未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

日本人である前に人間である

日本には閉鎖的な「〇〇村」があらゆる所に存在して、その周囲にいる人たちが、あるいは、それを報道する人たちまでが、いつの間にか「〇〇村」の一員になっていることがよくある、と私は考えています。

福島原発事故現場職員の被害者意識」「池上彰を原子力村の名誉村長に推薦します」に書いたような原子力村の日本での増殖過程は、その代表例でしょう。

日本人は木だけを見ているうちに森を忘れて、本質を見失ってしまうようです。自分の所属する団体だけの利益を考え、自分の周りの狭い世界だけの理屈を広い世界で強弁し、人類普遍の価値を忘れてしまいます。

「第二次大戦時の日本兵たちは壮絶な逆境の中でも不屈の闘志で戦い抜いていた」「原発事故の現場職員はメルトダウンが起きている中でも死を覚悟して働いていた」。それは紛れもない事実です。しかし、だからといって、彼らの罪が全てなくなるわけではありません。どんな犯罪者だって、正当性や言い分はありますが、罪が課されることはあります。「現場の人は必死だった」「命令した人は苦渋の決断だった」「被害者はもちろん悪くない」。だったら、「運が悪かった」「当時の状況が悪かった」という結論になってしまいます。刑法も警察も、罪も罰も正義も、要らなくなります。

「〇〇の仕事だから」「××の家だから」「△△の出身だから」といった狭い視野で考えて、その視野からなら正しいが、より広い視野で見たら大きな間違いである失敗を、日本人は何度も犯しています。なにより悪いのは、そんな狭い世界の価値を命がけで守ろうとしてしまうことです。「私にはそれだけしかない」「それだけが私の生き甲斐だ」といった表現は、謙遜好きな日本人たちが好みますが、もし本当にそうなら、その程度の「私」が社会全体に対して自己主張する権利はないはずです。「それしかない」のに「それでも熱い気持ちはある」と言って、傲慢に意見を主張しないでください。もし他者にも意見を主張しないのなら、人類の普遍的な価値観を忘れない程度の謙虚さは持ってください。

全ての人は、「人間だから」「人類の一人だから」、そんな普遍的な価値観を小さい頃から養い、その重要性を認識すべきでしょう。

池上彰を原子力村の名誉村長に推薦します

福島第一原発1号機冷却 失敗の本質」(NHKスペシャル『メルトダウン』取材班著、講談社現代新書)という本があります。この本のあとがきには「現場職員の一人ひとりは有能で意欲のある者たちだった」という言葉が出てきてしまいます。前回の記事で示したように、現場職員たちは加害者なのに被害者意識を持ち、内輪の理論を日本人全体の生命よりも優先する人たちです。そもそも、あれほどの被害を起こした結果責任で、彼らの行った全ての過程の美点も吹き飛んでしまうはずです。

その福島第一原発の職員の誰もが尊敬している人物が所長の吉田らしいです。事故後何年もたった後に吉田を尊敬していると胸を張って言える事実に、私は強い違和感があります。大げさにいえば、第二次大戦後に東条英機を尊敬していると胸を張って言われたような気分です。事件を何年も取材して、全体像を把握しているはずのNHK取材班は「吉田所長を尊敬している」と言われた時、次のような質問を現場職員に、なぜ、どうしてしなかったのでしょうか。

福島第一原発に高さ15mの津波が来る警告は何度も出されていました。それを無視したのは、他でもない吉田です。これは国会事故調でも、事故の根本原因として指摘されています。また、福島第二原発と同じく、福島第一原発でも地震後に適切に現場で処理されていれば、メルトダウンが起こらなかったことは既に分かっています。それでも、吉田を尊敬するんですか?」

この質問をしなかったのなら、あるいは「吉田を尊敬する」という言葉に疑問を感じなかったとしたら、NHK取材班は原子力村にいつの間にか取り込まれてしまった、と批判されても仕方ないでしょう。

「全電源喪失の記憶」(共同通信原発事故取材班、新潮文庫)で、私が最も呆れたのは、池上彰の「あとがき」の中にあります。

「あのとき(原発事故の時)恐怖に竦んで何もできなかった(職員たちがいます)。現場から立ち去ってしまった(職員たちもいます)。己の行動を恥じて沈黙するのは、人間として当然のことでしょう。それでも、自分の名前が報じられることを容認した人たちがいるのです。彼らが、いかに深い悔悟の念に駆られているかが推測できます。(略)現場で何もできなかったという自分の行動を告白する。これもまた、勇気ある姿勢ではないでしょうか」

この表現には既視感があります。第二次大戦の現場で殺人やレイプを犯した日本兵たちを、家族と離れて戦場に行ったことや過酷な自然環境での生活といった逆境側面だけに注目して、同情してしまう戦後の日本人たちです。池上彰原発職員の事故時の奮闘だけに注目しているうちに原子力村の一員となってしまい、事故の根本原因や日本全体での視野を忘れてしまったようです。

100年後の日本人のために書いておくと、残念ながら、この池上彰は「良心的ジャーナリスト」だと、現代日本で一般的に認識されています。上記の「あとがき」を読んで、池上彰を批判しなければならない、と考えた日本人は、もしかしたら、本当に私一人だけかもしれません。

福島原発事故現場職員の被害者意識

メルトダウン中、福島第一原発の現場で働いていた職員たちが一番心配していたのはなんだったか知っているでしょうか。

福島の住民たちに及ぼす被害ではなく、東日本壊滅の危機でもなく、同じく現場で働く人たちの安全でした。つまり、事故の被害者ではなく、事故の共犯者の安全を最優先していたことが、「全電源喪失の記憶」(共同通信原発事故取材班、新潮文庫)で臆面もなく白状されています。所長の吉田が責任をとって切腹しようと思ったのは、事前の警告通りに高さ15mの津波で全電源喪失した時でも、メルトダウンが起こってしまった時でもなく、3号機の水素爆発で現場職員40人が亡くなったと勘違いした時です。その背後にいる何百万、何千万の自分が騙してきた日本人のことなど、現場40人の命と比べると、吉田の中では小さかったようです。

上記の本を読めば、原発安全神話を吹聴してきた原子力村の人たち自身が、その嘘(安全神話)を信じてしまっていたと分かるでしょう。「カウントダウン・メルトダウン」(船橋洋一著、文藝春秋)で、第一原発の吉田所長と対比して、本当のヒーローと持ち上げられている第二原発の増田所長でさえ、事故前に「10条とか15条とかを出すような事態になったら、私はクビですよ」と言っていたそうです。それくらい、緊急事態発生前の10条や、緊急事態発生中の15条は起こるはずがない、と信じ切っていました。実際は、第一原発でも第二原発でも10条と15条を出していますが、吉田も増田も解雇されていないどころか、英雄扱いされています。100年後の人には理解に苦しむでしょうが、それが今の日本の現実です。

