未来社会の道しるべ

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学位論文のための難民調査

前回の記事の続きです。情報源は「アフリカの難民キャンプで暮らす」(小股直彦著、こぶな書店)になります。

著者はオックスフォード大学の博士課程の研究のため、ガーナのブジュブラムに来ていました。そのオックスフォード大学の大先輩にデビッド・タートンという人類学の先生がいて、次の言葉を残したそうです。

「難民や貧困層などの苦境にある人々に対する調査が正当化されるのは、その調査が、なんらかのかたちでこうした人々の苦境を和らげるのに貢献することが目的となっている時だけだ」

ジュディスという三十代半ばの難民がいました。リベリア大学を卒業した才女で、これまでブジュブラムに来た数多くの研究者のアシスタントを務めてきました。著者がインタビュー形式の質問をジュディスに始めようとすると、それまで黙っていたジュディスは遮りました。

「ちょっと待って。あなたの調査に参加すると、私たち難民にはどんなメリットがあるの?」

著者はそれまでにも難民たちから同様な質問を何度も受けていました。

「この調査結果をUNHCRやガーナ政府に報告していく。それによって、ブジュブラムキャンプ難民に対する支援の向上につながっていくと思う」

著者は毎度の「模範解答」をしましたが、その言葉が終わるか終わらないかのうつに、ジュディスが切りこんできました。

「あなた、本当にそんなことができると思っているの? あなたはただの学生でしょ。UNHCRやガーナ政府は一学生の研究結果なんかで難民への支援や政策を変えたりすることなんて、絶対にないのよ。あなたは嘘を言っているわ」

それは「全くもって正しかった」と著者は書いています。

「自分は今、学位をとるために研究論文を書いています、その調査に協力してくださいって、どうして正直に言わないのよ。これまで私は何度も海外から来た研究者や学生のために働いてきたけど、皆きれいごとばっかり言うの。私たちがそれに気づかないほど愚かだとでも思っているの?」

しばしの沈黙の後、著者は答えました。

「キミの言う通りだと思う。僕は確かに学位をとるためにやっている。そして僕にはUNHCRやガーナ政府の政策に直接影響を及ぼす力はない。ただそれでも、研究成果を彼らにプレゼンするということは嘘ではないし、援助機関やガーナ政府にキャンプ内の状況を分かってもらうために、できる限り努力はするつもりだ」

何とも歯切れの悪い言葉を返した著者に、彼女は助け舟を出しました。

「分かったわ。いい? あなたが学位をとって将来、本当に偉い先生になればいいのよ。そうすればUNHCRやガーナ政府だって、あなたの言葉に耳を傾けるようになるかもしれないわ。約束しなさい。あなたの調査に協力してあげるから、必ず調査を本にしなさい。私へのお礼は、この本はジュディスの協力なしでは書けなかった、とその本のなかに書くこと。いいわね、約束よ」

事実、この本の最初の言葉は「ジュディスとの約束を越えて」になっています。

これら二つの言葉のせいでしょう。「恵まれた難民たち」に書いたように、著者はあまりにリベリア難民寄りの意見だ、と私は感じました。

とはいえ、リベリア難民は強制帰国すべきだ、と軽く発言するUNHCRのアメリカ人スタッフに著者が激怒したのは共感します。

著者は調査中、「キャンプ内の困窮層の難民に対してはUNHCRらの援助が不可欠」と力説すると、このスタッフは「もうリベリア難民たちを世界にセールスしても無駄です。UNHCRも近いうちにガーナから撤退する予定だから」と言い放ち、何度も口論になっていました。

ある時、このスタッフが冷笑を浮かべて、停戦後も本国帰還を選択しない難民を批判し、「どうも彼らは、自分たちを取り巻く状況をよく把握できていないようです。困ったものです」と発言すると、著者は身内をバカにされたような気になり、強いトーンでこう言い返しました。

「難民にとって、本国帰還は口で言うほど簡単なものではありません。2万人の難民の状況は個々人によって大きく違います。なかには、まだ帰国後に命の危険のある難民もいます。彼らは自分たちを取り巻く状況のことは十分理解していますよ」

著者の予想外の反論に、このスタッフは「他人でしかない難民の話に、なにをそんなムキになっているんだ」と怪訝な顔をしました。

この話を著者が居候している難民キャンプ内の家の貸主に言うと、「でかした。その通りだ。お前も随分と『俺たち』に近づいてきたじゃないか」と大笑いされ、肩を叩かれたそうです。

2003年の停戦後にリベリア難民は本国帰還すべきと私も考えますが、先進国出身の恵まれた人が難民たちにあれこれ言う正当性はありません。

恵まれた難民たち

前回の記事の続きです。情報源は「アフリカの難民キャンプで暮らす」(小股直彦著、こぶな書店)になります。

難民「なあ、俺って、リベリアに帰った方がいいのかな?」

著者「帰りたいのか?」

難民「いや、そうじゃないけど……。でも、UNHCRやガーナ政府はそうした方がいいって言うから……。どう思う?」

著者が調査中、何度もリベリア難民と交わした会話です。

2003年にリベリア内戦が終結した後、ブジュブラムの住民はUNHCRとガーナ政府の双方から本国に帰還することを強く推奨されました。UNHCRは2004年から2007年に大規模な「リベリア難民本国帰還推進プロジェクト」を実施し、難民たちにあの手この手で帰国を促しました。しかし、盛大なキャンペーンのかいなく、2004年当時のブジュブラムの人口4万人のうち、2007年までに帰国したのは1万人程度でした。

大々的な帰国プロジェクトが失敗に終わったUNHCRはガーナ定住に焦点を定めますが、ガーナ政府は難色を示します。リベリア難民に対する人道支援の「おこぼれ」はもはや期待できないとガーナ政府は理解していたからです。「UNHCRが提案してきたガーナ定住案は難民の『押し売り』だ」と厳しく批判します。ガーナ難民局とUNHCRは2007年に何度も会合を持ちましたが、議論は平行線をたどりました。

その最中、前回の記事で書いた2008年2月から3月のブジュブラムでのガーナ定住政策反対デモが発生します。これに憤慨したガーナ政府は、デモに参加した難民を逮捕勾留しただけでなく、ガーナに滞在する全てのリベリア難民に対して国外退去を命じます。ガーナの内務大臣は「恩知らずのリベリア難民は即刻リベリアに帰れ」と吠えて、同時に「近日中にブジュブラムキャンプを閉鎖する。それでも帰国しない難民たちは、国内に別の収容施設を設けて、そこで管理する」と声明を発します(結局、このブジュブラムキャンプ閉鎖は実施されませんでした)。

ブジュブラムキャンプを持て余していたUNHCRも、この流れに便乗します。2007年に終了したばかりの本国帰還推進プロジェクトを再開し、本来300ドル程度かかる送迎サービスを無料支援し、追加で一人あたり100ドルの給付(それまでのプロジェクトでは5ドル)を約束し、再三にわたってリベリア難民たちに帰国を促しました。

上記の本に、難民キャンプで結婚し、6才の子どもがいる三十代半ばの夫婦の話があります。この本国帰還キャンペーンに妻は乗り気でした。しかし、普段は妻の言いなりの夫が「今回の本国帰還キャンペーン終了後、残った難民には先進国移住の機会が与えられるかもしれないって話もあるんだ」と言って、反対したのです。現在は「難民」という被害者だから先進国に行ける機会があるが、リベリアに帰国して難民でなくなると、その機会が消滅すると夫は考えていたのです。この反論に妻が激怒します。

「あなた! まだそんな夢みたいなこと言っているの! 先進国移住なんて可能性はないってUNHCRもはっきり言っているわ! 私たちはガーナ人じゃないんだから、何年もこの国にいること自体がおかしいのよ! かりに苦しむとしても、私は自分の国で苦しむ方がまだ納得がいくわ!」

もともと、ブジュブラムのあるゴモア地区は、ガーナでも最も貧しい所でした。そのため、難民キャンプ設立により、人口は一気に増え、国際支援の波及効果にもあずかり、当初、ガーナ人はキャンプ難民たちと極めて友好な関係を築いていました。難民キャンプ設立以前は皆無であった学校や水道が設置され、地元民にも開放されました。キャンプ周辺の地価が高騰し、その恩恵を享受した地主は枚挙にいとまがないそうです。

しかし、難民の滞在が長期化し、1990年代後半から国連からの経済支援が削減されるにしたがい、現地住民の難民に対する寛大さもしぼんできて、2000年代半ばになると、「難民キャンプの経済事情」に書いたような両者間の暴力事件も散見されるようになります。

もちろん、母国に帰ったら、殺される可能性のあるリベリア難民もブジュブラムにはいます。その代表がGAPにいる元兵士たちです。しかし、それは母国で残虐行為をしたからで自業自得です。さっさと帰国して、罪を償うべきであり、そんな理由での帰国拒否は認められません。

難しいのは、リベリアで殺されそうになって、あるいは親戚が虐殺されたのを目の前で見て、精神的な理由で帰国できないと主張する難民でしょう。精神科医が診断すればいいと考えるかもしれませんが、精神科医は警察のような捜査権はないので、患者の主張が事実かどうかの裏付けはとれません。結局、本人の主張だけでPTSDかどうかの診断が決まり、帰国できる人とそうでない人が分かれてしまいがちです。客観性が乏しいので、これも認めにくくなります。

52才の戦争未亡人、ナンシーの話が本に載っています。夫はリベリア元大統領の縁戚にあたり、政府の要職にも就いていたため、内戦中は真っ先に反乱軍の兵士の標的となりました。目の前で夫と三才に満たない末っ子を惨殺されたナンシーは、反政府軍の兵士たちに輪姦され、生き残った長女だけを連れてリベリアを脱出しました。

「こうして文章にするとわずか数行に収まってしまうが、私は、ナンシーが途切れ途切れに語った仔細を、ここに書くことはできない。反政府軍の兵士が、彼女の家族に対していかに残虐な行為をはたらいたか。それはまさに酸鼻を極める内容で、『人間が果たしてそこまで人に対して残忍になれるものなのか』と私は言葉を失った」

そう著者は書いています。著者はその悲劇を聞いた直後にもかかわらず、不用意に「リベリアに帰還する予定はないのですか?」と尋ねました。ナンシーの表情は見る見る暗くなり、静かだが断固とした口調で、「私は何があってもあの国には帰らない」と答えました。

「私の夫と子どもを殺した奴らは今、リベリアの軍隊や警察で働いているのよ。リベリアは小さな国だから、私たちが帰国したらすぐに連中の耳に入る。あいつらは絶対に娘と私を狩りにくるわ」

インタビューが終わりに近づく頃、ナンシーが突然「しゃっくり」のような症状を見せ、「ヒック、ヒック」としばらく発せられた後、「ウアー!」と絶叫しました。彼女は椅子から床に倒れ込み、「長年、身体の奥に無理矢理閉じ込められていた膨大な量の悲しみが、堰を切って噴出したような、凄まじい泣き方」をしました。

ナンシーが号泣した夜、著者は「もっと慎重に質問するべきだった」「難民たちの持つ過去の強烈な経験も聞き慣れてしまっていた」などと反省したようです。

しかし、これを読んでも、「ここまで苦しんだナンシーには先進国移住させて、恵まれた福祉を与えるべきだ」と私は確信できません。

リベリア内戦の前、大統領の縁戚として、ナンシーはこの上なく恵まれた生活をしていた可能性が高いでしょう。その恵まれた生活は、大多数の恵まれない生活を送る庶民を搾取することで実現できていた側面はあるはずです。それをナンシーも自覚しているからこそ、平和になったはずのリベリアでも帰国したくない、と言っているのかもしれません。

