未来社会の道しるべ

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西川はま子と脇中起余子

西川はま子という女性はその劇的な人生のため、手話法と口話法の歴史の中でほぼ必ず言及される方です。

はま子は1917年に滋賀県の裕福な家庭に生まれます。はま子がどれくらいの聴覚障害者であったかは判然としませんが、重度障害者ではなく、わずかながらも聴力を持っていた者のようです。はま子の父、西川吉之助は英語とドイツ語に堪能であったので、娘の聴覚障害が分かると、独自にアメリカやドイツの文献を研究し、それらの国で主流であった純口話法教育をはま子に行いました。父の熱心な指導のかいあり、はま子は読唇により相手の発言を聞き分け、発音も自然でした。はま子は全国各地で講演し、聴覚障害者と分からないような自然な口話での会話を成り立たせ、ラジオでもその美声を示しました。聴覚障害者でも口話による会話が可能だと知った聴覚障害者たちの両親は驚き、我が子もはま子のようになってほしい、と熱望するようになります。その流れもあり、日本中のろう学校で口話が採用され、手話は口話の取得に有害との理由で禁止されることになります。口話を習得できない者は努力が足りないと判断され、教師たちから厳しい指導を受ける時代が何十年も続きます。

一方で、口話に理解を示しながらも、手話を禁止まですることはない、と考える者も一部にいました。その中には、他ならぬ西川はま子がいました。はま子は成人後、手話教育を日本で唯一実践していた大阪市立ろう学校で働くことを希望しますが、「口話教育の成功者」と有名になった女性の採用案は校長に却下されます。はま子が手話教育学校の就職を希望したショックもあったと思われますが、はま子の父、吉之助は自殺してしまいます。その後、はま子は大阪市立ろう学校に雇われ、5年間、手話教育を実践しますが、行き詰まりを感じて退職します。はま子は父と同じく口話教育の推進者となり、41才に肺炎で亡くなりました。

以下は、はま子の残した言葉です。

口話もでき、手話もできることは、ろう者として一番理想だと考えましたが、結局、私としては、ろう学校教育は難しいけれども口話でやるべきとの確信を得た」

「だが、私たちは現在口話でやっている以上、それでいいのかと考えさせられるのである。それは自分自身で、ろう者であるとはっきり認めているがために、口話を身に着けておりながら、やはり心の中には割り切れないものがあると言わねばならない」

 

脇中起余子は新生児期に(生後1ヶ月以内に)カナマイシンの副作用でろう者になりました。そのことから生年は1970年頃と推測されます。脇中の子ども時代、日本中で手話は禁止されており、教育熱心な母の方針もあって、脇中は純口話教育を受けて育ちます。脇中は並外れた本好きだったようで、幼いころから多読して、大人が「ちゃんと読んでいるのか」と思うほどの速さで本を読めるようになります。この読書力が彼女の卓抜した学力の源泉であることは間違いないでしょう。

脇中はろう学校の幼稚部に通って、「この子の聴力では発音指導は無理」と言われたそうです。母は諦めず、森原という発音教育法の優秀な教師を見つけ出し、脇中に週1回指導を受けさせたそうです。その効果は抜群で、脇中は現在も意思疎通が口話で十分できるほどの発声力を身に着けています。なお、脇中の発声能力の成長に驚いた幼稚部の担任は、他の子ども4人にも森原の指導を受けさせ、その全員が大学に進学したそうです。

脇中は地域の公立小学校の難聴学級に通います。主要科目と音楽などは難聴学級、体育と図工と給食は聴児の学級で受けたそうです。この時、聴児の友だちを大人が喜ぶことに脇中は違和感を持ったそうです。また、発音のことでからかわれたとき、母が「ばかにされないように、がんばって発音の勉強をしようね」と言ったときも、脇中は疑問を感じたようです。

脇中は中高私立一貫校に入ります。なんとか読唇で授業も受けていますが、先生の話はほとんど分からなかったそうで、家で他の子の何倍も時間をかけて予習復習をしていました。また、優しくて口形が明瞭な友だちを見つけるのに脇中は苦労しています。苦しみを母に言っても「がんばれ」と返されるだけで、脇中は母にも心を閉ざすようになりました。

脇中は「京都大学が公費でノートテーカー(先生の話を紙に書く人)をつける」ことを新聞で見つけると、猛勉強して、京大に合格しています。

脇中が手話と出会ったのは京大時代です。「人との会話は、こんなにも楽しいものだったのか。生きていて良かった」と脇中は感じたそうです。脇中が「もう少し早く手話と出会いたかったな」と漏らした時、母が「手話を覚えなかったから、大学に行けたのに、なんてことを言うの」と言われたそうです。その言葉に脇中の怒りが爆発します。

「大学に行けるかどうかよりもずっと大事なことがある。家族の団らんで私はいつも後回し。ずっと寂しかった」

脇中の母の口形は明瞭で1対1なら、脇中は90%以上読唇できたそうです。しかし、母が他の人と会話していると、どんなに目を凝らしても10%も分からなかったといいます。父や祖母は口形が不明瞭なので、もともと分かりません。家族の団らんの中、「今、なんて言ったの?」と脇中がたずねても、「ちょっと待って」と後回しにされた挙句、「大したことじゃないから、気にしなくていいよ」と言われることもしばしばでした。手話により大人数でも会話を同時に理解できることは、脇中の人生でまさに革命だったようです。

大学卒業後、脇中は口話で教員採用試験を突破し、京都ろう学校の教員として長年働くことになります。

上記のように、ろう者への手話教育の重要性を自らの人生で悟った脇中ですが、その後の人生で手話偏重教育、特に口話否定教育とも長い年月、戦うことになります。

次の記事に続きます。