「全電源喪失の記憶」には、吉田が賞賛してやまない事故現場で働いていた職員たちが実名で出てきますが、原発安全神話を信じ切っているせいか、放射能の怖がり方をまるで知りません。「東京電力撤退事件」に書いたように、決死隊がわずか100mSvに怖気づいて仕事から戻ってくるなど、そのいい例です。他にも、1号機の水素爆発が起こったとき、周囲に舞ったゴミに触れたら死んでしまうと現場中の職員がパニックになって、仕事を完全に放棄し、鍵のかかっていない消防車に職員たちが逃げ込んだせいで、ぎゅうぎゅう詰めになる情けない状況が書かれています。もちろん、完全防御服を着た職員たちは、その程度で誰も死にませんでした。

第一原発津波発生後まで残っていた井出という妊婦がいたそうです。妊婦であるから、本人の意思に反して、先に逃げることになりました。本には「ごめんね、ごめんね、ごめんね」という井出の悲劇のヒロイン気取りの言葉が出てきて、読んでいる側が恥ずかしくなってしまいます。しかも、この「ごめんね」と謝っている相手は福島の住民ではなく、原発職員たちに対してです。謝る対象が根本的に間違っているのですが、原子力村にいれば、というか、この本の中では、それが正解になっているようです。井出に対する批判の表現は皆無です。井出は死ぬまで、この大いなる間違いに気づかないかもしれません。

原発基地は、文字通り、原子力村の中心地なので、そこで働く職員たちは骨の髄まで原子力村の理論で動いていたようです。だから、菅直人首相が現場入りして「なんでベントをしないんだ!」と怒鳴ったときも、菅直人が東電本店で「逃げようたって逃げられないぞ!」と大演説をぶったときも、現場職員たちは全く反省しませんでした。その真逆で、大多数の職員は、菅直人の説教に怒り心頭に達したそうです。しかし、この時の首相の声は、まさに国民全員の怒りの代弁だったはずです。怒り心頭に達していたのは、事故の被害を受ける日本人全員だったのではないでしょうか。

このように、本を読んでいると、現場職員が自分たちを加害者だと認識している様子はまるでありません。むしろ、想定外の大地震にあった被害者だと思っているようです。

ここまで原発職員びいきなのに、この本の「はじめに」では、「第一原発所員を英雄視するつもりも、事故対応を美談に仕立てる考えもない」と書いています。呆れてものも言えない、という表現はこういう時のためにあるように思います。これで中立を堂々と宣言できるほど、現在の日本が福島原発事故を歪んで見ていた証拠にはなるでしょう。

誤解だらけのIQ

・IQテストの平均点は常に100点である

・準備勉強をしてもIQテストの点数が上がったりはしない

・知能を客観的に測るテストはこの世に存在しない

以上はすべて間違いです。なお、3番目は「誰もが納得できる知能テストはこの世に存在しない」なら、当然、正しくなります。

「IQテストの平均点は常に100点である」については、ビネー式のIQテストがどの国で測っても、20年経過すると平均点が15点上がっていること(フリン効果)から、間違いです。IQが130以上だとか自慢している人がいたら、ビネー式で測っている確率は極めて高いです。そもそもビネー式IQテストは、知的障害者を分別するために誕生しています。頭の良さの程度を測るためのものではありません。

ただし、IQテストが客観性のない知能検査と断定するのも間違いです。特にスピアマンの提唱した一般知能g(≒知能指数)を16の因子に分けたキャテル・ホーン・キャロル理論(CHC理論)は、その16因子全てが統計的に実証されています。

ただし、残念なのは、日本ではCHC理論でのIQテストが実施されていないこと、それどころか、CHC理論の存在すらあまり知られていないことです。いえ、それよりもなによりも衝撃的だったのは、統計的に妥当性がある日本語のIQテストは一つも存在しないことです。それは「IQってホントは何なんだ?」(村上宣寛著、日経BP社)に赤裸々に書かれており、私も唖然としました。

同著ではリクルートが実施するSPI試験なども批判されており、SPI試験がそもそも知能検査になっていない、と全否定です。

別の観点から考えても、入社時にあれほどお金をかけて大規模に行っているSPI試験を含め、多くの日本の試験は、事後に有効性を統計的に調べていません。入社時のSPIの試験と、どれだけ会社に貢献したか(上から何番目のポストに就いたか、合計収入はいくらになったのか)の相関関係を求めることは簡単にできるはずなのに、なぜかしていません。これだとSPI試験に妥当性があるのか不明なので、当然、入社時のSPI試験をやめるべきかどうかの判断も客観性のないものになります。「新卒一括採用の功罪」に書いたように、日本の企業の人事担当者は、自分たちが毎日やっている人事や、賃金管理の仕事がどのような原理原則のもとに行われているかを理解していないようです。

 

※注意 「IQってホントは何なんだ?」(村上宣寛著、日経BP社)は2007年出版なので、それ以後に作成された日本語のIQテストは統計的妥当性の検証をされているのかもしれません。

キリスト教の謎

みなが不安を持って暮らす世界を救うために、麻原彰晃は現れました。麻原は仏教を基盤とした新しい教えを広め、わずか数年の間に、信徒を爆発的に増やしていきました。その教えを理解しようともしない時の国家権力は、麻原の教団を弾圧し、麻原を裁判にかけました。無知蒙昧な大衆どもは、麻原に聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせかけ、裁判の結果、麻原は処刑されてしまいました。しかし、麻原の死後も教団は生き残り、2000年後の今では、世界最大の信徒を持つ教団にまでなりました。

「2000年後の今では、世界最大の信徒を持つ教団にまでなりました」は未来に実現しないでしょうが、それまでの文は事実のはずです。そして、上の文章の「麻原彰晃」を「イエス・キリスト」、「仏教」を「ユダヤ教」にすれば、歴史的事実になります。

キリスト教はイエス生存当時、単なる新興宗教の一つに過ぎません(「なぜキリスト教は世界最大の宗教になったのか」に書いたように、厳密には新興宗教ですらありません)。オウム真理教のように時の国家権力により弾圧され、教祖が処刑されたので、イエスの教団は消えていく運命にありました。しかし、2000年後の今、事実として、キリスト教は世界最大の信徒を持っています。これは世界史上最大の謎と言っても過言でない気がします。