こういった事情を全て考慮すると、2003年の停戦合意ができた時点で、リベリア難民は帰国すべき、と国連やガーナ政府が判断したのは妥当と考えます。

UNHCRのベテランのガーナ人スタッフは「水道やトイレを有料にしてから、難民に経済な自立精神が芽生え、援助に頼らず、自活していこうと大きなインセンティブになった」と誇らしげに語ったそうです。しかし、著者の知る限り、これら生存に必要な基本サービスの有料化の評判は難民の間で最悪でした。

この問題も全体として考えれば、難民が不平を言う資格はないでしょう。どんな高福祉国家であっても、水やトイレは有料です。自己負担無料の国はありますが、税金かなにかで負担しているだけで、本質的に無料なわけがありません。

2009年にUNHCRはリベリア難民の希望者に電気工事、石工、左官、縫製、コンピュータ、理容業などの分野で6ヶ月にわたる職業訓練プログラムを提供したそうです。しかし、訓練を受けた多くの人はその職業技術を活かせる仕事に就けませんでした。リベリア人がガーナで働くことは、制度の面でも、言語の面でも、金銭の面でも(開業資金を借りられないなど)、難しいからです。受講したリベリア難民は「トレーニングは受けたが、経済的に力がついたわけではない」と不平を言っており、著者は「訓練プログラムの根本的な弱点」を指摘している、と書いています。

しかし、それも全体として見れば、国際支援で職業訓練を受けられた難民たちに、不平を言う資格は一切ないでしょう。著者は「ガーナ」では職業技術を活かした仕事を得られないと批判していますが、UNHCRとしてはその職業技術を「リベリア」での仕事に活かしてほしいと考えていたはずです。著者の批判は的外れとしか思えません。

問題の本質として、ブジュブラムのリベリア人難民キャンプが、母国リベリアより豊かになってしまったことがあります。つまり、国際援助が過剰だったのです。難民キャンプが母国より豊かなら、難民が母国に帰りたがらないのは必然です。このブジュブラムの反省は、国際社会やUNHCRが記録し、広報すべきでしょう。

2008年4月から2009年4月まで続いたUNHCRのキャンペーンでも、帰国したブジュブラムの難民はキャンプ人口の4割の1万人です。ガーナ政府から「恩知らず」と罵倒され、「キャンプを閉鎖する」と脅されて、帰国の交通費に追加して300ドル与えると言われても、過半数は母国よりも難民キャンプを選んだのです。

次の記事に続きます。

難民キャンプの政治

前回の記事の続きです。情報源は「アフリカの難民キャンプで暮らす」(小股直彦著、こぶな書店)になります。

「難民たちは政治に参加してもいいのだろうか? もちろんだ。難民の政治的権利は難民条約および各種人権条約に規定されている」

そう本にはありますが、こう続きます。

「だが現実には、世界の難民ホスト国の大半は、難民の政治的な活動を大幅に制限している」

これは難民受入国(今回の例ではガーナ)だけでなく、国連も「自らの権利を声高に主張して政治活動する者」を悪い難民とみなすそうです。

難民の政治活動を快く思わないのは、仕方ない側面があるでしょう。母国から逃げ出した難民はそれぞれ心苦しい過去があるに違いありませんが、だからといって、母国以上に豊かな生活を難民キャンプで送りたいと言う権利はないはずです。前回の記事に書いたように、ブジュブラムの難民たちは母国以上に豊かな生活を送れているのですから、それでも不平不満を言うなら、「いいかげんにしろ」と言われるのは当然です。

経済的側面を無視しても、リベリア難民がガーナ政府に「もっと支援してくれ」「もっと仕事をくれ」という正当性はあまりないでしょう。第一に、リベリア内戦は2008年から2009年当時、5年以上前に終結しており、ブジュブラムのリベリア人たちは、そもそも「難民」の定義に入らない(とも考えられる)からです。第二に、現地語を覚えようとせず、先進国移住ばかり考えるリベリア人を助けたいと思うガーナ人などいないからです。

にもかかわらず、ブジュブラムでも「とびきり激しい」政治活動があります。

難民キャンプの経済事情」に書いた通り、ブジュブラムの代表はLRWC(リベリア難民福祉協会)です。かつてLRWCの会長は民主選挙で決め、誰でも立候補が可能でした。しかし、1996年にガーナ政府が選挙を廃止してからは、ガーナ人のキャンプ支配人がLRWCの会長を指名するのが慣例となりました。会長は、自分の補佐として副会長2名と8名のメンバーのリストをキャンプ支配人に提出して、ガーナ難民局の承認を得ています。

著者が選挙廃止の理由を聞くと、キャンプ支配人はこう答えました。

リベリア内戦は民族間の対立により起こった。今でこそ大きな争いは減ったが、水面下ではお互いに敵意を抱いている。もしキャンプ内で選挙を実施したら、それぞれの民族が独自の代表を立てて争うことになる。そうしたら、必ず衝突が起こる」

一方のリベリア難民たちは、ガーナ人のLRWC会長指名に強く反発していました。著者が調査した2008年頃にはLRWCの上層部は、ガーナ政府にとって御しやすいリベリア人たちで占められており、その結果、LRWCの上層部とキャンプ支配人の間にはもたれ合いの関係が醸成されていました。

たとえば、ブジュブラムには居住区ごとに目安箱(オピニオンボックス)があり、生活上の問題点や改善を望む点を伝えることができます。この目安箱に入れられた投書は、全てLRWCの会長と副会長が審査した後、適切と判断された投書のみ、キャンプ支配人に届けられます。この「審査」で、ガーナ政府やUNHCRにとって耳の痛い意見は、ほぼ間違いなく却下されています。これに何度も不満を表明したLRWCのメンバーは、更迭されたそうです。

また、アメリカからのキリスト教使節団が難民から直接話を聞きたいと申し出たので、どの難民が使節団と話し合うかを決めるため、LRWCで緊急会議が開かれました。出席者の一人が「悪化しているキャンプの生活水準について話してもいいか?」と発言した際、すぐさま副会長が「その話は不適切だ」と却下しました。緊急会議の後半は、会長の独演会と化して、こんなことが述べられました。

「我々は、ガーナ政府やUNHCRへの感謝を忘れてはならない。20年近くもここにいるのだから、その恩を仇で返すようなことがあっては絶対にいけないんだ!」

結局、このキリスト教使節団が直接話した難民たちはLRWCの会長と2人の副会長と8人のメンバーだけでした。

LRWCの上層部には、横領や贈収賄の噂が絶えませんでした。「難民キャンプの経済事情」に書いたように、トイレ使用料の横領はほぼ間違いないでしょう。ブジュブラム内の清掃作業やゴミ収集などに充当する目的で、UNHCRから毎月一定額がLRWCに支給されていましたが、その具体的な使途は一切公表されていないので、多くの難民はそこでも横領があると疑っていました。

LRWCと一部のNGOの癒着も多くのリベリア難民が指摘していました。UNHCRなどの国連機関は、援助プログラムの実行と運営を、パートナーシップ契約を結んだNGOに委託するのが一般的です。国連の援助プログラムの実行を請け負うことは、ブジュブラムにある50程度のリベリア人設立のNGOにとって、最大の収入源です。キャンプの状況をあまり理解していないUNHCRは、ふさわしいNGOをLRWCに推薦してもらっていました。この委託契約をもらえるNGOがいつも同じ顔ぶれなので、NGOはLRWCに賄賂を贈っていると難民たちは疑っていました。

著者はLRWCの会長に使途不明金と横領の噂について質問しましたが、会長は「LRWCの活動費用は、キャンプ支配人を通じてUNHCRとガーナ難民局に定期的に報告することになっています。こんな仕組みで横領などできるわけないでしょう」と言って、不機嫌に去っていったそうです。会長は金の時計とブレスレッド、新品のラップトップパソコン、最新型の携帯電話をいつも持っていたので、著者は「はて、会長も海外送金の受益者だったか」と皮肉を書いています。

一方、2005年頃から「腐敗した現体制を糾弾し、真のブジュブラムキャンプ代表を結成する」という大義名分の元、選挙で決めた15人のメンバーで設立された群代表者連合が活動していました。LRWCの腐敗構造とキャンプ住民の現体制に対する不信をしたためた文書を群代表者連合はガーナ難民局とUNHCRに送りましたが、黙殺されたようです。群代表者連合はその程度であきらめずに、草の根運動を続けて支持者を増やしていると、ガーナ政府は「キャンプ内での一切の政治活動は禁じられており、それを犯したものは厳しく処分する」と掲示板で通達するようになります。それでも群代表者連合は活動をやめなかったそうで、支持者の増加しつづけました。

そんな2008年2月、UNHCRの推進する「リベリア難民のガーナ定住計画案」にブジュブラム内の女性グループが抗議デモを行います。「先進国移住の可能性は難民にとっての麻薬」で書いたように、キャンプの大多数の難民は先進国移住を希望して、ガーナ定住には反対しているのです。この抗議活動は1ヶ月以上続き、当初は数十人の参加者だったものの、そのうち200~300人に膨れ上がり、国内外のメディアの関心をひくまでになります。

ガーナ政府とUNHCRは女性たちの抗議デモを違法行為とみなし、すぐさま解散を命じました。LRWCもデモの中心となった女性たちと厳しく非難しました。一方、群代表者連合は女性デモ参加者への「絶対的な支援」を表明しました。

同時に群代表者連合は、「LRWCが難民の生活水準向上への努力を怠っているだけでなく、汚職にまみれており、既にキャンプ住人たちからの信用を失っている」と指摘します。LRWCメンバーの総退陣と、キャンプ内での民主選挙を再開する要求文書を、2008年3月、ガーナ政府、UNHCR、メディアに送りつけます。

これを境にデモの主導権は女性グループから群代表者連合に移り、目的が現体制からの政権奪取に様変わりします。デモを主催した女性リーダーたちは群代表者連合に猛反発しましたが、群代表者連合のキャンプ内での広範な影響力の前に、なすすべがありませんでした。

キャンプ支配人からの度重なる警告にもかかわらず、群代表者連合は扇動を続け、最終的にデモ参加者は700名ほどになりました。一線を越えたと判断したガーナ政府は、2008年3月末、数百人に及ぶ武装警官隊をブジュブラムに送り込み、デモ参加者を根こそぎ逮捕し、16人を国外追放にしました。これにより、群代表者連合は一気に弱体化します。

UNHCRは16人の国外追放を非難したものの、キャンプ内のデモについては「極めて遺憾」と批判的立場を崩さず、デモの背景について何ら調査を行いませんでした。

次の記事に続きます。

先進国移住の可能性は難民にとっての麻薬

前回の記事の続きです。情報源は「アフリカの難民キャンプで暮らす」(小股直彦著、こぶな書店)になります。

難民キャンプの経済事情」で、難民キャンプ内の多くの職業を書きましたが、これほど多種多様な職業が難民キャンプで存在している例は少数です。特に、現金が全くないと本当に生きていけない難民キャンプはブジュブラムくらいのようです。

「キャンプでは何ひとつタダなものはない!」

ブジュブラムの難民たちから、著者が何度となく聞かされた言葉です。同じく難民たちから数えきれないほど著者にかけられた言葉が「ブジュブラム以外の難民キャンプでも、水やトイレが有料なのか?」という質問です。著者は12のアフリカの難民キャンプを訪れた経験がありますが、水やトイレまで料金を徴収している例はガーナのブジュブラムだけでした。

