいところがある(小6)」と書かれています。私の感覚では、小学生から不良です。

当然、中学の後半からは不良行為に拍車がかかり、タバコやシンナーを吸い、バイクを盗み、同級生との金銭トラブルから傷害事件を起こしています。中学生のうちから暴力団関係者とも交友を深め、高校2年で退学した後は、地元の暴力団事務所に入り浸るようになります。

飲酒の上での傷害事件などを起こし、静岡と東京の少年院に2度にわたって入所しました。出所後は実家で暮らしますが、再び酒に酔って、暴行や恐喝未遂事件などを引き起こし、1998年に懲役1年6ヶ月、保護観察付き執行猶予5年の判決を受けています。

判決後の一時期、飲み屋で知り合った女性と結婚し、長女が誕生したため、暴力団から足を洗い、コピー機のトナー製造会社に派遣社員として真面目に勤務していたそうです。2年間はトラブルを起こすこともなかったので、保護司は2000年6月、保護観察の仮解除に踏み切ったそうです。私に言わせれば、暴力団とも交流のあった奴をわずか2年大人しくなったからといって、保護観察の仮解除をするとは甘すぎます。

事実、早くも2001年1月に尾形は酒に酔って暴行事件を起こします。執行猶予中だったので、懲役2年の実刑が科されます。

ある捜査県警者は後にこう語っています。「確かにもともと病的にカッとしやすいところはあるが、普段は極めて理性的な男だった。特に酒を飲んで興奮すると手がつけられないような状況になってしまうことがある。トナー製造会社勤務の頃、落ち着いた生活をしていたのは、職場がシフト制で酒を飲む機会が少なかったこともあるんじゃないだろうか」

もしそう考えたなら、尾形に断酒治療を受けさせるべきでした。

外見上、尾形が真面目だったことは事実なようで、2002年10月には仮出所が許されています。しかし、違法なゲーム喫茶で働きはじめ、再びヤクザ者との交流が深まります。2003年7月には自分でゲーム喫茶を開業し、客はヤクザばかりでした。

同じころ、児童自立支援施設を出たばかりの16才の少女マキを尾形がナンパして、マキと性交渉を重ねます。マキは風俗店で働いており、そこの店長とも交際していました。尾形は「マキは俺の女だから、ちょっかいだすな!」と店長を脅していました。

犯行前日、尾形はマキとラブホテルで過ごし、2~3時間しか寝ずに犯行当日を迎え、ゲーム喫茶で朝5時まで働き、自宅で500mlの缶ビール何本かと焼酎の水割りを4~5杯飲みます。その朝からマキは何度も尾形の携帯電話を鳴らし、結局、尾形は一睡もせずに近くのファミリーレストランでマキに昼食をおごることになります。そこでも尾形は生ビールのジョッキ4杯とウォッカのジョッキを飲んでいます。マキが風俗店店長の愚痴を語ると、「締めに行くか」と尾形はマキを連れて店長のアパートにいって、包丁で惨殺しました。同じアパートにいた3人の女性は尾形らの顔を見ていたので、「殺すしかない」と尾形は考え、車で3人を連れまわした末、首を絞めて、包丁を突き刺します。偶然ですが、うち2人はすぐに発見されたため、命は助かっています。

一審で尾形の国選弁護人を務めた山本宜成によると、事件直後、尾形は「信じてもらえないかもしれないけれど、反省という言葉しかない」と言っていました。裁判中でも、尾形は被害者や遺族への謝罪と反省の言葉を口にしていますし、死刑についても素直に受け入れると繰り返していました。それにもかかわらず、裁判後、尾形は「死刑になるから、もう反省しない!」と開き直っています。なぜでしょうか。

次の記事に続きます。

死刑により罪が償えるのか

前回の記事の続きです。

1979年~1983年の半田保険金殺人事件で、被害者の兄である原田は「死刑以外に考えられない」と一審で発言しています。原田には、弟の死後に保険金1400万円が支払われていました。しかし、犯人の長谷川の逮捕後、弟が交通事故死でなく殺されたと分かると、その1400万円を返却しろ、と保険会社から連絡がきます。そのうちの200万円は「弟の交通事故で大型トラックを失った被害者」の長谷川(実際は弟の殺人犯)に貸していたので、返ってきません。また弟の葬儀などでかなり金を使っていたので、心底から困り果てて、近隣の弁護士事務所を訪れましたが、安くない相談料を取られた末、有益な助言はもらえませんでした。町役場に相談しても、「対応できない」と素っ気なく言われるだけです。仕方なく保険会社に必死で事情を説明し、慣れぬ交渉の末に一部を免除してもらったものの、それでも不足していた分の工面に苦労します。