その疑問についての記事は「なぜキリスト教は世界最大の宗教になったのか」に書きました。ここでは、他のキリスト教の謎を述べていきます。

「なぜ大多数のキリスト教徒が、キリスト教についてほとんど知らないまま信仰しているのか」あるいは「どうしてキリスト教徒は聖書をそこまで大切と思っているのか」という謎です。

キリスト教では火葬が禁忌?」にも書いたように、もともとのキリスト教で火葬が禁止されていること、偶像崇拝が禁止されていること、イエスに兄弟姉妹がいること(それをカトリック東方正教会は認めていないこと)、聖書はどの時代やどの地域でも同じ内容と限らないこと、外典と呼ばれる現在の聖書に入っていない文献が多く存在すること、などの基本的なことを知らないキリスト教徒に私は多く会っています。だから、「イエスは結婚しており、妻はマグダラのマリアという売春婦だ」をテーマにした「ダ・ヴィンチ・コード」が現代にも生まれるわけです。イエスマグダラのマリアと結婚していた解釈は福音書から自然と導かれるので、1000年以上前から存在しているのですが、ほとんどのキリスト教徒は知らないのです。

これは信仰心の薄いキリスト教徒に限りません。物心着いた頃から教会に毎週日曜日に20年間以上通って、聖書を読んでいる時間が私の100倍以上は長い人でさえ、「聖霊とはなにか」という基本的な質問も答えられません。さらに、やはり毎週日曜に教会に通う敬虔なキリスト教徒なのに、上のダ・ヴィンチ・コードの影響でしょうが、「イエスは売春婦と結婚していた」と信じている人(聖書や外典に明確にそう書いていないので、事実は不明)や、「イエスは33才で亡くなった」と信じている人(イエスが生まれた年でさえよく分かっていないので、これも事実は不明。ただし、33才で亡くなった説をいろんな本で見かけるのは事実です)に私は会っています。

新約聖書がイエスの伝記(福音書)、使徒たちの布教(使徒言行録)、使徒たちの手紙(使徒の書簡)、難解な詩(黙示録)の4部門から構成されていることすら、私に言われて、一般のキリスト教徒は初めて気づいたりします。新約聖書のうち、イエスの語った教えが書かれているのは、当然、福音書の一部です。その福音書は4つありますが、どれもイエスの伝記なので、どうしても内容に重複があります。なおさら、イエスの教えは新約聖書の一部に過ぎないのです。その福音書でさえ、イエス自身が書いた内容は一切ありませんし、イエスの教えを直接聞いた人物が書いたわけでもありません。必然的に、イエスの教えが新約聖書の内容と一致しているとは限らなくなります。

新約聖書が4部門であることや、そのうちの1部門、福音書の中だけにイエスの教えがあることは、一般のキリスト教徒は知らなくても、何十年間も教会に毎週通っているキリスト教徒なら、やはり知っていました。私にとって謎なのは「イエスの教えが新約聖書のごく一部にしか書かれていない、福音書はイエスの直弟子が書いたものでないと知っているにもかかわらず、なんのために毎週、聖書を学んでいるのか」あるいは「それすら知らないのに、なぜ西洋人はキリスト教の洗礼まで受けているのか」です。

この質問を私は西洋人に何回かしたことがあるはずですが、どういった返答をされたかまでは、よく覚えていません。ただ、日本人のように「周りのみんなが信仰しているから」「家がキリスト教だったから」とは誰も言わなかったことは、間違いありません。事実はそうなのかもしれませんが、宗教のような個人思考の根本にかかわる問題で「みんながそうだから、私もそうだ」という言い訳など、西洋人は使いたくないからかもしれません。

聖霊とはなにか

カトリックプロテスタントを含む西方教会東方教会など世界中ほぼ全てのキリスト教は三位一体を信じるアタナシウス派の流れを汲んでいます。三位一体とは、神と聖霊とイエスを同一視することです。三位一体ではイエス人間性でなく、神性に注目しています。

キリスト教という宗教で、イエスと神の同一視は当然とも言えるでしょう。仏教でも、ブッダを神のように崇めています。しかし、聖霊とはなんでしょうか。神とイエスだけでなく、なぜ聖霊まで入っているのでしょうか。

なぜキリスト教は世界最大の宗教になったのか」の疑問同様、これも私が長年キリスト教に持っている疑問でした。当初、私は「聖霊とは天使のことだ」と考えていました。例えば、ガブリエルは聖霊の一つだと勘違いしていたのです。

しかし、末日聖徒イエス・キリスト教会の青年から、「イエスをマリアに身ごもらせたのは聖霊で、マリアに処女妊娠を伝えたのが天使ガブリエルだ。聖霊は天使とは違う。天使は複数いるが、聖霊は一つだけだ」と言われました。そこで私が「では、聖霊とはなにか? 天使とどう違うのか?」と質問すると、彼は答えに詰まってしまいました。彼は私と次に会った時に、その質問を覚えてくれていて、「聖霊とは天使よりも崇高な存在であり、私たちと共にある」などと答えてくれました。「それは神とどこが違うのか?」との私の質問には、「神は世界を創造した存在で、聖霊とイエスと一体だ」と答えてくれましたが、「では、聖霊がいなかったら、世界は創造できなかったのか?」と質問されると、また彼は困惑した表情になりました。彼は誠実そうなユタ州出身の青年だったので、意地悪な質問をしたことを私がお詫びしたら、「キミは悪いことをしたわけではない。私も聖霊について知りたい」と彼は言ってくれました。

カナダに住んでいた時、教会の牧師にも聖霊について質問してみましたが、「聖霊がいるから信仰心が生まれる」などと、よく分からない理屈を長々と説明されました。しかし、神に加えて聖霊という存在がキリスト教に必要な理由は分からず仕舞いでした。

その後、いくつかの本を読んで分かってきたのは、旧約聖書聖霊が既に出てきて、天使も出てくる、ということです。そして、旧約聖書にも新約聖書にも、聖霊と天使の能力や存在理由は書かれていないので、解釈は宗派によって違います。なお、ユダヤ教では神>聖霊>天使>人間と、崇高さの序列が明確にありますが、キリスト教では神≒イエス聖霊>天使>人間と、序列が微妙に変わっています。

一神教であるはずのユダヤ、キリスト、そしてイスラム教に、超人間的能力を持つ聖霊や天使が必要だったのは、絶対不可侵の神だけだと、物語上不都合があったからだと今の私は推測しています。超人間的能力を使うたびに神が現れたら、神のありがたみが薄くなってしまいます。本当に価値の高い奇跡を使う時だけ神を登場させ、ほどほどの価値の奇跡を使う時には聖霊、さらに低い価値の奇跡を使う時には天使を登場させたのでしょう。人間の上にいきなり神がくるよりも、神>聖霊>天使>人間と、人間と神の間に複数の存在があれば、神の崇高さも増します。