「難民キャンプでは、衣食住の全てが国際援助により無償で提供されていなければならない」

そんな発想は、当の難民自身を含めて、世界中の多くの人が持っています。確かに、「緊急援助」の段階では概ねその通りに実施されています。しかし、1年、2年と経過すると、国際援助の提供者である先進国の関心が薄れていきます。それにつれて支援の質と量は大幅に鈍化していきます。

「難民キャンプは一時的な避難所」「難民キャンプでの生活が年単位で長期化するのは好ましくない」「援助に慣れてしまえば、人間は堕落する」「難民キャンプの住人と地元民とのトラブルは必発である」「貧しい受入国が隣国の難民たちを養う義務は存在しない」「自国の問題は自国民だけで解決すべきだ」「母国が内戦中であっても、それは母国の責任であって、受入国の責任ではない」「本来なら、隣国への入国を拒否されて当然だった。一時的に違法入国を許可してもらっただけでも受入国に感謝しなければならない」

私のように難民支援について議論したことのある方なら、上記のような理屈は聞いたことがあるはずです。上記の理屈は難民条約に反する可能性もあるので、無条件で正しいとは言えませんが、無条件で間違っているとも言えない実情があります。

著者が調査した2008~2009年のブジュブラムでは、上記の理屈が正しいと国連や国際社会はほぼ断定していました。なぜでしょうか。

ブジュブラムの難民キャンプが発生した原因は、1989年のクリスマスクーデターに端を発するリベリア内戦になります。14年間続いたリベリア内戦で、約30万人の死者を出し、20万人以上が周辺国に難民として流れ込みました。だから、リベリア内戦中であれば、14年間という長期ではあるものの、ブジュブラムのリベリア難民を救う正当性は、とりあえず、ありました。

しかし、2003年に停戦合意が結ばれ、2005年の大統領選挙も一応、平和裏に行われました。2008年は停戦合意から5年後、民主選挙から数えても3年後です。

リベリアに平和が戻ったのですから、リベリア難民がガーナの難民キャンプに住む正当性は原則ありません。

しかも、ブジュブラムの多くのリベリア難民は、国際援助や海外送金により、母国リベリア(2017年の一人あたりGDP約3万円)より豊かなだけでなく、ガーナ(2017年の一人あたりGDP約16万円)よりも豊かな生活を送っている、と思われていました。平均的なガーナ人より豊かかどうかは不明ですが、「難民キャンプの経済事情」で書いたように、「骨折り損のくたびれ儲け」という見出しで、貧しい仕事の代表として書かれていた水販売業でさえ日給300円(年200日勤務なら約6万円)であることを考えると、ブジュブラム難民キャンプは母国リベリアより遥かに豊かだったことは間違いないでしょう。

当然ながら、ガーナ政府はリベリア難民が自国民から雇用を奪うことに強い警戒感を示していました。難民がガーナのキャンプ外で雇用を得る際は、ガーナ政府が発行する労働許可証の取得が義務づけられています。しかし、雇用主が申請してから労働許可証の取得まで8~10ヶ月もかかります。経済発展の著しいガーナで、雇用主がそんな長期間も待てるわけがなく、事実上、難民はガーナの公式の労働市場から締め出されています。

発展途上国なので、賄賂を渡せば、難民もマーケットで商売ができるのですが、同じ商品で同じ値段なら、ガーナ人はリベリア難民からではなく同じガーナ人から必ず買います。リベリア難民は国際支援で苦労せずに生活できていると多くのガーナ人は考えているので、リベリア難民から商品を買うことを避けます。

また、リベリア難民はガーナの銀行口座の開設ができません。銀行口座がなければ、借り入れも極めて難しくなります。結果、リベリア難民は元手が必要な利潤の高い商売を始めることができません。かつてはブジュブラムでもUNHCRが難民向けのマイクロファイナンス(少額融資)を行っていましたが、2003年の停戦合意以降は、本国帰還が最大の目的となったため、難民が長期間ガーナに根付くことになりかねない起業資金の貸し出しプログラムは全て閉鎖されました。

ガーナ人にとって極めて腹立たしいのは、リベリア難民のほぼ全員がガーナの現地語をろくに覚えないことでしょう。あまつさえ、リベリア難民たちはガーナ定住すら希望せず、先進国移住に異常なほどの熱意を燃やしています。著者が難民たちに現地語を覚えない理由を聞くと、「いずれアメリカ(リベリア宗主国)に行くので、ガーナの言葉を覚えても仕方ない」と、素っ気なく答えられたそうです。ブジュブラムのリベリア難民は口をそろえて、ガーナ人がいかに排他的で冷たいかを滔々と著者に語ったそうです。これに著者は強い違和感を抱かずにはいられませんでした。

ブジュブラムのガーナ支配人はある時、著者にこう言いました。

「ここの難民たちは先進国移住のためならなんだってやる。リベリア大統領を暗殺したら、先進国に移住できると言われたら、本当に殺すだろうよ。あいつらは先進国移住に憑りつかれているんだ」

著者は難民キャンプで、ミニスカートで胸が見える服を着た若い女性3人組に突然話しかけられたことがあります。著者が日本から来たことを伝えても、日本がどこにあって、どんな国かも知らないほど教養がない女性たちです。まず聞いたのは、リベリア公用語であり、彼女たちも話せる英語が日本で通じるかどうかです。通じないと分かると、日本への移住は難しいと判断したのか、アメリカの友人がいるのか、あるいはカナダやオーストラリアの友人がいるのか著者に聞きます。いると分かると、著者に友だちになりたい、著者の友だちにも興味がある、と吐息がかかるほど近づき、耳元でささやきました。さらに、会って3分しかたっていない著者の右手を両手で慈しむように握りしめました。彼女たちの目的が分かった著者が「僕の友だちは君たちの助けにはなれないと思う。ごめん」と言っても、彼女たちはわずかな可能性にかけて執拗に食い下がり、著者からメモとペンを取り上げ、自分の携帯番号を書いて、「今度来る時は必ず電話して。絶対に約束よ」と、またささやいたそうです。

著者がプライベートで最も長い時間を過ごしたエマーソン(男性)の話です。エマーソンはリベリア内戦中に父と生き別れ、現在も父は生死不明です。母と二人の妹とともに隣国のコートジボアールに逃れ生き抜きます。リベリア脱出から数年後の2000年に、先進国移住を目的に家族をコートジボアールに残したまま、ガーナのブジュブラムにやってきました。コートジボアールには正式な(?)難民キャンプがないので、先進国移住のためにはガーナに来なければならない、というのがリベリア難民で常識となっていたからです。当然、エマーソンの人生の第一目標は先進国移住になっており、著者がいくら質問しても、「お前も先進国出身なら分かるだろう。家族のためにも、絶対に先進国移住が必要なんだ!」としかいいませんでした。

「現実にどの程度の確率で先進国へ移住できるかは別問題だ。困窮する難民にとって、先進国での新しい生活を夢見ることは、目の前の食うや食わずの茨の日々を一瞬でも忘れさせてくれる『麻薬』でもあった」

そう著者は書いています。

インターネットカフェはブジュブラムでいつも繁盛している商売ですが、その大きな理由の一つはSNSを通じて、先進国にいるスポンサー探しができるからです。

ネットで知り合ったノルウェーの男性と結婚し、ノルウェー移住を叶えた35才女性の「シンデレラストーリー」は瞬く間にブジュブラムで広がりました。ネットでのスポンサー探しはブジュブラムで大ブームとなり、どうすればスポンサー探しに成功するかを助言するコンサルタント業まで複数登場します。過去にスポンサー獲得や海外からの金銭支援を勝ち取った「成功実績」をウリにして、「どのSNSが成功率が高いか」「どのようなプロフィールを載せるべきか」「どんな写真を掲載すべきか」「どのような返信をすべきか」などのノウハウを有料で教えてくれるそうです。

著者の近所に住むサミュエルの先進国移住の夢物語が載っています。

サミュエルの父とその弟である叔父は、長年、土地の相続問題をめぐり、激しく対立していました。土地問題がサミュエルの父に有利に終わることを恐れた叔父は、2003年のある夜、反政府軍に紛れて、父を殺します。サミュエルと弟は激しい物音で寝室から自宅を抜け出し、ガーナ行きの船に乗って、なんとか命拾いしていました。サミュエルの叔父は、今も罪に問われることなく、リベリアで生活しています。

そんなサミュエルが、ある早朝、興奮気味に著者の携帯に電話してきます。ネットでのスポンサー探しで、オーストラリア人の50代女性がサミュエルの話に同情して、オーストラリアに迎え入れるかもしれないと言って、当座の生活費用として200ドルを送金してくれたからです。「聴いているのかよ! 送金だけじゃなくて、オーストラリアに移住できるかもしれない! 俺にもようやく運が向いてきたんだよ!」とサミュエルは早朝にもかかわらず、叫んでいました。本によると、50代のオーストラリア女性は真剣であったようで、先進国移住に必要な手続きを全て請け負ってくれました。サミュエル兄弟はガーナのオーストラリア大使館で面接を受けた後、著者に向かって親指を立て、「好感触」と言いました。まさに夢見心地だったのでしょう。しかし、3ヶ月後、審査結果はビザ不許可でした。既にリベリアが内戦状態ではなく、政治的な理由よりも個人的な理由で帰国しづらいことが不許可の理由だろう、と著者は推測しています。はちきれんばかりに期待を膨らませていた当時20才のサミュエルの落胆は当然大きく、しばらくは抜け殻のようでした。

次の記事に難民キャンプの政治活動について書きます。

難民キャンプ内の助け合い

前回の記事の続きです。

「外圧にさらされる集団は、内部での結束力が高まるのが常だ」

「アフリカの難民キャンプで暮らす」(小股直彦著、こぶな書店)からの引用です。

難民キャンプが長期化すると、難民たちは受入国から帰国するように促されます。どの難民キャンプでも、多かれ少なかれ、周辺の現地住民たちとトラブルが生じるからです。

ガーナ内のリベリア難民キャンプのブジュブラムの例です。難民たちがレンガ造りの家の材料にするため、土地を掘り起こしていましたが、それは「土地を傷める」という理由で現地の首長(いわゆる族長)により禁じられていました。その事情を何度説明しても、難民たちは隠れて土地を掘り起こすので、揉め事になったそうです。さらに、前回の記事に書いたように、聖なる土地を難民たちのトイレにされたことで、現地の人たちは実力行使に出て、見つけた場合、男女問わず、袋叩きにしていました。

一方、2006年には、睡眠中の難民を鋭利な刃物で手当たり次第に突き刺す通り魔事件がブジュブラムで起こりました。難民たちはガーナ人の警察に訴えましたが、警察は口約束をしただけで、なにもしなかったので、難民たちは自警団を組織して、2週間後、犯人のガーナ人を捕まえます。しかし、ガーナ人のキャンプ支配人はその犯人を2日間牢屋に勾留しただけで、無罪放免とします。これを知った難民たちは激怒し、一部は暴徒化して、キャンプ支配人の事務所に押し寄せましたが、近隣のガーナ警察署からの警官隊の介入で鎮圧されています。

このようにガーナ政府に歓迎されていないブジュブラムの難民たちは困った時は自分たちでなんとかするしかありません。助け合いの精神が自然と生まれ、同じ難民が助けを求めてきたら、かりに自分の台所事情が苦しくても、本当に持っていない限り断ることはありません。断れば、次に自分が頼む時に断られるからです。