一方、平日に開かれる公判を欠かさず傍聴するため、原田は仕事を懸命にやりくりして、名古屋地裁に通い詰めます。しかし、バブル経済真っ盛りの多忙期に何度も有休申請する原田に職場の上司は露骨に嫌な顔をしてきます。公判前日のある夜に遅くまで残業していた際は、疲労のためか右手の薬指の先を機械に挟まれて切断してしまいます。誰もいない工場で止血し、自ら運転して病院に向かった時は、怒りと痛みと情けなさで泣きたくなったそうです。次から次に降りかかってくる不幸の全ての元凶は長谷川にある、と原田が考えたのも当然でしょう。

一審でも二審でも長谷川は死刑判決を受けます。原田は嬉しくともなんともなく「当然じゃないか」と思うだけでした。とはいえ、二審が終わってからの数年間は、原田にとって久しぶりに穏やかな時期となります。バブルも崩壊して、仕事の繁忙期は過ぎ、控訴審後は公判通いをする必要もありません。原田は昔からの趣味だった考古学や古墳の探索に時間を割く余裕も出てきたそうです。

原田の元には長谷川から手紙が何通も届き続けていました。最初は開封する気もならず、ゴミ箱に投げ捨てていましたが、1990年頃になると、一通りは目を通すようになります。手紙には毎回、謝罪の言葉がびっしりと書き連ねられていました。初公判の頃から心情が少しずつ変化しているのに、原田自身も気づいたそうです。自分でも理由が分からないようですが、原田から長谷川に返信を書くようになります。

1993年、ついに原田は拘置所の長谷川に面会までします。原田の面会がよほど嬉しかったので、長谷川は満面の笑みを浮かべて現れて、そして深々と頭を下げます。

「本当に……。本当に、申し訳ありませんでした。こんな愚かな人間のため、皆さんに迷惑をお掛けしてしまって……」

原田は拘置所という異質な雰囲気に気おされ、ほとんど言葉が出てきませんでした。ただ、長谷川が「本当にありがとうございます。これで私はいつでも喜んで死ねます」と言った時には、原田は思わず「そんなこと、言うなよ……」と返したそうです。

そんな原田と長谷川の拘留は、1995年に途絶えてしまいます。これまで「特例」として面会を認めてきたが、今後は一切認めないと拘置所幹部に告げられました。真の理由は不明ですが、名古屋拘置所の所長交代が大きな要因のようだ、と本には書いてあります。

面会不可の決定に、原田は納得できませんでした。少しずつでも対話を重ねることで、長谷川の心を感じ取り、自分の気持ちを徐々に伝えていけるとの確信を深めていたのです。同じころに、手紙のやりとりまで禁止されます。原田と長谷川の意思疎通は完全に閉ざされてしまいました。しかも、手紙の禁止の理由として、「原田さんが迷惑しているから」と拘置所側は長谷川に伝えていました。

理不尽な対応と事実と異なる連絡に憤った原田は拘置所に何回も面会を申し入れ、知り合いになった中日新聞に自身の気持ちを伝え、記事にしてもらいます。それでも拘置所の対応が変わらなかったので、実名でメディア取材に応じ、死刑廃止を訴える団体の集会でも、自らの主張を訴えました。

実名で行動を始めると、自宅に無言電話や嫌がらせの電話がかかってきて、妻は子どもを連れて、家を出ていきます。それでも、長谷川との面会を原田は諦められませんでした。2001年には法務大臣と面会し、長谷川の死刑を望んでいない気持ちと面会を求める心情をしたためた上申書を手渡ししています。さらには、弁護士の求めに応じて、長谷川の恩赦請求にまで協力します。しかし、2001年末、長谷川の死刑は執行され、長谷川と再び面会するために起こした原田の全ての行動は徒労に終わります。

長谷川の葬儀は、原田も参列しています。その時でも原田は長谷川を許す気持ちは全くなかったそうですが、原田の心中でたぎる憤怒の情は長谷川ではなく、法務省拘置所当局に向かっていました。