キリスト教で、イエスと神だけでなく聖霊まで一緒になって三位一体となった理由は、本来は人間であるイエス聖霊より格上にすることに抵抗があったからだと推測します。神>聖霊>天使>人間イエスではイエスを崇拝するキリスト教にとって不都合すぎます。しかし、神=イエス聖霊>天使>人間となると、イエスが人間という事実(新約聖書福音書)とあまりに矛盾します。そこで神だけでなく聖霊も仲間に加えて、神=イエス聖霊>天使>人間くらいの序列にすれば、キリスト教の思考体系としてふさわしい、と見なしたのではないでしょうか。

なぜキリスト教は世界最大の宗教になったのか

タイトルの疑問は私が20才前後でキリスト教の教養本を始めて読んだ頃から長年持っているものです。本の名前は忘れましたが、「イエス自身は新しい宗教を始めるつもりはなかった」と書かれていました。同様の見解は他のキリスト教の本で何回も見つけましたし、「(新約聖書の)教えは(旧約聖書の)律法を否定するものではありません」という言葉は新約聖書にもあります。イエスユダヤ人でユダヤ教徒であり、ほぼ全てのイエスの直弟子たちも同様です。イエスは新しい宗教を始める意図など毛頭なく、イエスの直弟子たちもイエス新興宗教の教祖とは思っていませんでした。まして神とイエスを同一視などしていません。

それにもかかわらず、イエスを神と同一視するキリスト教(厳密にいえばキリスト教アタナシウス派)が現在、世界で最も多い信徒数を獲得しています。いつ、なぜ、キリスト教なるものが教祖の意図に反して産まれて、世界中に広まったのでしょうか。

この疑問のうち、キリスト教が世界中に広まった理由の答えは、それほど難しくありません。大航海時代産業革命を先導し、世界中に植民地を広げた国家群がヨーロッパにあり、ヨーロッパではローマ時代からキリスト教が国教だったからです。

だから疑問は「キリスト教は誰がなぜ作り出したのか」「イスラエルで生まれたユダヤ人のキリスト教がどうしてローマ帝国に広まったのか」などになります。

キリスト教は誰が作り出したのか」の答えは、「パウロ」だと私は10年間くらい考えていました。その根拠は、新約聖書パウロの役割の大きさにあります。新約聖書は、福音書(イエスの生涯)、使徒言行録(イエスの弟子である使徒たちがどうキリスト教を布教したか)、使徒の書簡(使徒たちの手紙)、黙示録(難解な詩)の4部門から成ります。4部門のうち2部門、使徒言行録、使徒の書簡の中心人物は明らかにパウロです。新約聖書そのものでもそうですが、キリスト教の解説本になるとより露骨で、イエスの生涯(福音書)の後、パウロの生涯の話が続くのが一般的です。

しかし、「聖書時代史 新約篇」(佐藤研著、岩波現代文庫)などを読んでいって、パウロキリスト教創始者と断定するのはおかしい、と分かってきました。実在のパウロキリスト教創始者というほどキリスト教会に貢献していません。キリスト教の中で、パウロは神格化されている、とまでは言えないにしろ、実像よりも格段に偶像化されています。初期キリスト教世界で、異教徒や異邦人への布教に邁進した人はパウロ以外にもいたはずですが、それらの貢献のほとんどがパウロ一人に集約されているようなのです。しかし、紙も印刷技術も拡声器もない古代ローマで、一人の人間が布教できる範囲は限られています。パウロだけの力でキリスト教徒が爆発的にローマ帝国に広まったとは考えられません。それにパウロは初期キリスト教世界で、それほど重要な地位ではありません。パウロの現実の生涯を知れば知るほど、ローマ帝国でのキリスト教布教で、パウロの貢献は微々たるものであったと分かってきます。

そうなると「キリスト教創始者パウロでないなら一体誰なのか」という問題が再び出てきてしまいます。また「なぜローマ帝国キリスト教が広まったのか」という問題も残ります。

それを知りたくて、20冊以上は初期キリスト教の本を読んでいますが、いまだよく分かっていません。「名もない初期キリスト信徒たちなのだろうか」「どこまで調べても今からでは分かりようがないのだろうか」と考える程度です。もし答えを知っている方は、根拠も含めて、下のコメント欄に書いてもらえると助かります。

キリスト教の謎」の記事に続きます。

密約は条約ではない

「知ってはいけない」(矢部宏治著、講談社現代新書)は現状の日米外交の根本的な欠陥を赤裸々に示してくれた素晴らしい本です。ただし、疑問点もあります。「密約でも、国際法である以上、必ず守らなければならない。それは世界の常識である」と断定していることです。

法学に詳しくない私でさえ、その正反対の国際法を知っています。条約は署名しただけでは効力を示さず、当事国の国会の批准が必要なことです(厳密には国会の批准に限らず、受諾や承認や加入もあります。Wikipediaの「条約」参照)。条約によっては必ずしも国会の批准が必要でない場合もありますが、政治的に重要な問題は国会の批准が必要というのが国際標準です。

上記の本に出てくる密約は、国家主権に関わるので、政治的に重要な問題であることは論をまちません。もちろん、密約を国会で批准しているわけがありません。だから、「国会の批准がないものは公的拘束力がない」と密約を今すぐ無視しても、法律上、全く問題はありません。むしろ、それが本来の姿です。しかし、現実には、日米間の密約が日本のすべての法、それこそ日本国憲法よりも上位に置かれています。

なぜそうなってしまうのでしょうか。

著者の指摘する通り、「砂川裁判で司法が日米外交について憲法判断を放棄してしまったから」は間違いなく、根本原因の一つです。また、日米合同委員会と日米安保協議委員会が内閣や国会以上の権力をしばしば持っていることも大きいはずです。

つまり、アメリカ軍が日本の主権を犯していることに、日本の行政と司法のエリートたちが60年間も黙認していたことが原因です。なぜ、こんな異常な状況が長年続いているのでしょうか。

日本の行政と司法のエリートたちは、1957年に米軍兵士が遊び半分で日本人女性を射殺しても、密約で犯人を執行猶予にさせています。日本の中枢にいる彼らにも人として最低限の倫理観はあるはずなのに、どうしてそれを踏みにじってまで米軍におもねるのでしょうか。どうして同胞の日本人の味方をしないのでしょうか。そこまで日本人が嫌いなのでしょうか。私には完全に理解できないので、日本の行政と司法のエリートたちに、そうする理由を誰か今すぐ聞いてください。