例えば、自身の子どもと友だちの子どもの面倒を見るペニーというシングルマザーと、その隣に住むジョアナの関係です。リベリアには、食事中に客人が来ると、一緒に食べようと食卓に招く習慣があります。ジョアナはその習慣を利用して、週に2,3回は必ず昼食時にペニーの家を訪ねて、ペニーの料理を食べていました。著者はその光景から、てっきりジョアナは貧しいと思っていましたが、ペニーによるとジョアナは金貸しで、相当に裕福だそうです。「呼んでもいないのに、しょっちゅう家に来るのよ。しかも、いつも昼食時を狙って」とペニーが憤慨していたので、「じゃあ、食事をシェアしなければいいのに」と著者が言いました。ペニーは言い辛そうに、「過去にジョアナにお金を用立てしてもらったことがある。いざという時にお金を貸してくれなくなると困るから」と答えたそうです。

他の例もあります。キャンプ内で結婚したものの、夫は4年前にノルウェーに移住してしまった30才のビクトリアです。非公式な結婚のため、2人の間に幼い子どもがいたものの、ビクトリアはノルウェーに移住できないでいました。夫から毎月100ドルの送金を受け取り、夫の幼馴染であるシングルマザーのエリカとエリカの子ども3人と同居し、エリカ一家もビクトリアが面倒を見ていました。エリカはカットフルーツを売り歩いて、わずかばかりの収入を得ていますが、ビクトリアの100ドルの送金収入と比べると、少ないようです。一方で、ビクトリアは娘と2人家族、エリカは子ども3人の4人家族で、エリカの方がどうしても支出は多くなります。著者が血縁関係のない知り合いをなぜ助けるのか聞くと、当初は「だって苦しんでいる人たちを放っておけないわ」と模範解答を返してきましたが、そのうちにビクトリアは次のような本音を語りました。「キャンプ内では送金の受益者が受け取ったお金を独り占めするのは正直難しい。周辺の住民は、みんな海外送金のことを知っているから。すごいプレッシャーがある。以前、エリカから『子どもたちの文房具を買いたいので、お金を貸してほしい』と頼まれたのだけど、その月は苦しいから断ったら、翌日から彼女は私のことを無視するの! それに彼女の子どもたちまで私の子どもを仲間外れにするようになったの。結局、私がお金を用立てる羽目になったわ」

もしエリカが夫の幼馴染ではなければ、このような仕打ちをしたエリカに「出ていけ」とビクトリアは言えたのかもしれません。しかし、エリカ4人家族との同居を指示したのは送金者の夫であったので、それは無理だったのでしょう。

このような助け合い精神、あるいは恵まれた者と恵まれない者の持ちつ持たれつの関係が息づいているブジュブラムですが、そのブジュブラムの助け合いグループに入れない者たちもいます。元兵士たちと売春婦たちのグループです。

元兵士たちは、GAPと呼ばれる地区に住んでいます。ブジュブラム内にGAPは三つあり、国連やガーナ政府が認めた公的機関であるLRWCの管理が全く及ばず、特定のメンバー以外は立入禁止です。著者は知り合いの介入で、なんとか「特定のメンバー」になり、GAPに何度も入ったようです。

他のキャンプ住民はGAPを無法地帯と呼んでいましたが、独自の秩序の存在に著者は気づきます。まず、リーダーには絶対服従です。また、メンバー同士での私闘の厳禁、GAP以外での酒とマリファナの禁止、警察に追われている時のGAP立入禁止の三つの掟があります。最後の掟は、ガーナ警察がGAPに踏み込んできたら、犯人に加えて、その場にいた全員がしょっぴかれるからです。リベリア内戦中にその残虐性で恐れられた元兵士たちも、ガーナでは警察に逆らえないようです。

GAPでは、メンバーの一人が食料品を調達してくると、他の連中と分け合う習慣がありました。マリファナとアルコールはその時点で金を持っている者が買い、その場にいるメンバーで回し飲みが基本です。小銭の貸し借りも頻繁に著者は目撃しました。

売春婦も、日本同様かそれ以上に、難民キャンプ内で厳しい視線が投げかけられているそうです。近隣住民から村八分にされた売春婦たちは、独自の助け合いグループを組織していました。売春婦たちはしばしばガーナの首都のアクラまでバスで2時間かけて出稼ぎに行き、1週間ほど現地に滞在します。その間、キャンプに残った売春婦たちは、他の売春婦たちの子どもの面倒も見る体制を作っていました。アクラに遠征した売春婦たちが帰ってくると、全員の収入を合計して、均等に分配します。次の遠征時は、アクラ遠征組とブジュブラム滞在組が入れ替わる、という仕組みです。他にも、メンバーの一人が病気になった場合には、食事を分け与え、商売の後に客が支払いをしないなどのトラブルが生じた場合、グループでその男の家に押しかけて抗議するなどの結束があります。

ガーナの難民キャンプで、このような経済的な助け合い組織が張り巡らされている事実は、私にとって意外でした。著者は必然のように書いていますが、私はそう考えません。

たとえば、2009~2010年の私の留学中、カナダに日本人同士のコミュニティはあったものの、このような経済的な助け合い組織に私が属したことはありませんし、存在したという話も聞いたことがありません。海外で金がなくなれば、日本人は帰国するだけでしょう。帰国する渡航費がなければ、日本の親戚に頼るはずです。

カナダ人をはじめ、他の西洋先進国の人たちが、ブジュブラムにあるような小規模経済助け合い組織を海外で立ち上げることも、想像できません。海外で経済的に困窮しても、自己責任で済まされるだけでしょう。

そういえば、「チョンキンマンションのボスは知っている」(小川さやか著、春秋社)は香港のタンザニア人車ブローカーのルポですが、やはり経済助け合い組織が存在していました。アフリカでは、このような経済助け合い組織が普及しているのでしょうか。もしくは、ある一定の経済レベルに達するまでは、昔の日本がそうだったように、経済助け合い組織が普及しているものなのでしょうか。

少しでも参考になる例を知っている方がいたら、ぜひコメント欄に書いてください。

次の記事に続きます。

難民キャンプの経済事情

「アフリカの難民キャンプで暮らす」(小股直彦著、こぶな書店)は素晴らしい本でした。難民キャンプの経済事情について調査した本です。

左翼のキレイ事に吐気を催す保守派たちへの共感」の記事で書いた生半可な海外ボランティアを経験した一人と、私との20年以上前の対話です。

相手「私が行った難民キャンプの経済支援はいずれ打ち切る予定らしいよ」

私「え? 難民たちは自国に帰れない人たちでしょ。支援がなくなったら、難民たちは全員飢え死にするんじゃないの? 国連も入っている難民キャンプでしょ? 国連が難民たちを見殺しにするわけ?」

相手「いや、全員が飢え死にするわけではないみたい。難民たちもお金を持っていて、地元民から食料を買えるから」

私「お金? どうして難民がお金を持っているの?」

相手「うーん。よく分からない。お金を全く持っていなくて、支援団体からの食料配給だけで生きている人もいるから」

「難民キャンプ内での金銭のやり取りがある」ことはボランティアの誰もが目撃していましたが、「そのお金はどこから来るのか」についてはボランティアの誰もがよく知りませんでした。

だから、私にとって難民キャンプの経済活動は長年の謎でしたが、上記の本で解決しました。

普通に考えたら分かることでしたが、難民キャンプで獲得可能な通貨には、本人が持ってきた母国通貨、海外の親戚などから送金された米ドルなどの国際通貨、難民キャンプの近くで違法で(場合によっては適法で)働いた現地通貨の3種類があります。

このうち持参した母国通貨は、母国のインフレなどで、だいたい一瞬で無価値に等しくなるようです。

海外支援金は、親戚などからの送金、国連などの公的機関からの援助金、海外ボランティアたちからの手渡しによる喜捨、の三つがあるでしょう。

このうち国連などの援助金は、ごくわずかです。なぜなら、難民キャンプは一時避難所で、生きるために最低限の援助でいいからです。だとするなら、食料などの現物給付が妥当で、武器購入に使われるかもしれない金銭援助だと不適当になります。また、難民キャンプ内で経済活動が行われることなど、国連としてはあまり想定していません。

しかし、現実には、ほぼ全ての難民キャンプで、金銭がやりとりされています(経済活動が行われています)。2015年のUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によると、世界にいる2100万人の難民の受入国の平均滞在年数は26年です。人生の長さを考えれば、26年が「一時的」のはずがありません。これほどの長期間、数千人か数万人が一定地域に滞在していれば、経済活動が発生するのは避けられません。

では、難民キャンプの難民たちは一体どんな仕事で金銭を得ているのでしょうか。

世界各地の難民キャンプごとに千差万別でしょうが、上記の本のガーナ国内にあるリベリア人たちの2万人程度の難民キャンプ(2008~2009年頃)、ブジュブラムの例を見てみます。

ブジュブラムで一番多くの難民が従事しているのが「飲料水と果物の小売業」です。西アフリカの焦げ付くような日差しの下では、誰もが水分を渇望するため、需要は多くあります。一方、元手は数十ドルで、簡単に商売を始められるため、売る人は多く、需要の多さを上回る供給過多になっており、乾季になると目抜き通り10mごとに1人の水売りがいます。1パックは10円で儲けは3円程度、1日働いて100パック売り、利益はわずか300円程度だそうです。

(300円! 今ならいざ知らず、2000年頃のインドなら、十分な稼ぎだったはずだ!)

それが私の感想ですが、先に進みます。

他にも、石鹸、ロウソク(よく停電するので必需品)、トイレットペーパー、食料品、古着屋、靴の修理屋、床屋などの露店、洋服の仕立て屋、ネイルサロン、携帯電話をかけるためのプリペイドカードの売店、DVDレンタルショップなどもそろっています。

著者が家賃を払って居候させてもらった家主の仕事は、小・中学生相手の塾講師です。

難民キャンプ内ではUNHCRが設立した小学校や中学校があり、そこの「公立」学校の先生になる人もいます。ただし、小学6年生で約3千円、中学3年生で1万3500円と高額で、対象の子ども全員が通学しているわけではありません。

難民キャンプ内には80のキリスト教会があるので、牧師の仕事もあります。

UNHCRが設立したクリニックもあり、そこの従業員になる難民もいます。

ただし、そのクリニックに歯科はないので、無資格の歯科医をしている人も紹介されています。ボランティアで来たカナダ人の歯医者から歯科医療技術を即席で習い、彼が残した医療器具を使って、ブジュブラムの歯の治療を一手に引き受けているそうです。抜歯する時には、歯に糸をくくりつけ、その糸をクリニックのドアノブに引っ掛けて歯を引き抜くという乱暴な治療法にもかかわらず、他の歯科がないので、客足は絶えません。

インターネットカフェの経営、新品・中古の携帯電話機の販売、レストラン、飲料水を提供するための貯水池の経営は「繁盛しているビジネス」と本にはあります。どれも起業時に相当の元手が必要なものばかりで、こういったビジネスに携わる者のほぼ全員が、親戚からの海外送金を受けている「特権的な」グループだそうです。

本には「海外からの送金―キャンプの命綱」と書かれています。ブジュブラムで裕福な人は、ほぼ例外なく海外送金の受給者です。

ブジュブラムの公式代表はLRWC(リベリア難民福祉協会)で、その会長と2人の副会長と8人のメンバーは、事実上の公務員です。

非公式な経済活動を行う難民たちから、どうやって税収を得ているかというと、一つは「公衆トイレ使用料」です。なんと、公衆トイレを使用するたびに、3.4円を払わなければならないのです。この使用料は清掃とメンテナンスに使われる規則ですが、その痕跡が全く見当たらず、一部のトイレでは堆積した排泄物が便器からあふれ出しており、強烈な悪臭を放っています。