被害者感情を声高に主張するくせに、結局のところは被害者とその関係者の気持ちを少しもくみとってくれないではないか!」

「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)で何度も書かれていることですが、死刑囚の面会を制限する法律は日本のどこにもありません。法務省拘置所、刑務官の裁量で、どうにでもできる問題です。

もちろん、面会を制限すべき死刑囚もいるとは思いますが、上記の例は、明らかに面会を許すべきです。これで面会を許さない理由が分かりません。「死刑囚に不必要な刺激を与えないため」という理由を拘置所側はよく述べますが、それは名目的な理由でしょう。実質的な理由は「上の命令だから」「伝統的にそうだから」であり、そこから先は思考停止しているのでしょう。「ルールの存在意義を日本人は考えるべきである」に書いたように、法律に定められているわけでもない習慣(ルール)に盲目的に従うバカはやはり日本に多いようです。

日本とアメリカの36州は主要先進国で死刑を残す最後の二ヶ国ですが、「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)によると、透明性と情報公開度で、両国の差は途方もなく大きいそうです。

日本は執行前日に本人だけに通知されるのが普通なのに(当日通知もある)、アメリカでは執行日は30日以前に決定され、その情報は公開され、インターネットで執行日の検索まで可能です。日本は死刑確定後に普通なら面会不可ですが、アメリカでは本人が許せば誰でも面会可能です。ミズーリ州は、死刑囚との面会には施設職員の立ち合いすらありません。日本では執行の際、犯人家族や被害者遺族の立ち合いはありえませんが、アメリカでは犯人家族は被害者遺族は原則立ち合い、ジャーナリストが立ち合える場合さえあります。

被害者が死刑よりも望むことはないのか

先進国の中で、日本は人権意識の低い国です(断定します)。その代表例として、しばしば挙げられるのは死刑が残っていることです。死刑を残している先進国はアメリカと日本、そしてシンガポールと台湾くらいです。韓国ですら事実上死刑は廃止されています。

犯罪本を読んでいると、「死刑以外の判決は考えられない」との遺族の言葉がよく出てきます。「絞首刑」(青木理著、講談社文庫)によると、ある遺族は加害者の謝罪の手紙を何度も読み返し、「ああ、反省しているんだな」と思い、死刑反対派の意見や本を聞いたり読んだりした後でも、「死刑しかない」と言っています。もっとも、これについては死刑反対派の意見や本を読んで、どう考えたのかなどを書いていないので、この遺族は「人殺しには死刑を」との固定観念から抜け出せなかったとしか私には思えません。

こういった遺族はともかくとして、極悪犯への処罰が死刑でいいのか、疑問に思った人はいるはずです。私も何度もそう考えています。死刑にするくらいなら一生働かせた方が被害者や社会全体にとって有益ではないか、死んでしまったら被害者やその関係者に償いもできないではないか、という考えはあるはずです。

「絞首刑」には、被害者遺族が「死刑を執行しないでほしい」と法務省に訴えた例が載せられています。1979年~1983年の半田保険金殺人事件です。

1950年に生まれた長谷川敏彦は1976年から自動車の板金・修理を営む会社を立ち上げ、車社会の拡大とともに事業は順調に発展します。1973年に結婚し、二人の子どもも授かり順風満帆でしたが、1979年にスナックの経営に手を出したことから、人生の坂道を転がり始めます。

集団で飲み歩くことが好きだった長谷川は、飲み代が増えていくことに悩み出し、「だったら自分で飲み屋を開けばいい。みんなも飲みに行くから一石二鳥ではないか」と仲間からおだてられ、軽い気持ちでスナックを始めてしまいます。反対されることは目に見えていたので、妻や家族には内緒にし、開店資金はサラ金から借ります。しかし、順調だったのは開業して二ヶ月頃までで、ほどなく店に暴力団関係者が出入りするようになり、客足は途絶えがちになります。すぐに地元のクラブ経営者に店を売り払おうとしますが、この人物も暴力団関係者であったため不渡手形をつかまされ、ほとんど騙し取られるような形で店を手放します。

一方、店に出入りしていた暴力団組員からは「俺たちに店の売却を頼んでおきながら、別の暴力団に売り渡しやがって」と理不尽な因縁をつけられ、250万円もの損害金を支払わされます。この暴力団組員には、工場の客から預かった車を騙し取られ、車検証のない外車を買わされたこともあります。世間知らずで金銭的にルーズな面もある長谷川は完全にヤクザの鴨にされました。まだ暴対法もない時代であり、警察に相談しても相手にされず、次第に膨らんでいく借金の返済に追われ、長谷川は高利の闇金融にも頼ります。スナックの開店からわずか半年で、長谷川は借金まみれでした。