 

※2020年6月7日追記

上記の嫌味は今読み返すと、恥ずかしいです。

「知ってはいけない」の後に出版された「日米地位協定」(山本章子著、中公新書)を読んでいたら、上のような記事は書かなかったでしょう。「日米地位協定」は学者による本なので、「知ってはいけない」よりは漏れのない事実に基づいて書かれています。「日米地位協定」を読めば、「知ってはいけない」にはいくつか間違いがあると分かります。上記でも指摘している「国家間の約束なら、密約でも守らなければいけない」は、やはり明らかな間違いです。たとえば、沖縄米軍の飛行訓練の制限は日米間で何度も取り決めていますが、アメリカはいつも守っていません。どうも、日本だけでなく、米軍も国家間の約束の引継ぎがうまくいっていないことが原因のようです。

ウルグアイラウンドとTPP交渉に見る日米外交の根本的な違い

「亡国の密約」(山田優著、石井勇人著、新潮社)を読んでいると、日本とアメリカでの外交の質的な違いが嫌でも分かります。70年前の日本の独裁者、マッカーサーの言葉を借りれば、アメリカが大人の交渉をしているのに対して、日本は「like a boy of twelve」です。

著者が主張する通り、日本と違ってアメリカが文句なく素晴らしいのは、外交の公的情報を公開する制度が整っていることです。2011年にアメリカの情報公開法に基づいて、外国人の著者が外交文書の公開を電子メールで求めたところ、日本の農水省が未だに認めていないミニマムアクセスの増量についての情報が含まれている上、「この情報公開に不服があれば、申し立てができる。時期がきたら、また請求してみたらどうか」との担当者のアドバイスまで添えられていたそうです。このブログでも「日本の歴史はいつになったら神話ではなく事実に基づくのか」などで嘆いたことですが、日本はできるだけ早く情報公開制度を整備すべきです。

ウルグアイラウンドでは、アメリカが国民的な公開議論により問題を解決しようとするのに対し、日本は徹底して密室での議論で問題を解決しようとしていたことが「亡国の密約」で示されています。

正式に条約を締結する前に、「ミニマムアクセスと量を制限して、米を輸入する」と両国の官僚同士で条約内容が決まっていました。しかし、徹底反対勢力の農協のいる日本側から米の一部輸入を提案するわけにはいきません。だったら、アメリカ側の提案に同意した形にすればいいのですが(そして、実際その通りなのですが)、そうしても、アメリカに屈したと農協から批判されるので、まだ日本側の官僚は納得しません。結局、ドゥニGATT事務局長が米を一部輸入するよう日本に提案して、それを日本が同意した形にしよう、となりました。もともと日米の官僚間で同意した内容を、GATT事務局長に発案させる、という変な儀式を国際的に行っているのです。

日本は不平等条約での失敗を150年間も繰り返し続けている」に書いたように、日米官僚間の合意時に、アメリカ側は政府全体でも情報共有して納得していますが、日本側は一部の官僚しか情報共有していません。だから、法体系上、条約内容について納得すべき政治家たちに、官僚間の合意の後に事情を説明しています。しかも、官僚たちが事情をまず説明した政治家たちは、農水大臣ではなく、自民党農水族議員たちだったりします。事情のよく知らない農水大臣には、ろくに説明もしないまま、「ここまで来たら反対は許されない」という流れに乗せて、条約署名の儀式をほぼ自動的に行わせています。

なぜ、アメリカのように公開討論して、米の輸入を日本人全体に認めさせられなかったのでしょうか。

本には、ウルグアイラウンド当時、農協の政治力が非常に強かったことが示されています。農協の保険・金融部門がいかに大きな組織であるかも書かれています。しかし、それを十分に考慮しても、1990年でさえ就業人口で10%未満の農業が、対GCP比であればさらに低い率の農業が、日本の貿易政策全体を左右させた事実に納得できません。大多数の日本人は「米の関税化は止むを得ない。そこでもめすぎると、小利にこだわって、大利を失うことになりかねない」と考えていたのではないでしょうか。いえ、国民の感情を議論するまでもなく、事実、そうだったはずです。米の関税化を阻止しようとするあまり、米の一部輸入を認めて、アメリカに秘密裏に優遇枠まで設けて、現在まで3000億円もの赤字を生んでいるなんて、愚の骨頂です。たとえ農家からの大反対があっても、ウルグアイラウンドを日本全体の利益になるように内容を修正して、条約を締結すべきでした。政治家や官僚たちは農家を含めた国民に納得させるべきでした。

なぜ、それができなかったのでしょうか。

その答えの一つを「日本人である前に人間である」に書いておきました。

日本は幕末外交の失敗を150年間も繰り返し続けている

「知ってはいけない2」(矢部宏治著、講談社現代新書)には、こんな文章が出てきます。

「米国の外交はアメフト型。プレイヤーはフォーメーションに従い陣形を組み、バックヤードでは多くのスタッフが過去のデータを徹底分析し、最善の1手を指示する。一方、迎え撃つ日本の外交はまるで騎馬戦。常に3~4人のチームで情報を独占し、しかも引き継がない。これでは百戦百敗になるはずである」

問題先送り外交」や「日米和親条約にある不平等条項」の記事で示したように日米和親条約では、日本の主権を犯す重要条項が無知な現場担当者の一存であっさり決まった歴史的事実があります。その痛恨の失敗を、どれくらいの外交官、どれくらいの日本人が知っているのでしょうか。センター試験の世界史で9割以上をとった私も、日本開国史(石井孝著 吉川弘文館)を読むまで全く知りませんでした。ほとんどの日本人が過去の歴史からなにも学んでいないから、今に至るまで優秀な(はずの)外交官たちが「アメフト対騎馬戦」の失敗を繰り返しています。

無知により国家主権を犯された失敗、国家利益を失った過去は、今からでも周知を徹底すべきです。小中高の全ての歴史教科書に必ず載せて、入試にも頻出にするべきです。そうすれば、日本のエリートなら必ず覚えますから。

「亡国の密約」(山田優著、石井勇人著、新潮社)にも書いてある通り、ウルグアイラウンドでも日本は同じ失敗を繰り返しています。日本側は一部の官僚だけが交渉し、その情報を独占しているのに対して、アメリカ側は一部の官僚に交渉は任せるものの、情報は常に政府全体で共有していました。情けないのは、アメリカが政府全体で情報共有し、全体で知恵を出し合っていることを、日本政府が全く気づいていないことです。交渉している数人の日本の官僚たちでさえ、「秘密とお願いしているから、向こうも情報は数人しか知らないだろう」と勝手な希望を抱いていたのです。頭の回転は恐ろしく早いはずなのに、根本的なところで間違っているので、致命的な失敗を犯している良い例でしょう。「問題を発見できないエリートたち」でも書きましたが、日本人らしくない私が日本のエリートたちを見ていると、こういった失敗をよく発見します。