難民たちは公衆トイレの使用を嫌い、近所に住む複数の家族でグループをつくり、お金を出し合い、自分たち専用のトイレを作っていました。そのメンテナンス費用は、グループで分担すると書いてあるので、トイレ掃除も仕事なのでしょう。

なお、この私設トイレは、グループ専用なので、お金を出していない者は使えません。私設トイレを持たず、公衆トイレも使えないほど貧しい者は、キャンプ近隣にあるガルフと呼ばれる茂みに隠れて、用を足します。しかし、現地のガーナ人にとって、ガルフは神聖な場所のようです。この場でウンチをさせないよう、定期的にパトロールを行っています。本には、ガルフで用を足している最中にガーナ人たちから暴行を受け、泥だらけで服が大きく割け、唇は切れ、目の下が腫れあがって青タンになっている14才の難民が出てきます。日本だったら、どんな理由であれ暴行罪になるでしょうが、この少年は警察に訴えることすらしていません。かりに難民キャンプに一人しかいないガーナ警察官に伝えても、犯人を逮捕することなどなく、「おまえの方こそ野グソをした罪で逮捕するぞ」と脅されるからでしょう。

本には、ブジュブラムに数十名以上の売春婦がいることも書いています。さらに、定職につかず、2名の海外送金受給者の女性に対して1日交代で相手をして、送金のおこぼれをもらう「ヒモ」の男性も1名紹介されています。

ブジュブラムでは、このような手段で難民たちは生計を立てていました。

難民キャンプ内の経済活動も大変興味深かったのですが、難民キャンプ内の助け合い(reciprocity)の話も大変興味深かったので、それについて次の記事で書きます。

マニュアル・スカベンジャーを推奨するヒンドゥー僧侶の一例

1950年代頃まで、日本の高学歴の青年たちは難しい哲学の本を肌身離さず持っていたそうです。私の記憶が正しければ、藤子・F・不二雄も、級友たちはみんなそうしていたと書き残していました。「教養本のすすめ その1」からの記事に書いた私のように、哲学書は生涯通じて役立つ教養を与えてくれると多くの青年たちが考えていたからのようです。

死体の前で金を騙される」に書いたように、インド旅行者のバイブル「地球の歩き方インド」では「インドは物質的には貧しいかもしれないが、豊かな精神世界が広がっている」と書かれています。「高野秀行の文才をねたむ」で紹介した「怪魚ウモッカ格闘記」(高野秀行著、集英社文庫)にも、お金や仕事よりも神学の勉強に生きがいを感じるインド人が出てきます。

ヒンドゥー教では、学生期、家住期、林住期、遊行期の四住期があります。このうち林住期と遊行期、つまり四つのうち二つもが俗世から離れて、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを重視しています。

インド人が精神世界を重視する側面があることまで否定しませんが、「インドで人生観が変わった」の経験があるため、どうしてもインドの宗教には胡散臭さを強く感じます。

「13億人のトイレ」(佐藤大介著、角川新書)にも、胡散臭いヒンドゥー教の僧侶が出てきます。村の結婚式や葬式を取り仕切り、著作もあり、テレビにも出演しているらしいババ・カランヨギ・マハラジュという49才の男です。

自宅兼寺院の応接室のテーブルのガラスの下に各国の紙幣があり、「カネは大事ですよ。カネで買える物は人間にとって大切なものが多いのです」と、宗教家なのに最初からカネを肯定したそうです。トイレの本の取材なので、トイレについて聞くと、僧侶は目をつぶって深呼吸してから、自信たっぷりにこう喋りました。

「トイレで排泄物を水に流せば目の前から消えるけれど、それは水を汚し、土を汚すことになります。水洗は便利なシステムかもしれませんが、聖なるものではありません。野外で用を足せば、太陽の暑さによって肥料になり、微生物が分解して姿を消します。しかし、水洗は乾燥できず、いつまでも汚いものとして残るのです」

野外排泄は簡単に覗かれて、強姦の被害にあいやすいため女性に不評で、インド政府は廃止しようとしていますが、それと真逆の意見です。どこの世界でも、宗教家は保守的なようです。著者が「野外排泄は、女性にとって危険ではないですか」と尋ねると、紅茶を運んできた僧侶の妻が「野外だと歩くことで健康になりますよ。1日に何度も行けないので、それがプレッシャーになって、一度で多く出るようになるのです」と、斬新な意見を披露しました。それを満足そうに聞いていた僧侶がさらにつけ加えます。

「体から出たものは、もう体内に戻るものではありません。それらは聖なるものではなく、不浄で衛生的ではないものなのです。ですから、台所や家の近くに置くべきではありません。まして、水の中に置いてもいけません」

つまり、野外排泄で、しかも水洗式でない乾式トイレを設置するのが正しいと主張するのか、と著者が問うと、「その通りです」と僧侶は満足気な笑みを見せました。その僧侶は乾式トイレを勧めていましたが、「不浄なもの」を処理する気持ちは微塵もなさそうでした。そういった作業は、ダリット(不可触民)たちが担うのを当然とする考えがにじみ出ていました。

「彼らが汚く、差別されて然るべき存在というわけではありません。社会がそのように区別していただけで、彼らも喜んでそうした仕事をしていたのです。私のような僧もいれば金持ちもいるのと同じで、そうした仕事をする人がいる、ということです」

そうなると、人間には職業選択の自由がなくなるではないか、という疑問を著者が述べます。僧侶は正面から答えずに、「みんなそれぞれやるべき仕事があり、それに従うべきなのです」という持論を展開しました。

インドでよくある理屈です。「カーストは認めても、差別を認めない」はガンディーも主張したことで、今でもヒンドゥー教徒の大多数はこの見解のようです。しかし、私を含め多くの外国人は、その両立が不可能だと考えています。

この僧侶は「ヒンドゥー教は科学的に証明されたものを教えているので、最も正しいのです」とも語ったそうです。同時に、「逆に最も危ないのはイスラムです。間違っている者は殺せ、というのがその教えなのですから」とも付け加えました。

インドの国旗は、ヒンドゥー教を示すサフラン(オレンジと黄に近い色)、イスラム教を示す緑、シク教などその他の宗教を示す白で構成されています。このような特定の宗教に偏らない「世俗主義」を、この僧侶は堕落したものと考えていたようです。

「黒砂糖を買う人が減って、安い白砂糖がよく売れるようになっても、いずれは健康にいいからと黒砂糖に戻っていきます。それと同じで、トイレも水洗から乾式や野外に戻っていくのです」

そう僧侶が自信たっぷりに述べた後、小用に行きたくなった著者がトイレの場所をたずねると、すぐ隣の部屋を示されました。驚いたことに、そこには水洗トイレがありました。用を済ませてトイレを出ると、僧侶は著者の言いたいことを察し、「どんなものか、使ってみないと分からないでしょう」と無愛想に話したそうです。

「IT先進国インド」の暗部

ビクトリア朝時代の全盛期の大英帝国のロンドンは、人類史上最高の富豪と人類史上最悪の貧困が同居していました。

人類史上最高の富豪は言い過ぎかもしれませんが、それ以前の貴族ではありえないほどの物質的な豊かさを手に入れられる面と、それ以後の税金や規制の多い法治国家ではありえないほどの富が一部に集中し、自由を手にしていた面はあるはずです。

人類史上最悪の貧困も言い過ぎかもしれませんが、排水溝のゴミ漁りを仕事にしていた少年がネズミの大群に食われて死ぬ事件は、それ以前や以後の人類の歴史でほとんど存在しないはずです。

そんな人類史上最悪の貧困の被害者少年と似たような仕事が、現在のインドに存在すると知りました。下水管の詰まりを直す仕事です。「13億人のトイレ」(佐藤大介著、角川新書)の日本人著者が鼻をつんざくほどの悪臭を放つ下水にも、「流れる量が少ないので、臭いもそうきつくありませんよ」とインドの下水掃除人は言いながら、マンホールを開けたそうです。手袋、マスク、ゴーグルもせず、裸足でマンホールの中に入り、雨季には首まで汚水につかって仕事をします。この下水掃除人は取材中、赤く充血した左目をやたらと気にして、何度もまばたきをして、決して清潔とは言えないタオルを何度も当てていました。当然ながら、インドの下水掃除の仕事に労災などの社会保障はありません。インドだと安い公立病院は大行列で、並べばその日は働けないので給料なしになり、下水掃除人の安い給料では私立病院の診察など不可能です。

上記の本によると、下水掃除人はインド全体で少なくとも30万人いると推測されています。死亡事故も頻発しているようで、本には書いていませんが、19世紀後半のロンドンのように、少年の死亡事故もあるのかもしれません。

インドで下水掃除人は、ほとんどダリット、つまりアウトカーストの不可触民が就業します。

本では、最もひどい仕事として、素手で排泄物を収集する仕事(マニュアル・スカベンジャー)が紹介されています。マニュアル・スカベンジャーのほとんどは女性ダリットで、インド全体で16万人程度いるようです。やはり手袋やマスクはしていません。1日で20から30件回って、1件につき月で50ルピー(80円)にも満たない収入しか得られません。著者が言うように、素手でトイレからウンチを取り出すなど、日本のブラック企業の比ではないほど、ひどい仕事内容です。

実は、インドではマニュアル・スカベンジャーは違法です。1993年に「マニュアル・スカベンジャーの雇用と乾式トイレ(水を使わないトイレ)設置禁止法」が施行されています2013年にはその強化法まで制定され、下水管や汚物処理タンクなどの手作業による清掃作業も禁止されています。

しかし、現実には今も数十万ものインド人がそれらの清掃作業に従事しています。インドを含む発展途上国ではよくある話ですが、法律が機能していないのです。

上記の2つの法律は連邦法です。各州の議会が批准しなければ効力は持ちません。州によっては「乾式トイレは既に廃止されていて、存在しない」と主張し、法律を批准しなかったりしたそうです。2013年に強化法が施行されても、実際に処罰されたケースは一件も報告されていない、と本にはあります。下水管の清掃作業で死亡事故が大きく報道されると、ダリットたちを中心に清掃労働者の抗議活動が起き、州政府がなんらかの対応をすると約束しますが、根本的な解決はなにも図られないままの状態が現在も続いています。

インドの野外排泄ゼロ達成は大嘘である

摩訶不思議国家インド」では、トイレを使用しないインド人は今も何億人もいると書きましたが、実は、インドはスワッチ・バーラトという「史上最大のトイレ作戦」を2014年から5年間実施し、2019年10月2日に野外排泄ゼロが成功したとモディ首相が祝典まで開いています。

2011年のインド国勢調査ではトイレを持たない世帯の割合は53.1%です。2015年のWHO調査では、野外排泄しているインド人は約5億6千万人(当時のインド人口の4割以上)です。これが2019年にゼロになったのですから、まさに「史上最大のトイレ作戦」は大成功です。人類史に輝く金字塔です。「世界はこの成功に驚いている。全世界は我々に敬意を払っている」とモディ首相が上気した表情で語ったのは当然でしょう。

インドを少しでも知っている方なら言うまでもありませんが、もちろん、これは大嘘です。「世界はそんなことはありえないと呆れている。全世界はインドにもっと正しい統計を出してくれと陰口を言っている」が正解でしょう。

