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日本では検察が犯罪を作り出せる

「犯罪は社会を映す鏡」という言葉があります。これからの犯罪についての記事では、犯罪本の批判を通じて、日本人の道徳について考察していきます。

この記事のタイトルの「日本では検察が犯罪を作り出せる」は「アメリカ人のみた日本の検察制度」(デイビッド・T・ジョンソン著、シュプリンガー・フェアラーク東京)からの借用です。

犯罪本批判をする前に、総論として、上記の本を元に、日本の刑事裁判の問題点を指摘しておきます。ただし、この本は2004年に出版されており、まだ裁判員制度が設けられる前なので、現在既に改善されている点はあります。

日本の刑事裁判の被告人の権利は、先進国で最低でしょう。日本は「検察官の楽園」とは上記の本の冒頭にある言葉です。刑事裁判の無罪率が0.1%と異常に低いことに、それは端的に現れています。なぜここまで低いのでしょうか。

検察は被疑者を取り調べるときに、捜索、押収された全ての証拠を使えるのに、裁判では検察側が提出した証拠しか使えません。だから、検察側は裁判に有罪を示す証拠だけを提出し、無罪を示す証拠を提出しません。一応、裁判所が判断に必要だからと証拠提示を検察側に求められますが、その証拠提示を検察側が拒否できます。つまり、証拠を開示するかどうかは、検察側の善意に頼るしかないのです。誰が考えても、「え! 本当に? なぜ?」と言いたくなるような制度が合法的に定められています。

裁判での証拠提示を拒否できるなど、常識では考えられないでしょう。道徳的に論外であることは言うに及びません。それでは裁判で真実が明らかになりません。

アメリカでは、検察側が使用した証拠は全て被告側に渡す義務があります。もしこの義務を実行しなかったら、自動的に審理無効となります。他の多くの民主主義国家でも同様です。

この時点でありえないのですが、まだまだ検察側に有利な点があります。

次の記事に続きます。