本では「ヤクザ者や高利貸しに正面から毅然と対峙しなければならなかった」と書いていますが、それは「いじめられっ子は毅然とやり返さなければならなかった」と主張するに等しいです。そんなことは無理です。行き詰った長谷川は保険金殺人を犯して、死刑を受けるわけですが、どう考えても、最も重い罰を受けるべき者はヤクザです。また、まともに長谷川を相手にしなかった警察にも罪があると私は考えますし、この時代に暴対法がなかったことも悲劇です。

本題に戻ります。借金でノイローゼになった長谷川は3件の保険金殺人を犯します。3件目は、長谷川を苦しめてきた闇金融の男であり、これについての長谷川の罪は大したものでないと私は思います。ただし、他の2件は長谷川の工場の客と単なる知人であり、この罪が極刑に値するとの考えは否定しません。

ところが、長谷川の3件の保険金殺人のうち、2件目の被害者の兄である原田正治が長谷川の死刑執行停止を訴えました。なぜでしょうか。

次の記事に続きます。

拘置所の精神科医官が加賀乙彦みたいな奴ばかりでないことを願う

前回の記事までに書いたように、「教誨師」(堀川恵子著、講談社)は批判したいところもありますが、全体としては素晴らしい本でした。一方、「死刑囚の記録」(加賀乙彦著、中公新書)はひどい本でした。特に著者である加賀乙彦の人間観、社会観が拙すぎます。

ここだけで、コイツの読む本は全て価値を失くすと思うほどひどい部分があります。松川勝美という強盗殺人犯についての記述です。松川は典型的な反社会勢力で、身体に大きな刺青と刀傷があり、死刑になる事件の前にも窃盗で2回受刑しており、ちょっとした言いがかりで他人を殴る蹴るのケンカをした、と自慢していました。

加賀は「きみ、率直に聞くけど、死ぬのは怖い?」と松川にたずねます。

「怖いね。おれは人を殺した経験があるから、人が死ぬのは、どんなに痛くて苦しいか知っているからね」

「死ぬのは怖くないと言う死刑囚が多いが……」と加賀がさらに聞きます。

「ウソだよ。みんな見得を切っているだけだよ。怖くないなんて言う奴に決まって、控訴、上告をちゃんとしている。上告後はあらゆる手段で刑の執行をのばそうとする。おれなんか少ない方だが、それでも判決訂正申立、再審請求、抗告申立といろいろしている」

松川は真剣な目付きになって、こう言ったそうです。

「死刑の判決をくだしたら、すぐさま執行すべきなんだよ。それが一番人道的なんだよ。ところが、日本じゃ、死刑確定者をだらだら生かして、ある日、法務大臣の命令で突然処刑するとくる。法務大臣がどんなに偉いか知らねえが、人間じゃないか。たった一人の人間の決定で、ひとりの人間が殺されるのはおかしい。残虐じゃないか。とくによ、殺される者が犯罪のことなんか忘れた頃に、バタンコをやる。まるで理由のない殺人じゃねえか」

メチャクチャな論理です。法務大臣が気まぐれで殺しているわけがなく、裁判で死刑が確定した者だけに、法律にもとづいて死刑を執行しています。死刑を決める裁判なら一人の裁判官で決めることはありえませんし、法律も一人の国会議員が定められるものでもありません。死刑が決まってすぐ執行したら、日本の裁判でしばしば発生する許されざる冤罪事件のやり直しができませんし、犯人が反省する時間を持つことができません。死刑をすぐに実行しないメリットも確実にあります。

しかし、信じられないことですが、松川のこの言葉に、加賀は「日本の死刑制度の最大の矛盾がある」と考えるまで心を揺さぶられます。「当事者からこの大問題をつきつけられた私は答えようがなかった」ほど、加賀は死刑制度についてなにも考えていませんでした。上のような言葉だけで「死刑囚の研究などといって、安易に面接している自分が反省もさせられた」ようです。

松川は自身の犯罪について話す時、事実を自分に有利な内容に変え、高座の噺家が聴衆を見下ろすように得意気に語り、途中で加賀が質問などで話をさえぎると、いかにもいまいましげに口をゆがめるような奴です。