「13億人のトイレ」(佐藤大介著、角川新書)がインドの農村に行って、いまだ多くのインドの家にトイレがないこと、家にトイレがあっても「トイレの清掃や管理が面倒」などの理由で昔ながらの野外排泄をしている人がいることを確認しています。インドのNGOのr.i.c.e.(research institute for compassionate economics)が四つの州を対象にして行った2018年の調査だと、人口の44%がいまだ野外排泄しているそうです。しかし、その調査された四つの州の三つは、2018年の時点で「野外排泄ゼロ」を公式に宣言しています。

なぜこんな嘘が公式にまかり通るのでしょうか。

2014年にモディ首相がスワッチ・バーラトの構想を発表した際、スワッチ・バーラト税が新たに導入され、14%だったサービス税が0.5%上乗せされました。インド政府は1億2千万のトイレを新設するため、補助金1兆4400億ルピー(2兆3040億円)の大盤振舞の予算を確保したのです。

ところが、補助金をあてにトイレ建設しても、金を受け取っていないケースが起き始めます。補助金は、トイレを建設した本人が村や地区の取りまとめ役に書類を提出し、それを州政府に上げていき、担当者が建設を確認した上で取りまとめ役を通じて、本人に支払われます。そのどこかで書類が止まってしまい、本人にはいつまでたっても金が支払われないというのが、最も多いケースです。

その逆のケース、つまり補助金は支払われたのに、トイレは作られていなかったケースもあります。インドの有力紙「タイムズ・オブ・インディア」によると、45万基のトイレが紙の上だけの申請で実際には作られておらず、54億ルピー(86億4000万円)が不正に支払われたそうです。

これだけの規模で、長期間にわたってごまかしが行われていたので、組織的な関与があったに違いありません。しかし、記事の扱いは決して大きくなく、報道を受けて司法が調査に乗り出したということもありません。日本では一大疑獄事件に発展するでしょうが、そんな雰囲気には全くなりません。背景には、汚職に慣れてしまったインド社会の現実があります。

汚職問題に取り組んでいる「トランスペアレンシー・インターナショナル」のインド支部が2019年にまとめた報告書によると、インド人19万人の調査で、過去1年間に賄賂を支払った人の割合は51%で、警察に賄賂を支払った人の割合は約20%です。

汚職の他、権力者のモディの命令を実行しようと、従わない者には暴力をふるい、嫌がらせをする強制力も蔓延しています。村単位まで張り巡らされたスワッチ・バーラトの担当者たちは、成果を出すことが自分にとってのポイントとなると身をもって知っています。

r.i.c.e.の調査によると、2018年8月から12月にかけて、スワッチ・バーラトの実現のため「野外排泄を強制的にやめさせられた世帯があるか」「(トイレを設置しなければ)食料配給など政府からの支援をなくすと脅された世帯はないか」「罰金を支払うよう脅された世帯はないか」の三つのうち一つ以上を経験した人が12%いるそうです。さらに、自分の住んでいる村や集落で、これら三つのことが起きていると耳にしたことがある人は56%にのぼっています。

ある村では、有力者によって構成された自警団や子どもの見回り隊が結成され、野外で用を足そうとしている人を見つけると、笛や太鼓を鳴らしながら取り囲み、花輪を身につけさせ、写真を撮っていたそうです。マディヤプラデシュ州では、野外で用を足している人の写真を撮れば100ルピー(160円)が与えられる仕組みがありました。こうした行為は、国連から「人権侵害だ」と指摘されたほどです。

ラジャスタン州の公立学校では、トイレを設置していない家庭の子どもは学籍名簿からはずすと、教師が発言していました。貧困世帯に対して行われる食糧配給がトイレのない世帯には行われていなかったという報告は複数の州で散見されています。ウッタルプラデシュ州では、トイレを作ったのにトイレを使用していない人に対して、村の有力者がなんの法律の根拠もなく500~5000ルピーの罰金を徴収していました。

こうした強要は、中央政府や州政府から指令があったわけではありません。村や集落がスワッチ・バーラト政策に「忖度」し、住民に圧力をかけていました。

インドの名誉のために付言しておくと、メチャクチャな統計が出てくるのは発展途上国では当たり前のことです。インドほどひどくないにしろ、日本も欧米の先進国と比べると、正しい統計が出せていません。

また、忖度は現代の日本政治でも頻繁に使用される通り、多くの民主主義国家でも起こります。インドよりも日本の方がひどい忖度の例を見つけることも可能でしょう。

5千円札と1万円札を使用不可にしても支持率7割

最近のインド本を読むと必ず出てくるモディの高額紙幣廃止政策は、「13億人のトイレ」(佐藤大介著、角川新書)にも書かれています。外国人を含むインド通貨を使う全ての人の生活を大混乱に陥れた政策だったので、インドに関わりにある人はどうしても書きたくなるのでしょう。

2016年11月8日午後8時、13億のインド人が驚愕する政策がモディ首相により発表されます。

「現行の最高額紙幣である1000ルピー札と500ルピー札を廃止する」

しかも、明日から。つまり、その4時間後から。

本にもある通り、日本でいえば5千円札と1万円札が明日から使えなくなる、と首相が発表したのと同じです。日本だと猛烈な反発が起こって、内閣総辞職衆議院解散に追い込まれることは必至でしょう。まして、意思表示が日本より遥かに強いインドなら、クーデターや内戦が起こるのではないか、とも思います。しかし、著者の予想に反して、焼き討ちや暴動はインドで一切起こらなかったようです。

500ルピー札と1000ルピー札が使えなくなると言っても、完全に無価値になるわけではありません。旧札廃止にともない、新たに500ルピー札と2000ルピー札を発行して、12月末までに銀行に預金することで、新札への交換が可能になっていました。大多数のインド人は旧札を預金して、事なきを得たのです。

とはいえ、11月8日の発表から12月31日まで、2ヶ月弱しかありません。旧札は当時のインド流通通貨の86%を占めていたと推測されています。何億ものインド人が銀行に2ヶ月間に銀行に殺到したので、丸1日並んでも新札に交換できない人が続出しました。

繰り返しますが、同じ改革を日本で断行したら、マスコミの大バッシングが起きて、罵詈雑言の政府批判がそこら中で発生するに違いありません。欧米だったら、デモ行進やストライキで社会機能が麻痺するはずです。中国ですら、ゼロコロナ政策を撤廃させたくらいの抗議行動は起こると予想します。

しかし、事実として、2016年のインドでは、そんな混乱が起きませんでした。それどころか、筆者が銀行に並ぶ人たちに話を聞くと、「不正をなくすためには仕方ない」「ずるい金持ちが困るのはいいことだ」と政権を擁護する発言が少なくなかったそうです。

高額紙幣廃止は、現金での決済が多かった中小企業や農村部の人たちに大打撃を与え、GDPを引き下げる要因にまでなったと推定されています。それでも、モディ首相の支持率は7割を維持し、2019年の総選挙でも圧勝しています。

そもそも、モディはなぜ突然、高額紙幣を廃止しようとしたのでしょうか。その理由は「賄賂や脱税で自宅にため込んでいた不正な現金や、ニセ札をあぶり出す」ためでした。インドを少しでも知っている人なら常識ですが、インドは日本や中国以上に賄賂社会です。脱税も日常茶飯事で、他の同等の経済規模の国ではありえないほど脱税がひどいことは分かっていても、実際、どの程度の脱税規模かはインド政府も、国際機関も、学者も、闇社会のボスも把握できていません。

インド政府は当初、旧札の流通量の2割が汚職による蓄財やニセ札といった不正なもので、約3兆ルピーが回収されて国庫に入ると見込んでいました。旧札を新札に交換するには、銀行を通さなくてはなりません。多額の現金を換えようとすれば、所持にいたった経緯が調査され、裏金であることが露見するという仕組みです。インド政府は「賄賂などの表面化しない地下経済は、GDPの2~4割に相当する」と説明していただけに、これらを一網打尽にして税収アップすると鼻息が荒かったのです。

しかし、それは皮算用に過ぎませんでした。2018年8月にインド準備銀行(インドの中央銀行)は、廃止された紙幣の99.3%が合法なものとして回収されたと発表しました。国庫に入ったのは1000億ルピー程度で、当初の目論見の1割にも達していません。高額紙幣廃止は、庶民の生活を大混乱に陥れただけで、インドの地下経済のあぶり出しには全くといっていいほど無力だったのです。

繰り返しますが、そうした結果が示されて、野党が猛烈な高額紙幣廃止批判をしても、モディの与党は2019年の総選挙で圧勝したのです。

一体、なぜなのでしょうか。そんなこと、インド以外では、ありえるのでしょうか。

ありえるのでしょう。日本などの先進国では戦争でもない限りありえませんし、ある程度発展した中国でもありえないのかもしれませんが、インドや現在のアフリカ諸国のように最貧国から先進国まで驀進している国では、ありえるのだと思います。

日本では昭和恐慌の1927年、裏面が白紙というお札が発行されたことがあります。普通に見ればニセ札であり、実際にニセ札として市中で受けとってくれなかった事件も発生しましたが、当時の日本はそれどころではない混乱期なので、裏面白紙のお札を印刷させた高橋是清を批判する声は大きくありませんでした。むしろ取り付け騒ぎの回避に成功したと賞賛の声が強く、高橋はその後に2度も大蔵大臣を任され、犬養毅が暗殺された時は一時的に首相も任されたほどです。

高額紙幣廃止が小さい問題になるほど、今のインドの変化は急激だということでしょう。「現在の韓国と未来の韓国」に書いたように、中国と比べたら遥かにゆっくり成長している韓国でさえ「爆速」で変化しているように見える日本人にとって、インドの変化の速さは想像を絶するはずです。高額紙幣廃止事件から、日本人がインドについて学べる教訓でしょう。

次の記事に続きます。

摩訶不思議国家インド

「13億人のトイレ」(佐藤大介著、角川新書)は素晴らしい本でした。

私がインドに興味を持つきっかけになった本の一つに「河童が覗いたインド」(妹尾河童著、新潮文庫)があります。その本でもトイレには注目しているように、インドに旅行して、トイレが気にならない人はまずいません。「不潔なトイレでは絶対に用を足さない」という人なら、今でも、インド旅行は不可能か、制限が極めて多いものになります。インドの経済発展とトイレ問題に注目した本は出るべくして出た本だと思います。これからも多くのインド本で、主題とはしないまでも、トイレ問題は出てくるはずです。

中国はアメリカのようだが、インドはヨーロッパのようだ」でも書いたように、インドほど訳の分からない国は、世界中に存在しないと私は確信しています。旧宗主国のイギリスを上回る経済大国になった今でさえ、何億人ものインド人はトイレを使わず、野外で用を足しています。そこまで経済発展したのに、下水はともかく、トイレすら普及していない国は世界中探しても、現在にも過去にも、存在しません。

「トイレも普及していないのに、なぜ携帯電話が普及するのか」「野外でウンチするような人たちが世界で通用するわけがない」「こんな変な国の存在感が増してきたら、世界はどうなってしまうのか」

そんな疑問は考えるべきです。何度も書いていることですが、「中国はこれまでの世界の常識が通用しない」と嘆いている日本人は、インドを知るべきです。インドに比べたら、中国なんて、よほど世界の常識、日本の常識が通用します。

インドは知れば知るほど、訳の分からない国だと思うほど、訳が分からない国だと私は考えていますが、当然、より広く深く知っている方が、インドを理解でき、インド人ともつき合いやすくなるはずです。