日本は今も不平等条約を結んでいる

「知ってはいけない」(矢部宏治著、講談社現代新書)を先月読んで、茫然としてしまいました。著者は立花隆を尊敬しているようですが、その立花隆の全ての本をこの一冊で凌駕しているのではないでしょうか。日本の主権が米軍に蹂躙されていること、あるいは、全ての日本人の尊厳に関わることが書かれています。

「日本が不平等条約を結んでいたのは明治時代だけではない。現在の日本にも日米地位協定という不平等条約が存在する」という説は、ネットで何度か見かけたことはあり、それらを熟読して「確かにその通りだ」と考えてはいました。しかし、やはりネット情報なので、半信半疑のままでした。そういったネット情報には「米軍は日本国憲法を無視できる」や「米軍は日本のどこにでも自由に基地を置く権利がある」といった極論があったので、さすがにそれは陰謀論だと私も考えていました。

ただし、「北方領土がロシアから返還された場合、米軍が北方領土に基地を置くと主張すると、日本は拒否できない。だから北方領土返還交渉が行き詰まった」といった情報が新聞にも載るようになったので、「米軍は日本のどこにでも自由に基地を置く権利がある」は極論ではなく、むしろ「冗談抜きで、米軍は日本のどこでも基地にできる。それこそ北方領土にだってできる」らしいことが分かってはきていました。

そういった日本外交の謎が2年前には「知ってはいけない」でスッキリ解けていたこと、それ以前にも同様なことを書いた本は何冊も出版されていたことを今頃知りました。いくつもの密約が絡み合っている複雑な構造ではありますが、著者も書いているように、分かってしまえば単純な構造です。日本が戦後の米軍統治時代に米軍に認めた特権を、統治時代後も現在まで密かに認めるためにできた構造です。1回の密約だけでなく、何度も密約を結んでいますが、基本的な構造は次の通りです。

「古くて都合の悪い取り決め」=「新しく見かけのよい取り決め」+「密約」

しかし、密約であるため、現職の日本の総理大臣もよく分かっていません。もちろん、外交官も学者もよく知りません。嘘みたいですが、本当です。しかも、日本がアメリカの植民地になっているのではなく、アメリカ軍の植民地になっているので、ライス元国務長官が「いったい、どんな関係になっているの?」と言ったり、スナイダー元駐日公使が「こんな占領中にできた異常な関係はすぐやめるべきだ」と発言したりもしています。

日本に成田から入国したアメリカ人は日本の法律で裁かれますが、米軍基地から米兵はパスポートなしで入国できる上、日本にいるのに日本の法律で裁かれることはありません。米軍には米軍基地内だけでなく、日本中で治外法権が認められているのです。ありえない、あってはならない現実が今の日本で存在しています。

新聞を読んでいると、特にアメリカとの外交関係では「なぜこうなっているんだ」「どうしてそうなるんだ」と思うことが、私にはよくあります。上記の北方領土交渉の行き詰まりは、そのいい例です。そういった摩訶不思議な事件が、裏にこんな事実があるなら、納得できます。

「知ってはいけない」で著者が一番驚いたことがあるそうです。

「米軍機は日本中のどこでも低空飛行をしてもいい。だから、米軍基地外の日本領土で米軍は墜落事故を何度も起こしているが、米軍が日本の警察よりも早く捜査と事後処理をするし、その事故が日本の裁判所で裁かれることはない」

ここまでで日本の主権が犯されていることは明らかですが、さらに続きます。

「米軍機は、日本の米軍住宅の上では絶対に低空飛行してはいけない。危険すぎるからだ。アメリカの法律で禁止されているコウモリなどの野生生物や歴史上の遺跡の日本の上空も、軍事訓練はできない。ただし、日本人の住宅上では低空飛行しても構わない」

コウモリを保護するために禁止されている米軍の低空飛空を、日本人にはしてもいいそうです。つまり、日本人の人権は野生動物以下にされているのです。

著者の言う通り、反米とか親米とか、それ以前の問題です。日本人どころか、世界中の誰が考えても、おかしいです。

こんな状況が60年以上も続いているなんて、ありえません。今すぐ、このおかしな状況を変えるべきことに異論を挟む日本人はいません。

日本政治がオープンになるために

山口敬之という元TBSの総理番(総理大臣担当記者)いました。山口は安倍晋三のお気に入りの記者で、第一次と第二次の安倍政権時、他の会社の記者だけでなく安倍の公設秘書たちも人払いさせた後に、独自の情報を何度も安倍から伝えられています。しかも、その独自情報をすぐには報道せずに、安倍の機嫌をうかがって、報道するかどうか決めていた、という信じられない事実を「総理」(山口敬之著、幻冬舎)で堂々と白状しています。

ありえない話は「総理」の中にいくらでも出てきて、第一次安倍内閣の時、麻生太郎の次期内閣改造人事案のメモを安倍晋三に届ける、という役目を山口は引き受けています。言うまでもなく、内閣は日本政府の中枢です。次期自民党幹事長が現総理に内閣人事案を伝えるときに、公務員でもなんでもない人(山口)に伝言を頼んでいるのです。法律上、山口がその秘密を守る義務は全くありません。むしろ、報道人であるなら、そんな国家の最重要人事案は、すぐにでも公にしたがるでしょう。

しかし、山口が絶対にそれを漏らすことはない、と麻生は信じています。事実、山口は麻生に忠実に、その内閣人事案を一切報道することなく、上司にも同僚にも伝えることなく、安倍だけに伝えています。その情報を公にしたのは、麻生にも安倍にも迷惑をかけないと山口が判断した頃合いになります。

TBSから給料をもらっている人が、なぜ自民党政権のために仕事をしているのでしょうか。山口はTBSから「そんなスクープ情報は今すぐ報道すべきだ」と言われたら、どうするつもりだったのでしょうか。山口なら「そんな仁義に反することはできない」と拒否したに違いありません。

当然、山口はTBSを2016年に事実上クビになりました(直接の原因は不起訴処分になった準強姦罪の容疑)。しかし、その後に記した「総理」で、自分の仕事方法についての反省の言葉は全く述べていません。その正反対で、「内部に入らなければ重要な政局の情報は手に入らない」と自身の正当性を本気で訴えています。救いようがありません。

