未来社会の道しるべ

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公的な人的支援が私的なコミュニティの救済に勝る理由

私の提案している新福祉国家では、公的な人的支援を受ける義務が生じます。最低でも公的な報告の義務は出てきます。この公的な干渉を強く忌避する人は確実にいるでしょう。しかし、私的なコミュニティによる救済が不十分になった今、そしてこれからの時代、このような公的な干渉が必要だと私は考えています。

一人の取りこぼしもない社会」で書いたように、ひと昔前は、コミュニティによって私的な問題が解決されていました。その大きな利点は、やはり公費がかからないことでしょう。一方、その大きな欠点は、社会的な正当性が保証されないことです。だから、私的な問題を解決したが、より大きな社会的な問題が生じていることも少なくありません。

たとえば、私も少し関わったことのある貧困ビジネスがあります。街中の浮浪者に「宿を保証してやる」と声をかけて、安アパートに住ませて、生活保護の手続きをとってあげ、その取り分をピンハネするビジネスです。ほぼ100%でヤクザが関わっており、違法のはずなのですが、浮浪者が集まるような大きな都市なら確実にあります。言うまでもなく、本来その生活保護費は、浮浪者の社会復帰のため、あるいは浮浪者の健康で文化的な生活のための支払いにあてるべきなのですが、公的な人的支援があまり入らないため、実態が解明されないまま、ヤクザの活動費用に回っています。これで浮浪者の衣食住などの私的な問題は即座に解決されたかもしれませんが、公金が反社会勢力に流用されており、より大きな問題が生じています。この他、家出少女を風俗で働かせるなど、ヤクザが関わって私的な問題を解決すると、ろくなことになりません。

ヤクザが関わった例に限らず、私的なコミュニティが私的な問題を解決する場合、それが社会的妥当性を持つ保証はどこにもありません。たとえば、太った不登校児がいたとして、近くの頑固オヤジが「デブなんて生きる価値なんてないんだよ! 毎日、俺と一緒にランニングしろ!」と問題発言をしたとします。よりにもよって、そのランニング実践によって、その子は不登校をやめて、勉強にも励むようになり、東大にも合格して、挙句には政治家にまでなってしまった例があったら、どうでしょうか。当然、その元不登校児は「デブは生きる価値がない」だとか、パワハラ教育が正義だとかの価値観を持ってしまい、他人にまでその人道に反する価値観を強要するかもしれません(そんな国際的に通用しない価値観の政治家が日本に少なくない上に、そんな政治家を信奉する国民が多いことは本当に情けなく、恥ずかしいことです。極論すれば、こんな価値観が広まっていることこそ、現在の日本の政治・経済・文化が他の先進国に遅れている最大の原因だと私は思います)。

しかし、公的な人的支援では、十分な教育を受けた支援者が関わるので、そんなことは通常起こりません。万一起こった場合でも、被支援者が「『デブに生きる価値はない』と支援者に言われた」と報告すれば、その支援者は問題のある指導をしたので、処罰を受けることになります。

ここで、上のような気合重視の精神を美徳と思ったり、世の中にキレイ事では処理できない問題があると思ったりする人は、率直にいって、50年以上は時代遅れです。私に言わせれば、あなたの価値観にピッタリ合う国家、北朝鮮にでも行ってほしいです。社会復帰に気合、というか意思の強さが重要になるのは事実でしょうし、世の中にキレイ事では処理できない問題があるのも事実ですが、だからといって、直近の問題を解決するためなら、なにをしてもいいわけがありません。一部の人には非常に有益だとしても、大多数の人を精神崩壊させ、場合によっては自殺に追いやる指導はされるべきではありません。不登校の問題は解決できても、基本的人権を無視した指導、場合によっては基本的人権を無視した人物を生みだす指導は社会的に許されるべきではありません。なにより、そういった検証を可能にするように、公的に人的支援をして、それを記録に残すべきです。

私的な救済と違って、公的な支援では後から社会的な公平さについて検証が可能です。これも公的支援の大きなメリットでしょう。