次の記事から、「13億人のトイレ」の内容を示しながら、インドの実像を少しでも明らかにしていきます。

なぜ日本のカンボジア支援は失敗したのか

1992~1993年に日本を含めたPKOが民主選挙に貢献したカンボジアは、現在、経済力を背景とした中国の影響力が増し続け、民主主義も後退しています。2017年には最大野党のカンボジア救国党を政府権限で解党させるなど、民主主義国家としてはありえないほどの独裁者の横暴が目立っています。フン・センが事実上の最高権力者の地位に約40年間も就いており、2023年の現時点で世界最長政権とも言われます。昨日行われた選挙でも、必然的に与党が圧勝し、フン・センの息子に最高権力が移譲される見通しです。30年前、カンボジアに民主主義を育てるために日本は貢献したはずですが、いつの間にか民主制の反対の世襲制が育ってしまったようです。

1990年代前半の日本のカンボジア支援はなぜ失敗したのでしょうか。

その答えは「その後、日本はカンボジア支援から手を引いたから」になります。では、「なぜ日本はあれほど金も人も出したカンボジア支援から手を引いたのか」という質問になると、「政治家を筆頭とした日本人たちがカンボジアに関心がなかったから」になると私は考えます。あるいは、前回の記事で批判したように「日本に外交理念がないから」と言い換えてもいいかもしれません。

日本のカンボジアPKO支援は、日本国内はもちろん、世界的に注目されました。海外では「戦後初の日本軍の海外派兵」と、まるで日本の軍国主義が復活したような報道でした。日本の保守派ほど自衛隊の海外派兵に積極的だったので、そう見られても仕方ない側面はありました。しかし、建前上も実質上もカンボジアPKOは国連の承認を得た支援であり、保守派の誰であれ、自衛隊カンボジアに侵攻することなど毛頭考えておらず、制度の面でも人員の面でも装備の面でも、そんなことは不可能でした。

では、なぜ保守派である自民党がこの時、自衛隊カンボジア派遣にこだわったかといえば、「日本外交のトラウマ」や「湾岸戦争のトラウマ」の直後だったからでしょう。同様の失敗は絶対に犯したくない、ただそれだけのために、自衛隊を派遣しました。それまで、上から下まで、日本人はカンボジアについてほとんどなにも知らなかったのに、一気にカンボジアの報道が日本で毎日行われるようになりました。しかし、カンボジアPKOが終了すると、カンボジアの報道は消滅と言っていいほど、激減しました。ほぼ全ての日本人にとって、カンボジアでの100万人以上の虐殺などどうでもよく、単に日本人の自衛隊員や警察官が一人でも死ぬかもしれないから、関心を持っていただけだったことがよく現れています。日本人として、情けないです。

私を含む多くの日本人にとって、最も有名なカンボジア人はポル・ポトでしょう。1992~1993年のカンボジアPKOの頃、毎日のようにニュースで出てきた名前だからです。しかし、その時点でポル・ポト派の勢力は衰退してきており、中国も手を引いていたので、いずれ消滅することは確実でした。だから、ポル・ポト派など考慮せず、カンボジアをどうするかを考えなければいけない時代に30年前からなっていたのに、その後も日本はポル・ポト政権時代の大虐殺の責任追及問題にこだわり、30年前あるいは50年前からカンボジアが抜け出していることを見逃していた気がします。だから、ポル・ポト派を支援していた中国の勢力を一掃して、日本がカンボジアの経済開発の主導権をとることも可能だったのに、2023年の現実はその逆になっています。

話を戻します。1992年頃、なぜ社会党を筆頭とした日本の野党はカンボジアPKOに反対したのでしょうか。それは、多くの国際社会と同様の見解、つまり自衛隊(日本の軍隊)の第二次大戦後初の海外派遣をさせたくなかったからです。そこから、日本の軍国主義が復活して、また戦争の惨禍が起きることを危惧したのです。事実、この後、自衛隊PKO派遣は常態化して、現在も南スーダンに派遣されています。さらには、国連が批判したイラク戦争にまで自衛隊は派遣されており、この流れで集団的自衛権が拡大されようとしています。だから、この時の野党の危惧は、全くの見当はずれでもありません。

それを考慮しても、当時の野党の批判は、中身がなかったと考えます。なにがなんでも自衛隊PKO参加を拒否するとして、牛歩戦術まで社会党は実施して、世論の批判を浴びました。

この時、「カンボジアで民主的な選挙を実施するためには、ポル・ポト派の暴力的選挙妨害を排除しなければならない。そのために警察力、あるいは軍事力が必要な現実は無視できない。当然、PKOに協力する自衛隊員や警察官に死者が出る可能性はある。『自衛隊に死者が出る可能性はないのか』と与党を批判ばかりしていれば、かえってカンボジアの平和や民主主義の構築で、日本は貢献できなくなる。むしろ、『自衛隊に死者が出る覚悟を持たせて、カンボジアの平和や民主主義の構築に積極的に貢献すべきだ』と与党批判すべきではないのか」という意見がなぜ野党から出なかったのでしょうか。また、「武力による国際貢献だけでなく武力外の国際貢献が重要だ」と主張するなら、「カンボジアPKOの後、PKO以上の人と金を使って、カンボジアに平和と民主主義を構築させるべきだ」となぜ主張し続けなかったのでしょうか。

与党も「憲法9条の解釈とか、何十年もしてきた不毛な議論はもう時代遅れだ。自衛隊がどうであるべきかよりも、カンボジアがどうあるべきかを議論してほしい」となぜ反論できなかったのでしょうか。もし与党がカンボジアへの適切な外交理念を打ち立てていれば、カンボジアPKO後も日本はカンボジア外交に十分な予算をつけていたはずです。カンボジアの経済開発で日本が主導権を握っていれば、「優秀な労働者を韓国や台湾にとられる日本」で示したように、カンボジアからの出稼ぎ労働者数で、韓国にすら負けることにもならなかったでしょう。中国の経済支援に頼るカンボジアの政治も、日本の影響力が強ければ、今よりはマシになっていたのではないでしょうか。残念です。

中国の現実的外交は、ある国と同じである

今年3月10日のイランとサウジアラビアの国交正常化を中国が仲介したニュースには驚きました。対立する両国家の関係を正常化させるなど、国連など国際機関を除けば、アメリカとソ連(ロシア)くらいしかできなかった特権を中国が持ったのですから、私の世界観では、ロシアがウクライナと戦争した以上に重要な歴史の転換点です。

中東に限らず、世界中の発展途上国で中国の存在感が激増しています。中国の外交方針は、人権重視のアメリカと異なり、経済重視と言われます。そうなると「中国は人間の尊厳を踏みにじって金儲けしている最低な国家だ」という印象を持ちそうですが、ウクライナ戦争で、中国はロシア寄りではあるものの、下の国連決議にもあるように、ロシアに全面的に賛成しているわけではありません。

ウクライナ戦争では、人権面でロシアがウクライナより非難されるべきことまで、中国は否定していません。それと同様、世界中の中国の経済進出で、中国は現地の人権面を軽視していると言われるのは仕方ないにしても、無視しているとまでは言えないと私は考えています。

アメリカや西洋諸国は、人権が守られることを大前提としているため、人権面を軽視する独裁国家だと、経済的な関係を一切持とうとしません。そのような外交方針だと、政治的に遅れた国が、経済的にも遅れることになり、現地の人たちはさらに苦しい生活を送らなければなりません。それでは現地の人たちがかわいそうなので、人権が重要なことは認めながらも、経済的な関係は保ち、現地の人たちに少しでも楽な生活を送らせるべきでしょう。また、衣食足りて礼節を知るという言葉のように、経済的に発展すれば、いずれ政治的にも人権面が保護される可能性が増してくるはずです。これが中国の外交方針です。

ある程度、外交を勉強した人なら知っているでしょうが、上記のような外交方針は、ある国も持っています。日本です。「西洋諸国は人権を重視しすぎて、現実を無視している。人権が大切なことは否定しないが、発展途上国に西洋並みの人権を保護させるのは現実的でない。日本は現実的な外交を展開する」といった言葉は、日本の外交でよく出てきます。ミャンマーはその代表例です。しかし、現在の中国が位置する世界第2の経済大国を50年近くも続けてきたのに、日本が現在の中国並みに外交で存在感を持った時は、第二次大戦後、一度もありません。

その最大の理由は、現在や今後数十年間の中国ほど、日本は経済力や軍事力がなかったことでしょう。ただし、右翼からも左翼からも批判される通り、日本の外交理念の弱さもあったことは忘れるべきではありません。

こちらのブログで書いてきた通り、もう150年以上、日本は外交理念が弱いため、外交で痛恨の失敗を重ねています。

幕末の稚拙な外交政策から日本は教訓を得ているのか」に書いたように、幕末期、日本側の無知のために、日本は欧米列強と不平等条約を結んでいます。さらに、それから150年もたっているのに、「ペリーやハリスは不平等条約の締結を目的としていなかった」「ペリーが日本に来た一番の目的は、中国と交易したかったから」という基本情報すら一般に広まっていません。「日本の歴史学会はいつになったら客観性を身に着けられるのか」でも嘆いたことですが、日本は客観的な外交事実すら把握できていないので、国際的に通用する外交理念を形成できないのかもしれません。

なぜ岩倉使節団は不平等条約を改正できなかったのか」に書いたように、岩倉使節団アメリカの「全権委任状がない」との無理難題に振り回された上、最低限言うべきことも言っていないほど、アメリカに媚びへつらいました。

日本外交のトラウマ」に書いたように、湾岸戦争時に日本は1兆5千億円も金を出したのに、アメリカ側から「じゃあ、その金をあげるから、あなたが戦争言ってくれ」と言われて、日本の首相がなにも言い返せなかった、という侮辱を受けています。

湾岸戦争のトラウマ」から本来あるべき方向と真逆に進んだので、イラク戦争NATO加盟国であるドイツやフランスは断固として反対したのに、日本は自衛隊派遣に徹底してこだわったので、「日本はアメリカの属国」などと批判されています。

日本は民主主義国家なので、日本に外交理念が弱いため外交で失敗ばかりしているのは、「日本人が開明思想を持っていれば幕末・維新の悲劇は少なかったはずである」に書いたように、日本人全体が国際的に通用する理念を持っていないからです。「日本が負けるに違いない太平洋戦争を始めた本質的理由、あるいは日本が第二次大戦で負けた本質的原因」に書いたように、そんな理念がないからこそ、日本は第二次大戦の失敗を犯したのです。

また、国際的に通用する外交理念を東大卒のエリート警察官すら持っていなかったから、「なぜカンボジアPKOで警察も派遣したのか」からの一連の記事で私が批判したように、カンボジアPKOの警察派遣で失敗するのです。また、「カンボジアPKOの最大の失敗」は検証不足にあるように、日本は外交の失敗を適切に検証していないから(外交に限らず、日本は全ての政策について検証不足ですが)、外交で失敗を繰り返し続けています。

「資本主義と共産主義」あるいは「民主主義と共産主義」が対立しない実例は70年以上前からインドにあった

私が生まれる前の話になりますが、「民主主義=資本主義」という考え方が、戦後から1970年代くらいの日本人には強くあったようです。昔の本を読むと、「共産主義VS民主主義」という言葉、あるいは考え方が、特に反共産主義派(資本主義擁護派)から頻出します。