山口は公私混同も甚だしいです。こんな奴がつい最近まで首相の近くで働いており、記者クラブという特権階級で部下や同僚に威張っていた事実自体が情けないです(「総理」には安倍や麻生には敬語を使うのに、同僚や部下にはイライラして怒鳴ったりする山口の様子が臆面もなく書かれています)。

ここまで問題がある一方で、「週刊文春編集長の仕事術」(新谷学著、ダイヤモンド社)では山口の仕事術が絶賛されています。週刊文春。さもありなん、です。

政治の世界には表に出てこない情報が必ずある、と山口は固く信じています。だから、政治社会に深く入り込み、生々しい現場を目撃しなければならない、と「総理」に書いています。そのためには政治家や官僚に信頼されるため、適切な時までは秘密を厳守しなければならない、と信じているようです。

この根本の発想が、社会道徳と正反対です。それに山口は全く気づいていません。確かにすぐには公にできない政治情報はありますが、そんな情報は報道人も含めて、全て秘密にするべきです。一部の怪しい情報通が公開すべき時を情報源に忖度しながら決めるのではなく、公人ができるだけ早い時期に公開理由も含めて、政治情報を広めるべきです。情報公開を判断する公人は政治家たちとは直に接しない第三者であるべきです。また、情報内容が不適切に狭められていたり、情報の公開時期が不適切に遅すぎたら、当然、その公人は責任を問われます(叱責や懲罰を受けます)。

そもそも、日本では政治情報があまりに秘密にされすぎています。「日本の歴史はいつになったら神話ではなく事実に基づくのか」にも書いたように、重要な政治の決定過程は全て公文書に記録して、適切な時期になればすぐに公開すべきです。これに同意できない裏のある政治家なら、最初から表の世界の政治に携わる資格はありません。

山口のような裏社会の手法を尊重する奴が、表の政治社会で胸を張って活躍する恥ずかしい社会から、日本が1日でも早く脱却することを願っています。

日本人は昔の中国を見ている

「日本人が知らない中国セレブ消費」(袁静著、日経プレミアシリーズ)を読んで、私の中国知識を広めるとともに、こんな中国の基本情報を紹介する本がいまだ日本で必要なことを残念に思いました。「中国人は冷めた料理を食べない」は、「中国の実態は誰も知らない」の記事に書いたように、10年前に上海に住んでいた私も気づきませんでしたが、本来なら中国の経済発展が注目され始めた1990年代には日本で周知の事実になっておくべきだったでしょう。「ご飯(米)はご馳走目的の中国人に出してはいけない」「宿泊料金は食事込みの値段であることを伝える」などの中国の常識が、「爆買い」騒動後にまで日本で一般に広まっていない事実に、落胆してしまいます。そのための経済的損失がいくらか、誰か計算してほしいです。

上記の「日本人が知らない中国セレブ消費」にも「なぜ中国人は財布を持たないのか」(中島恵著、日経プレミアシリーズ)にも書いてあることですが、ここ数年で中国人のマナーが急激によくなっているそうです(そのことに著者二人が強いカルチャーショックを受けています)。

私は「国家の富は国民の道徳と教養によって決まる」と考えています。中国が急激な経済発展を遂げたのだから、文化も急激に成熟すると私も頭の中では考えていたものの、中国人のマナーの悪さだけは簡単に直るものではない、と思い込んでいました。中国のGDPが日本の2倍になっても、「中国人の平気的な性格は『橋下徹』である」と考え続けていたのです。しかし、それは変化の止まった日本の感覚で中国を考えていたことによる誤りだったようです。

中国は同質性の社会でない」ので、ごく稀に素晴らしいマナーの中国人がいることは私も以前から知っていましたが、まさか中国人全体でマナーの向上する日がこんなに早く来るとは夢にも思っていませんでした。「なぜ中国人は財布を持たないのか」の著者が指摘するように、「声が大きくて、マナーが悪くて、不潔であることは中国人の性質」と勘違いしてしまった日本人の一人だったようです。

日進月歩の中国と10年1日の日本」に書いたように、中国は信用スコアを採用したので、これから加速度的にマナーがよくなっていく可能性もあります。日本がボケーっとしている間に、中国が一気にキャッシュレス社会を到達させたように、気がついたら、マナーの面でも、中国人が日本人を追い抜くことにもなりかねません。さらに、「いつの間に日本はこんな残念な国になったのか」に書いたように、中国での監視カメラの普及で、犯罪率でも日本が中国に負けるようになったら、いよいよ日本が中国に勝てるものはなにもなくなるのではないでしょうか。「日本人は中国人よりマナーが悪いくせに、プライドだけは高い」と世界中の人たちに思われるようには、さすがに、ならないことを願うばかりです。

いつの間に日本はこんな残念な国になったのか

前回の記事の続きです。

中国が日本を追い抜いたもう一つの点は、街中カメラの設置台数です。これにより誰がどこの場所にいるのか瞬時に把握できます。残念なのは、それを報道している日本の記事が次のような切り口になっていることです。

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正確な統計はないものの、「2億台近い監視カメラの普及で犯罪は減り、夜中の一人歩きも安全になった」と書かれています。そこまでメリットがあるにもかかわらず、「日本で中国のような監視社会は無理」と、なんの根拠もなく断定されています。朝日新聞は、このような街中でのカメラの普及は一長一短である、と伝えたいのでしょうか。いえ、「忍び寄る監視社会」という見出しからしても、この記事を読んだ人は、一長二短くらいの印象を持つのではないでしょうか。

前回の記事の信用スコア同様、真面目に誠実に暮らしている人たちにとって、街中の監視カメラを恐れる理由はないはずです。監視カメラを恐れる人たちは、社会道徳に反することをしているはずです。もちろん、戦前の日本のように、憲兵たちが犯罪予防まで干渉するのは問題ですが、監視カメラを怖がりすぎるのも問題です。監視カメラによるプライバシーの侵害よりも、犯罪率の減少の方が、大多数の一般人にとって好ましい効果を持つはずです。監視カメラの普及は、中国でさえ二長一短、日本なら四長一短くらいの制度にできると考えます。

また、公権力による干渉問題を解決するためにも、「日本が世界最高のAI国家になる方法」にも書いたように、全ての街中のカメラの映像は、世界中にネットで公開すればいい、と私は考えます。そうすれば、国家権力の監視という意味が薄れ、犯罪防止にも有効です。このシステムは科学技術的に今すぐに導入可能なので、できるだけ早く導入してもらいたいです。断言しますが、全ての金銭取引と全ての人の位置情報をネット上に瞬時に公開できれば、日本は中国に逆転できます。

