未来社会の道しるべ

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ガラパゴスな日本の部活

「そろそろ、部活のこれからを話しませんか」(中澤篤史著、大月書店)は「部活はあって当然」との誤解を解いてくれる本です。

本では、その歴史、および法体系から、部活の本質は自主性にある、と結論づけています。部活は学校で必ず習得すべき技能を身に着ける場ではありません。もし本当にそうなら、部活は教育課程に組み込まれて、通常の時間内に、全員必修にすべきです。しかし、そうでないからこそ、部活の存在意義があるようです。だから、生徒が嫌でたまらないのに部活を続けるのはおかしいですし、先生が嫌でたまらないのに部活の顧問を押しつけられるのも間違っています。

著者は「部活はとても恵まれている制度だ」と主張します。かりに部活がなかったら、部活のようにやりたいことをやるのは大変だからです。私も経験がありますが、一から定期的に活動する団体を立ち上げるのは、条件にもよりますが、かなりの精神力が要ります。著者はサッカー、草野球、タッチフット、ゴルフ、コーヒー、囲碁といった趣味の集まりを作りましたが、ほぼどれも長続きしなかったそうです。趣味の集まりが当たり前のように存在している学校の部活動は奇跡のように幸せな制度である、と著者は言います。

私は著者の意見に賛成です。だからこそ、次のような記述に強い違和感があります。

著者はある中学校の軟式テニス部が廃止された例を調査したそうです。そこでは、顧問教師が異動になって、9人の生徒が泣きながら部の存続を訴えたのに、新しい顧問のなり手がいなかったので、廃部になったそうです。その後、部長だった女子生徒にインタビューしたところ、「ふざけんな」「意味わかんない」「はあぁ? って感じ」「ムカつきましたよ」「この学校終わっているし」などとの暴言を吐いたあげく、机をバーンと叩いて、「納得いかないんですよ」と叫び、体を小刻みに震わせました。ここまで悪態をついているのに、著者は「ただ黙って聞いてあげることしかできなかった」と書いています。

この事実だけでも、著者の全ての主張を聞く価値は完全にないように私は感じてしまいます。なぜ「そこまで強い気持ちがあるなら、どうして地域で軟式テニス部を作ろうとしなかったのか?」が言えないのでしょうか。明らかに、彼女の怒りは理不尽です。部活動はあって当然のものではありません。著者の言う通り、部活が存在しているだけで、極めて恵まれています。それを全く理解していない若者以上に、著者の主張を言うべき相手がこの世に存在するのでしょうか。

部活はあまりに教師の負担になるので、地域活動に移行しよう、と何度も考えられてきました。しかし、周知のとおり、地域への移行はほとんど進まず、今も日本全国の学校で部活が行われています。その理由についてはともかく、部活と同等の活動は学校以外でも間違いなく行えます。事実、海外のほとんどの国では、少年少女のスポーツ活動、文化活動は、地域で行われています。本来の教育課程以上に部活が教師に負担感をもたらしているのなら、明らかに異常です。本来の教育課程は、生徒や先生がいかに負担を感じていようとも、学校である以上、必ず実施されなければなりませんし、その活動を存続させなければいけません。しかし、部活は自主活動なので、先生が生徒に存続を強要できないように、生徒が先生に存続を強要することもできません。日本では部活があまりに普及してしまったため、多くの日本人がその原則を忘れてしまっています。

著者は、部活をする最大の意義は、社会的に楽しむ練習にある、と主張しています。社会的に楽しむためには、どの頻度でどのように練習や試合をするか「決める練習」をしなければならないし、自分がコントロールできない他者と「交わる練習」をしなければならないし、自分たちが招いた結果を「ふり返る練習」をしなければなりません。どんなに熱意が強くても、あるいは、強いからこそ、楽しめない現実があったりすることを知らなければいけません。生徒が学校を卒業し、社会的に楽しむためには、その過程を踏むことが必要になってくるからです。その過程の枠組みを用意してくれて、先生という社会の先輩が管理してくれるものが部活です。

部活で素晴らしい体験をした人たちが「部活は人を成長させるものだから、全ての人がなんらかの部活に参加しなければいけないし、部活は存続させなければならない」と主張するのは、日本では通用するのかもしれませんが、世界全体では間違っています。著者が認めているように、「部活が人を成長させる」という質の高いエビデンスはありません。こういった事実を、全ての日本人が知っておくべきでしょう。