共産主義者は「共産主義も民主主義である」と考えているので、「共産主義と民主主義は対立するものではない!」と激怒すべきだと私は思えるのですが、当の共産主義支持派や社会主義支持派も、激怒せずに、場合によっては共産主義と民主主義は対立するものとして議論に参加していたりします。

私には、これに非常に違和感がありました。

共産主義は民主主義を否定しないはず。共産主義のどの本を読んでも、プロレタリア(共産党)独裁は一時的なもので、共産主義は民主主義によって発展する、あるいは共産主義は民主主義の発展形と言っている。現実には、民主集中制という、独裁を許す制度になっているらしいが、少なくとも建前は民主主義を擁護している。なぜ共産主義と民主主義の対立を認めるのか」

これは私の中で、長年、解けない謎の一つです。

そこまでの謎ではありませんが、「資本主義VS共産主義」あるいは「自由主義VS共産主義」という対立にも、違和感があります。

「資本主義VS共産主義」は対立しません。その代表例が中国です。現在の中国経済は、実質的にほとんど資本主義(自由経済)ですが、政治は一党独裁で、完全に共産主義です。

もう一つの代表例は20世紀後半のインドです。独立後のインドは紛れもない民主主義国家ですが、共産主義経済(計画経済)が主体でした。「民主主義=資本主義」は必ずしも成り立たないのです。あるいは、「必ずしも~ない」という表現が不要なほど、例外が多いのではないでしょうか。

だから、「民主主義VS共産主義」や「資本主義VS共産主義」という対立を前提として論じている者がいたら、「それらは対立しない。インドの例をみろ。共産主義国家ではないが、共産主義経済、つまり計画経済ではないか」と反論する者が全共闘時代にただの一人もいなかったことが本当に謎です。全共闘世代は、中国はよく知っていたものの、インドのことはよく知らなかった、としか思えません。

また、全共闘と対立していた大学の教授たちの中で、「共産主義と民主主義は必ずしも対立しません。インドは民主主義国家ですが、計画経済を採用して、経済発展が遅れていることは知っていますか?」と興奮した左翼学生たちに新しい視点を提供できた者は一人でもいたのでしょうか。

「資本主義VS共産主義」あるいは「民主主義VS共産主義」が対立しないことは、いいかげん、気づきましょう。戦後から1970年頃まで、日本人がこんな答えのない命題を無数の場で熱心に議論していたようですが、実はその時点でも「インドでは両者が対立していなかった」という例外があったことに気づきましょう。そんな議論は「観念論でなく教育内容に注目すべきである」で批判した「基礎学力教育」と「個性尊重教育」のどちらが重要かの議論と同じくらい、当時から無意味であったことを自覚しましょう。

なぜミャンマーで2021年の軍事クーデターが起きて、今後ミャンマーはどうなるのか

21世紀初頭、ミャンマーは20年間も憲法を無視した軍事独裁政権が続いていました。しかし、2008年に憲法ができ、2011年に軍最高司令官とは別の大統領が憲法にのっとって就任し、2016年に民主選挙による政権移譲が行われました。ミャンマー民主化は着実に進展していたのです。

「一度進みはじめた民主化を止めることはできない」という考え方があります。「ミャンマー現代史」(中西嘉宏著、岩波新書)によると、「ミャンマーは軍事政権には戻らないといった声が支配的に」なっていましたし、著者もそう言っていたそうです。

しかし、2021年2月1日の軍事クーデターで、ミャンマー政治の最高権力者のアウンサンスーチーや政権幹部は逮捕・拘束され、現在まで一切の意見を公表できていません。ミャンマーは再び軍事政権に戻りました。

どうして民主化が10年間も進展していたミャンマーが再び軍事政権に戻ったのでしょうか。

それについての答えはいくつもありますが、一つの答えを述べるなら、「2010年代のミャンマーの民主政治期」に書いたように、いつでも軍事クーデターできる体制になっていたからです。2021年のクーデターでは、軍出身の副大統領が非常事態宣言を発令しましたが、非常事態宣言は2008年に制定された憲法の第417条と第418条(a)に明記されており、憲法にのっとって発令されています。もっとも、憲法制定当時から、これらは「クーデター条項」と批判されていましたが、ともかく、2010年代に進んだミャンマー民主化は簡単に軍の力で抑え込める体制になっていました。

だから、「なぜ2021年にミャンマーで軍事クーデターが起きたのか」という問いは、「なぜ2021年までミャンマーで軍事クーデターが起きなかったのか」という問いにも関連します。2015年の民主選挙までは、元軍人テインセインが政治の最高権力者であり、政権幹部もほぼ全員軍人関係者なので、軍がクーデターを起こす理由はありません。しかし、2015年の民主選挙で与党が大敗して、スーチー政党NLDが圧勝してからは、いつでも軍はクーデターを起こす理由がありました。2016年以降、軍が政治を動かせなくなっただけでなく、閣僚を含む政権ポストの多くを軍関係者は失ったのです。普通に考えれば、この時点でクーデターを起こした方が、軍にとっては得です。なぜスーチー政権の5年間、軍はクーデターを起こさなかったのでしょうか。

その最大の理由は、経済成長にあったと私は考えています。「2010年代のミャンマーの民主政治期」に書いたように、2012年にスーチーが国会議員になったことで、海外投資が飛躍的に増えて、ミャンマーはかつてないほどの経済成長を成し遂げます。もし2015年の選挙が不満だからといって、軍事クーデターを起こせば、多くの民主主義国家は確実に経済制裁を加え、海外投資は激減し、経済成長は鈍ります(事実、2021年の軍事クーデター後にそうなりました)。

「経済が発展して、国民の暮らしも豊かになった。政権幹部のポストの多くを軍が失うが、その気になればいつでも軍事クーデターは起こせるのだから、しばらくスーチーに政権を預けてもいいだろう。西洋諸国の多くはスーチーが大好きだから、さらに経済が爆発的に発展して、軍人の生活も豊かになるかもしれない」

そんな風にミャンマー軍は考えたのではないでしょうか。

別の観点からいえば、スーチー政権がテインセイン政権と変わらない程度しか経済成長できなかったからこそ、軍はクーデターを起こしたのかもしれません。スーチー政権がテインセイン政権の2倍の経済成長率を達成していたりしたら、2021年に軍はクーデターを起こさなかった可能性が2倍以上高くなっていたと推測します。あるいは、2020年にコロナ禍で経済がマイナス成長になっていなかったら、今もスーチー政権だった可能性は十分あったでしょう。

次に「もっと後に軍事クーデターを起こすこともできた、あるいは永遠に軍事クーデターを起こさないこともできたのに、なぜ2021年2月1日にミャンマーで軍事クーデターが起きたのか」について考察します。

2015年の選挙に続いて、2020年の選挙でもNLDが圧勝すると、選挙に不正があったと軍は繰り返し訴えてきました。クーデターの起きた2021年2月1日は下院の招集日で、その翌日には上院が招集され、スーチー政権5年間継続されます。不正な選挙結果による国会運営の阻止が、軍事クーデターの理由の一つです。

ただし、それまで5年間もスーチー政権であり、この選挙だけで政治の実質が大きく変わったわけではないので、2021年2月1日にクーデターを起こす必然性は乏しいです。スーチー政権が軍にとって大きく不利益になる政策を行った時でもよかったはずです。たとえば、2016年からのスーチー政権期に、大統領よりも上位にある「国家顧問」法案が可決された時点で、「憲法が規定する最高権力者の大統領よりも上の地位をもうけるなど憲法違反だ」と軍事クーデターを起こした方が、まだ国内外への説得力があったと思います。

ミャンマー現代史」によると、軍も2月1日の直前まで、本当にクーデターを起こすかどうか迷っていたようです。水面下では、ギリギリまで軍側と政権側の交渉が続いていたことが分かっています。

2021年1月30日、政権幹部2名と軍幹部2名の会合がありました。軍は①選挙管理委員会の交代、②議会招集の延期、③票の再集計を要求します。スーチーはこの要求を全て受け入れませんでした。それどころか、軍に一切の連絡をしないまま、1月31日に翌日午後の議会招集をアナウンスして、軍のメンツをつぶします。これで準備されていたクーデターにミンアウンフライン軍最高司令官のゴーサインが出たようです。

スーチーが軍の力に無自覚だったわけではありません。直前まで、軍による政権転覆を懸念する声が周囲からスーチーに伝えられていたことも分かっています。それでも軍に妥協しなかった理由として、「ミャンマー現代史」の筆者は、「選挙不正の追及をいつもの揺さぶりだと考えていたからかもしれない」と書いています。「一方で、ミンアウンフラインも、クーデターをちらつかせればスーチーは軍の要求を呑むと読んでいたのだろう。だからこそ、2月1日の未明まで『待った』のだ。もっと早くに敢行することもできた。相手はブレーキを踏む。お互いがそう考えながら走るチキンレースの結末だった」とも書いています。

次に、今後のミャンマーがどうなるかについて考察します。

ミャンマー現代史」には、「断言してもよい。ミャンマーが2021年のクーデター前の状況に戻ることはない」とあります。しかし、前回の記事に書いたように、2011年からミャンマー民主化が進展することも、2021年のクーデターで民主政治が崩壊することも、予想できなかった著者の断言なので、あまり信用できないでしょう。

まず、「ミャンマーでは(クーデター前の)出版の自由や民主政治が未来永劫戻らない」との断言は間違いになるでしょう。何年後、あるいは百年以上後かもしれませんが、いずれミャンマーでの出版の自由や民主政治は再開するはずです。「ミャンマー現代史」を読む限り、すぐに「ミャンマーがクーデター前の状況に戻ることはない」でしょうが、永遠に戻らないわけでもないでしょう。断言するなら、「あと〇年は戻らない」などの期間も予想してほしかったです。

今後、ミャンマーがどうなるか、専門家でもない私に細かい予想はできませんが、大局的な予想ならできます。たとえ軍事政権下であっても、ミャンマーが経済成長していくことは間違いないでしょう。その理由は、ミャンマーはいまだ若者人口が多く、経済が未成熟で、発展の余地が大きいからです。

軍事政権下なら出版や思想の自由は制限されますが、それは経済の発展ほど、国民生活に影響を与えないと推測します。同じく出版や思想の自由が制限された中国で暮らした私の実感です。

以上の2点を踏まえれば、ミャンマーは2021年に軍事クーデターが起こりましたが、それは「ミャンマー現代史」が表現するほど、ミャンマー内外にとって大きな変化ではなかったと私は考えます。もちろん、自由化や民主化が後退したことはミャンマー人にとっても、人類全体にとっても悲劇です。しかし、「2010年代のミャンマーの民主政治期」に書いたように、2011年からの民主化が、「ミャンマー現代史」で「まるで別の国になった」と表現されるほど、大きな進歩でなかったと私は考えます。「ミャンマー現代史」も、スーチーは国内外で神格化された「ポピュリスト」であり、実際の政治能力は必ずしも高くなかったと指摘しています。

日本がそうであるように、10年や100年といった長い期間でみれば、ミャンマーの自由化と民主化は進展していくでしょう。日本ではミャンマーの関心が高いので、2016年のスーチー政権誕生や2021年のクーデターを、ミャンマーの大変革のように考えてしまっていますが、「大変革と言うほどでもない」「ミャンマーの発展が止まったわけではない」という考えをもっと持つべきだと考えます。また、「世界で最も注目すべき国はインドである」に書いたように、そこまでミャンマーの変化に感情移入して一喜一憂するのなら、インドやインドネシアにもっと注目すべきだと考えます。