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日本が負けるに違いない太平洋戦争を始めた本質的理由、あるいは日本が第二次大戦で負けた本質的原因

ポツダム宣言受託で日本が無条件降伏した時、中国に105万の支那派遣軍関東軍を除く中国派遣軍)がいました。一部の例外を除けば、日中戦争で日本は楽勝だったので、終戦時点でも、支那派遣軍のほとんどの兵士は「日本が勝っている」と信じて疑っていません。

だから、「無条件降伏」という噂が流れた時、やっと蒋介石が無条件降伏した、と喜んだ兵士が少なからずいたそうです。しかし、時間がたつうちに「無条件降伏したのは日本らしい」と分かり、事情がよく呑み込めなかったと言われています。大本営発表でしか全体の戦況を知らされていなかった末端の兵隊たちだったので、この反応はご愛敬とも考えられます。

しかし、支那派遣軍総司令官の奥村寧次までが日本降伏の知らせを受けても、「屈辱的平和は……断じて承服できない。支那派遣軍100万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍(中国軍のこと)に無条件降伏するが如きは、いかなる場合にも絶対承服できない」と東京に電報を打ったのは、どう考えればいいでしょうか。日中戦争をもてあまし、米英との新しい戦争で決着をつけようとして太平洋戦争を始めた時点で、日中戦争の帰結は米英両国との戦争の勝敗に左右されるという大戦略の基本を、支那派遣軍の総司令官が忘れていたのです。

もしかして、支那派遣軍汪兆銘政権(日本が南京につくった傀儡政権)が中国で自活できる可能性が少しでもあると考えていたのでしょうか。もし「その可能性はゼロでない」と思っていたら、それこそ狂気です。

とはいえ、関東軍の中にも、「日本政府が万一降伏したとしても、満州国で自活する」と本気で考えていた日本軍人がいたようです。もちろん、ポツダム宣言受諾数日前にソ連軍の猛攻を受けてから、そんなことが可能だと考える人は満州に皆無になりました。

満州事変やそれにつづく北支工作、そして日中戦争の全過程を通じて、世界情勢下での自国の状況について日本は全く把握できていませんでした。支那派遣軍のトンチンカンぶりも最期を飾るのにふさわしかったのかもしれません。

第一次大戦後のヨーロッパにおける民族自決の潮流は、日本をふくむ帝国主義国家に蚕食されていた中国や、数百年前から欧米諸国によって植民地とされていたアジア各地にも、まんべんなく浸透しつつありました。たんに軍事力に秀でているからといって、適当な理由をでっち上げて他国を侵略し、自国のために他国を利用する時代は、完全に過ぎ去っていました。それが日露戦争までと決定的に異なる国際環境でした。

世界各地の植民地でも、エリート層からつぎつぎに民族独立の要求をつきつけられたので、欧米諸国は一歩ずつ譲歩していました。アジアのフィリピンでも、インドでも、インドネシアでも。だからこそ、日露戦争の時は、日本の朝鮮支配とアメリカのフィリピン支配を相互に認め合うとした「桂タフト協定」に同意したアメリカも、ワシントン会議で中国主権の尊重をおりこんだ9ヶ国条約を結んで日本を牽制したのです。

日露戦争から満州事変までは26年です。その間、中国や植民地側の人たちの自由や平等意識は明らかに向上していました。もはや帝国主義政策はとるべきでないことを欧米諸国は肝に銘じていました。しかし、日本はそういった世界の思想潮流に全く気づいていませんでした。

本来であれば、1915年の「対華二十一ヶ条の要求」を発した際の欧米諸国からの強い反発、なによりも中国自身がそれをむりやり認めさせられた日を「国恥記念日」として記憶しようとしたことから、日本は世界の思想の変化に気づき始めるべきでした。日本が当事者である1919年の韓国での三一独立運動、中国での五四運動などから、普通であれば、韓国人や中国人の自由や平等意識の向上に日本は気づくはずでした。あるいは、理想主義的な国際連盟規約に多くの国が賛同した時、1922年にワシントン海軍軍縮条約が結ばれた時、上記のように欧米諸国が植民地政策を少しずつ放棄している時、中国人や韓国人の自由や平等意識が向上している時に、日本は世界の思想潮流に気づかなければなりませんでした。しかし、いまだ欧米諸国が広大な植民地を持っている事実の方に日本は注目してしまい、帝国主義政策が絶対に許されない時代になっていることに、上から下までのほぼ全ての日本人が気づいていませんでした。

満州事変から太平洋戦争開始までの10年間、政策を大転換する機会は何度もありました。しかし、政治家や軍人の上層部は「このままでは日本が滅んでしまうかもしれない」と考えていながら、上記のような国際感覚だったので、政策を大転換することはできませんでした。もちろん、大転換すれば、日本は多くの領土を手放さなければならなかったでしょう。中国や満州は言うに及ばず、韓国や台湾もいずれ独立させなければならなかったはずです。つまりは、戦争してもしなくても、今とほぼ変わらない領土になっていたに違いありません。だから、いかに国民を納得させて、領土をうまく縮小させるかに、政府や軍部の役割があったのです。しかし、結局、誰もそれに気づかないまま、日本は負けるに違いない戦争に訴えました。

戦場の将兵は、ひたすら国家の正義を信じて戦い、将兵を送り出した家族・学校・職場・地域も日本の正義を信じて支えました。しかし、その正義がかなりゆがんだ正義であった、と日本人が悟るには「降伏という衝撃」と「戦前や戦中に隠されていた事実を直視すること」と「自由と平等意識の向上」と「世界全体の中で日本を客観視すること」が必要でした。この中でも「自由と平等意識の向上」が十分にできていない日本人にとっては、第二次大戦中の日本人が信じた正義を、今でも擁護すべきと考えてしまうのではないでしょうか。また、「世界全体の中で日本を客観視すること」ができていない日本人が多いのなら、日本は第二次大戦と同様の失敗を繰り返すことになるかもしれません。

 

※注:この記事の多くは、別の著者の記事からの引用です。昔、私はその記事を読んで、「第二次大戦で日本が負けた理由について、これほど本質を突いている意見は知らない」と思いました。それから約20年たっても、その考えはほとんど変わらなかったので、その記事を使わせていただきました。