前回の記事、そして次の記事も含めての感想ですが、隣国の中国がここまでのスピードで変化しているのに、日本は「変化のスピードが恐ろしく遅い時代」を続けています。本来なら「革新的」であるはずの朝日新聞でさえ、無数のカメラによって全ての人の位置情報を提供できる未来社会について、上のような批判記事を書いています。さらに、朝日新聞は中国について先月6月4日に、1989年の天安門事件の30周年を大きな記事で論じていて、呆れました。

「30年前の天安門事件なんて、日進月歩の現代中国を考える上で、なんの役にも立たない。日本人はいまだに中国人が冷たい食べ物を嫌いなんて、基本的な情報すら知らない。中国人のマナーが劇的に改善していることも知らないし、キャッシュレス社会になって日本が追い抜かれた意識すらない。私はもちろん、あなたでさえ新聞記者になる前の天安門事件を大々的に書くくらいなら、現在中国の変化について記事にして、日本人の中国観を正しくした方がよほど日本全体の利益になる。違いますか?」

そんな風な発言をする気概のある記者は、朝日新聞に一人もいなかったのでしょうか。

中国の変化のスピードに日本人が茫然となっているのなら私も少しは安心できますが、ほとんど日本人はただボケーっとしているように思います。

隣の中国に対してでさえ、そうなのですから、それよりも早いスピードで発展するであろうインドについて、日本人はほとんど無関心のはずです。さらに、21世紀に人口爆発と経済急発展が起こるサハラ以南のアフリカについて、日本人は無知に等しいでしょう。かくいう私も、人類史上最大の人口爆発の起こる国がニジェール(2000年に1000万人だった人口が2015年には2000万人と倍増しており、これが2100年で2億人になる)だと知ったのは、先月です。中国が日本のように人口減少社会を迎える未来を見越し、アフリカで大規模投資をしているのに対して、日本人の多くが日本のマスコミのように「中国はアフリカで人権を無視した政権を援助している」としか考えていないのなら、本当に残念です。

日進月歩の中国と10年1日の日本

ここ最近の中国について情報収集していると、中国が日進月歩で変化しているのに、日本が10年1日のように停滞していることに意気消沈してしまいます。なにより残念なのは、ほぼ全ての日本人がそのことに危機感を全く持っておらず、未だに先進国気分で中国を見下していることです。

中国が日本をあっという間に抜き去った一番いい例は、キャッシュレス社会の到来でしょう。スマホが普及したと思ったら、ほぼ同時にスマホ決済まで普及して、中国は人類史上最速でキャッシュレス社会に到達しました。隣の大国がそんな偉業を達成したのに、日本人たちはキャッシュレスがどれだけ社会全体でムダな労力とコストを削減するか、考えてもいないように思います。

キャッシュレス社会とは、単にかさばる現金を持ち歩かなくていい、という労力の削減だけではありません。現金の印刷や処分の工作機械も不要になり、運搬時や保管時に盗まれないための警備労力も不要になり、店舗でのレジ絞めや集計などの業務も不要になり、現金を預けて引き出すATMも不要になります。馬車で殻付きクルミを売る屋台でもスマホで決済でき、個人間のお金の貸し借り、たとえばお年玉でさえスマホでやりとりする中国では、現金維持コストが現在、ほぼ不要になりました。昼の休憩時間にも、北京市内の銀行のATMは全く使用されていないそうです(「キャッシュレス国家」西村友作著、文春新書)。野村総合研究所によると、日本では現金決済のインフラを維持するために、年間1兆円を越える直接コストがかかっています。

私にとって、最も衝撃的だったのは中国での信用スコアの普及です。シェア自転車をきちんと返却したか、公共料金を毎月支払っているか、交通違反をした前歴がないか、ネットショッピングの支払いが滞っていないか、タクシー配車アプリを利用した時に無断キャンセルせずに乗車したか、犯罪者の手伝いをしていないか、などによって、信用スコアが上下します。信用スコアが高いと、ホテル予約の際に保証金が不要になったり、婚活サイトでは優先的に条件のいい相手を紹介してもらえたり、海外旅行のビザが早く取得できたりします。

信用スコアについて、多くの日本人は窮屈な制度だと考えているのではないでしょうか。私の知る限り、日本のマスコミでは例外なく、中国の信用スコアシステムを批判的に伝えていました。「なぜ中国人は財布を持たないのか」(中島恵著、日経プレミアシリーズ)という本にも、「日本は相手を騙すことの稀な成熟した社会なので、信用スコアなど考えもしないだろう」と信用スコアのある中国社会を見下した表現があります。同書には、「偽札が横行している中国ではスマホ決済は極めて有効だったが、偽札を一生に一度も見ることもない日本ではスマホ決済は不要だ」という表現もあります。これらは完全にピンボケした視点です。

信用スコアは、誠実で正直に生きている人が得をして、不誠実でウソをつく人が損をするシステムです。私は信用システムを窮屈とは全く感じません。窮屈に感じる人は、不誠実でウソをつく人のはずです。信用システムが不要なほど日本人が本当に誠実で正直であるなら、誠実で正直な人が得をする信用システムを拒否する理由はありません。

なにより素晴らしいのは、信用システムは、不誠実な嘘つきを誠実な正直者に変えていく作用を持っていることです。現在、中国人全体のマナーが急速に良くなっているのは、信用システムの普及と密接に関わっていると確信します。

日本で出会う中国人団体客は、まだまだマナーの悪い人たちが多いかもしれません。しかし、その大きな原因の一つは、日本でアリペイやウィーチャットペイが普及していないこと、つまり、日本で信用システムがあまり採用されていないことにあるでしょう。もし、日本で中国式スマホ決済が普及したら、中国人団体客のマナーも良くなっていくはずです。良くならざるを得ないはずです。

もちろん、信用システムには問題も多くあります。「無断キャンセルしたが、それには〇〇の事情があったからだ」といった個別の事情に細かく対応できないこと、民間企業が非公表の判断基準を用いていること、法を犯した人とネット上で友だちになるだけで信用スコアが下がるとなると、ただでさえ社会復帰の難しい前科者をさらに社会から排除するシステムになっていること、などです。信用システムの採用の上で、それらは疑いようもなく修正すべき重要な点です。しかし、そういった欠点への配慮は不可欠なものの、信用スコアのある社会が、信用スコアのない社会に戻るべきでない、と私は考えます。実際、信用スコアの長所を知った中国が、信用スコアを改良することはあっても、手放すことは、まずないでしょう。

日本も信用スコアをできるだけ早く採用すべきと考えます。もちろん、その時は上記のような欠点を修正した信用スコア、徹底した情報公開を取り入れた公平で社会道徳に沿った信用スコアを採用すべきです。

次の記事に続きます。