しかし、「精悍さが身内にあふれ」、「見事な刺青」、「落ち着いていて人当たりも暖か」といった外見や性格(話し方や立ち居振る舞い)に加賀は魅了されました。松川によって身体的、精神的暴力を振るわれた人たちのことなど、加賀は想像もしなかったか、できなかったようです。

こんな浅い人間観の奴が日本最難関の東大医学部に入れて、後に作家までなれています。日本の教育制度と文学界は大丈夫でしょうか。

日本のジャーナリストはなぜ取材相手を必要以上に擁護するのか

以前も指摘したことですが、日本のジャーナリストは取材しているうちに、取材相手に抱き込まれ、社会良識を捨ててまで(本人はそう自覚していないでしょうが)取材相手を尊重することが少なくありません。「教誨師」(堀川恵子著、講談社)の著者も同じです。

渡邉は原爆投下直後の広島で、大勢の人たちを見殺しにして逃げたことを認めています。あの時、逃げ出さずに手を差し伸べていたら彼ら彼女らが猛火に焼かれることがなかったかもしれない、逃げる途中で「水をくれ」と乞うてきた人たちに水をあげるべきだったのではないか、と何度も思い返したそうです。2011年の夏、渡邉は被爆体験の作文を書いていますが、自分よりひどい被害者を見殺しにした事実だけはどうしても書けなかったと言っています。

それについて著者の堀川は「極限の状況におかれた人間がとる行動は、もはや善悪の物差しで測れるものではないだろう」と渡邉を擁護しています。

しかし、その正反対の意見もあります。極限状態でこそ、その人の本当の内面が出る、という意見です。この時の渡邉を堀川が擁護したい気持ちは分かりますが、極限の状態だと善悪の物差しが通用しない、との理屈はかなり無理があります。そんなことを言えば、戦争犯罪などなにも存在しなくなってしまいます。いえ、戦争でなくとも、ほぼ全ての犯罪はその人にとって極限状態で行われるので、どんな犯罪の罰も問えなくなってしまいそうです。

人が人間集団の中で生活する限り、多少の変化はあっても善悪の物差しは存在します。ここは素直に「極限の状態で見せた渡邉の弱さだった」とまとめるところでしょう。

教誨師の許されざる失敗

1960年代、田中伊三次という法務大臣は大量の死刑執行をしたことで有名です。彼についての話題が教誨師の渡邉と、ある死刑囚の間で交わされました。

死刑囚「先生、あの田中という大臣はとんでもない男ですね。いくら死刑囚だって、虫けらを殺すんじゃあるまいし。次から次へと幾ら何でもやりすぎです」

渡邉は机の上にノートを広げ、軽い気持ちで返しました。

渡邉「ま、法務大臣もそれが仕事だからな、職務熱心なんだろうよ」

渡邉は下を向いたまま手元の作業を進めていました。

死刑囚「私はいつ吊るされるのか怖くて……」

振るえる声がそこで途切れました。尋常ならざる口調に、渡邉は驚いて顔をあげます。白目ばかりが目立つ険しい眼差しが渡邉の方に突き刺さっています。机の向こうに、ドス黒い固まりが座っているかのようでした。もし相手が刃物を手にしていたら、自分は瞬時に切りつけられていたかもしれません、そう思っても不思議はないほどの憎悪が、男の体全体から発せられていたそうです。

その死刑囚はしばらく無言でいましたが、急に席を立って、付添いの刑務官を引き連れるようにして部屋から出ていきました。

ちょっと軽率だったかな、まいったな、と渡邉は思いましたが、まあ、次回の面接で話せばよい、とすぐに切り替えています。法務大臣が死刑執行の命令をすることは当然だったし、自分が間違ったことを言ったとも思わなかったそうです。

しかし、その日からその死刑囚は二度と渡邉の教誨を受けに来ることはありませんでした。他に話す相手もいないのだから、ほとぼりが冷めたら来るだろう、と渡邉は思っていましたが、思いのほか早く、その死刑囚は死刑を執行されました。渡邉はそれまでの二人の関係に甘えて、手紙すら書かなかったことを悔やみました。

私なら「ま、法務大臣もそれが仕事だからな、職務熱心なんだろうよ」と言うことはありえませんし、まして、その発言後、「ちょっと軽率」くらいの反省で切り替えたりはしません。死刑執行を全くしない法務大臣もいるのですから、「法務大臣が死刑執行の命令をすることは当然」も間違いです。