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ろう者教育法問題と英語学習法問題の相似

ろう者にはバイリンガル教育(日本手話を熟達させた後、書記日本語を習得させる方法)でいくべきなのか、トータルコミュニケーション教育(口話も手話も用いた方法)でいくべきなのか、科学的な結論は出ていないようです。

日本手話教育を推進する明晴学園校長の斉藤道雄は「思考力の養成のためには、ろう者にとって最も意思疎通しやすい日本手話の習得が不可欠である」と主張します。しかし、その思考力はどうやって測るのでしょうか。その人にとって、最も分かりやすい言語で行うべき、と斉藤は考えているようですが、では、日本手話も書記日本語も、どちらも苦手なろう者の思考力はどうやって測るのでしょうか。あるいは、どちらの言語も苦手なのに、思考力が高い人などいない、と斉藤は考えているのでしょうか。

斉藤は明晴学園で書記日本語の習得がおろそかになっている事実を暗に認めています。そこで30年以上も前のアメリカのトータルコミュニケーションの文献を根拠に「トータルコミュニケーションでも書記英語の習得はできなかったではないか」と言いたいようです。

聴覚障害教育これまでとこれから」(脇中起余子著、北大路書房)を読む限り、確かに、トータルコミュニケーションでも、書記言語の習得は難しいようです。しかし、完全な日本手話教育(明晴学園の教育)よりは、一般のろう学校の教育は書記日本語の授業が充実しているので、書記日本語の習得は容易だと推測されます。

日本手話を習得することなく、口話教育で京大に合格した脇中起余子は「a.手話は不十分だが、書記日本語を習得できる、b.書記日本語は不十分だが対応手話ではない日本手話を習得できる、のいずれかにしてあげよう」と言われたら、aを選ぶと言っています。日本手話を十分に習得できない不利益と、書記日本語を十分に習得できない不利益とでは、後者の方が遥かに大きいから、および日本語対応手話でも多くの聴覚障害者と通じると感じるからです。

脇中は次の2つの意見を提示します。

①ろう者たちは手話も日本語も中途半端なセミリンガルになっている。かわいそう。なにか完全な言語を獲得させることが大切であり、ろう者の場合、それが日本手話であることは明らかである。

②書記日本語が不十分なら、職業選択の範囲が狭められる現状がある。日本手話から書記日本語への橋渡しの手法が具体的に見えない。①のように言う人は、手話モノリンガルになったときの不利益をどう考えるのか。

もちろん、脇中は②の意見です。

この議論の大前提として、『聴覚障害者は日本語の「聞く話す」はもちろん、「読む書く」も難しい』という事実があります。これは私を含む多くの人が誤解している事実ではないでしょうか。聴覚障害者が「聞けない」から「話せない」のは誰でも理解できます。しかし、聴覚障害者はなぜ読めなくて、書けないのでしょうか。

京大卒の脇中はたまたま群を抜いた読書能力を持つ天才だったのでしょうか。あるいは、脇中のような教育を受ければ、ほとんどのろう者は書記日本語を習得できるのでしょうか。

考えるべき問題は他にも多くあります。

1、明晴学園の全ての生徒たちは日本手話を十分に習得できているのか

2、聴者たちはどれくらい日本語を習得しているのか

3、明晴学園の生徒たち、一般のろう学校の生徒たち、聴者の生徒たちでは、抽象思考と人間関係と道徳力にどれくらい差があるのか

ろう者の教育法の問題が興味深いと私が思ったのは、英語教育問題と似ている部分があると考えるからです。

たとえば、日本の学校で国語以外の全ての授業を英語で行ったとします。そうなれば、日本人の英語力は確実に向上するでしょうが、同時に「平行四辺形」や「三権分立」や「酸化還元」などの言葉を知らない子どもが増えて、子どもの日本語力は落ちるでしょう。家庭で使っていない言語での教育だと脱落してしまう生徒が増えるでしょうから、今以上に学力差は大きくなります。なにより、一部の優秀な生徒を除けば、日本語も英語も中途半端になってしまい、十分な「思考力」が養えなくなるかもしれません。「国際化時代の今、子どもには英語のシャワーを浴びせなければいけない」と簡単に言う人たちは、このような理屈にどう反論するつもりなのでしょうか。

ところで、脇中は「言語に優劣はない」と明言しながらも、日本手話よりも書記日本語を習得したい、と述べています。現実問題として、日本社会では書記日本語が日本手話より遥かに有用だからです。

ここで視点を変えます。「英語と日本語のどちらを習得するか、選べ」と言われて、「英語」と答える日本人をどう思いますか。さらに書けば、そう答えた日本人が金持ちの帰国子女だったら、どう思いますか。

以前、「英語でしゃべらないと」というNHKの番組がありました。そこに出演しているキレイなだけで頭の弱い女が「No English, no success.」と番組の最後に言って、私がテレビをぶち壊したくなったことがあります。この女は「子どもがいたら、絶対に留学させたい」と能天気に言ったこともあり、そこでも私は怒って、(こんなアホウに払う給料があるなら、俺に留学費用くれよ!)と心の中で叫んでいました。当時の私は、そのバカ女と比較にならないほど強いストレスを感じながらも、社会道徳だけは重視して働いていましたが、留学費用など全く貯まりませんでした。子どもはもちろんいませんし、結婚もできませんし、なけなしの金を使ってどんなに時間をかけて探しても、彼女はできませんでした。

このブログを全部読んでもらえれば分かりますが、私も「英語と日本語のどちらを習得するか、選べ」と問われたら、「英語」と答えたいです。日本よりもカナダで暮らしていきたいためです。しかし、残念ながら、カナダで暮らす能力も気力も、お金も、協力してくれる親戚も、私にはありませんでした。だから、「英語と日本語のどちらを習得するか、選べ」と問われたら、「英語」と答えたいのですが、現実問題として私は日本で暮らすしかないので、「日本語」と答えます。

似たような問題を抱えているろう者もいるはずです。ほとんどのろう者は、好むと好まざると、ろう者のコミュニティで生きていきます。だとしたら、ろう者のコミュニティに好まずに生きるより、好んで生きた方が楽でしょう。「書記日本語」が日本全体で有用であることを知りながらも、「日本手話」の習得を重視するろう者を、簡単に非難することは、私にはできません。

私は脇中の意見にほぼ同意していて、脇中のような優秀な教育者が日本にいてくれたことに感謝していますし、脇中ほど日本のろう者教育について深い見解の人はいないとも考えています。しかし、脇中のような恵まれたエリートに一部のろう者の深く暗い葛藤までは分からないだろう、とも思います(もっとも、ほとんどのろう者は脇中を批判できるほどの葛藤を感じていないだろう、とも思います)。