未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

健康への欲求は無限である

数年前まで病床利用率が50%未満の大赤字の市民病院が私の県にありました。その市民病院が儲からなかったのは、設備の整った大病院が近隣にいくつもあり、市民の多くはそれらの病院を利用していたからです。

当然、市議会では市民病院の閉鎖案が出されました。しかし、「市民病院を新しく建てなおして、多くの市民に来てもらい黒字にすればいい」との反論が提唱され、なぜかその意見が通ってしまいます。結果、以前よりも大きな市民病院が80億円もの税金を使って完成しました。

新市民病院ができる前、私を含む多くの人が「赤字病院を閉鎖せずに、もっと大きな病院を建てるなんてバブル時代の発想だ」「税金の垂れ流しに拍車をかけるだけ」と陰口を叩いていました。しかし、蓋を開けてみると、嘘のように病院に患者が来るようになり、ガラガラだったベッドはわずか3年程度で利用率80%まで回復し、外来患者は倍増しました。

成功の最大の要因は、大学医学部がその市民病院をサポートし、医局の医師たちを送り込んだからです。赤字が悪化するとばかり思っていた私も、安心しました。

しかし、しばらくして、私はある問題に気づきました。

「その市民病院が繁盛したということは、近隣の病院の経営が悪くなったのではないか」

そこで、近隣の大病院の病床利用率と外来患者数の変化を調べてみました。私の予想に反して、特に減ってはいませんでした。新市民病院が他の病院の患者を奪ったわけではなかったのです。

おかしな話です。その市の人口や高齢者率がわずか3年で急増したわけではありません。もちろん、その市に特別な風土病が流行したわけでもありません。

「もしかして、新市民病院が繁盛したのは喜ばしいニュースでは全くなく、むしろ新市民病院が繁盛しなかった方が喜ばしいニュースだったのではないか」

そんな発想が浮かびました。病院が繁盛すればするほど、保険料や税金が投入されるからです。必然的に、現役世代が強制的に支払わされる保険料や税金が上がります。

その医療費に見合うだけの効果があるのなら構いません。しかし、上記の新病院が建設された市でそれだけの効果はあった、と私には思えません。むしろ、病院に行かなくてもいい人が病院に行くようになり、入院しなくてもいい人が入院するようになった、と推測します。

こう考えてしまうのは、以前から私は自分の医療の仕事の効果に疑問を感じているからです。私や私の病院のおかげで、地域の死亡率は下がっているのか、健康は増進しているのか、疑問だからです。半分以上の医療の仕事は健康増進の役には立っていない、という気がしてなりません。

なにより疑問なのは、医療の効果が統計的に検証されていないことです。上の市民病院の例でいえば、その市の平均寿命や平均健康寿命は伸びたのでしょうか。もし伸びていないのなら、新しく増えた外来患者や入院患者は、一体なんのために病院にいるのでしょうか。

他の全ての欲求がそうであるように、健康への欲求も際限がありません。患者数が増えたのに、地域の寿命や健康寿命が延びていないのなら、無駄な健康需要を掘り出したとも考えられます。新しいカフェやカラオケや衣料品店なら、需要の掘り出しは経済を活性化させるので好ましいニュースかもしれません。しかし、税金や保険料を投入している医療なら、その効果を客観的に検証しなければならないはずです。

就職面接での就職コーディネーターの同席義務化

2018年12月15日朝日新聞土曜版の記事で、クックビズという飲食業界の人材紹介サービス企業が紹介されていました。驚いたのは、スタッフが採用面接に同行することです。飲食業界は離職率が30%と高い業種なので(下の日本生産性本部生産性総合研究センター2018「生産性レポートvol.7」のグラフにあるように生産性がアメリカの半分にも満たない業種でもあります)、少しでもミスマッチをなくすために、口下手な求職者に代わって、スタッフが説明を補足するそうです。また、求職者に提供する情報は、飲食店の給与や仕事内容にとどまらず、職場の雰囲気、人事担当者の人柄、どこまで加工品や既製品を使うのかまで含まれます。さらには、紹介した人が相次いで店を辞めたとしたら、職場の改善に口を出すとも書かれています。そんな公的機関のような手法でも、ミスマッチを少なくすることで信用を得ているのか、1万社以上の企業と取引し、年間2千人の正社員を生み出し、年商20億円を達成しているようです。

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2ページ程度の記事なので、実態はよく分かりません。紹介する職種として「料理人、店長、管理栄養士、メニュー開発者」と出てくるので、飲食業界でも上級職を対象としているとは想像できます。また、2千人紹介で20億の売上なので、1人あたり約100万円の紹介料を徴収していることになります。100万円払ってまで雇いたいとなると、ある程度の技能や資格のある人に限られるでしょう。ただし、年収の3割程度が人材紹介料の相場と書いてあるので、年収350万円以上の仕事なら、100万円が徴収できることになります。前回の記事で引用したグラフを参考にすれば、日本人の半数程度は入ることになります。

ただし、逆にいえば、上のような企業があったとしても、半数程度の勝ち組の日本人しか面接同行の恩恵は受けられないことになります。いえ、日本の勝ち組のほとんどは、終身雇用の上に乗っている人たちなので、転職時の面接スタッフ同行の恩恵を受ける者は、半数を大幅に下回るはずです。

そうであるなら、就職コーディネーターを公的資格にして、新卒を含めた日本中の全ての採用面接に同行させることを義務化してはどうでしょうか。多くの採用面接では、どうしても採用側が上になります。求職者は選ばれる側で、採用者が選ぶ側のはずです。求職者は聞くべき質問もできないまま、職務の実態ををろくに知らないまま、働き始めなければなりません。だから、ミスマッチが起き、離職率が高くなります。それは採用側にとっても好ましいことではありません。

求職者が聞きにくいことでも、同行している就職コーディネーターなら容易に聞けるはずです。就職コーディネーターの適切な質問にも採用側がごまかすような返答をしてきたのなら、その企業になんらかの問題があると推測できます。公的就職コーディネーターには、企業への行政指導の権限を持たせるべきでしょう。なお、たとえ求職者が希望しなくても、就職コーディネーターには最低限の質問の義務を負わせるべきと考えます。最低限の質問には、職務内容、勤務時間、給与はもちろん、前年の採用歴、離職率、採用後の精神的ケアの方法、採用後に解雇になる条件(あるいは採用側が社員へ要求する絶対条件)などは入れるべきでしょう。

上のクックビズの例からも、民間の就職コーディネーターが面接同行できる場合まで、公的の(公費の)就職コーディネーターが介入すべきではないでしょう。しかし、明らかに求職者の立場が弱い場合、たとえば年収300万円以下の仕事の求人には、公的就職コーディネーターが面接同行する義務を生じさせるべきと考えます。その場合、公的就職コーディネーターの予算(≒人件費)は、日本企業全体に負担させていいはずです。ミスマッチが少なくなることは、企業の利益にも繋がるからです。

理想論かもしれませんが、たとえ縁故採用だとしても、就職コーディネーターが必ず採用側と求職側の間に入って、就労前にお互いの希望条件の確認を行って、公的記録に残しておくといいと思います。もちろん弊害もありますが、日本の企業文化が段違いにオープンになることは間違いありません。

全ての日本人、特に若い女性が知るべき統計

もうすぐ平成が終わります。平成がどんな時代だったかは、人によって解釈が異なりますが、経済的には停滞の時代であったことは下のGDPグラフからも明らかです。

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昔の高度成長を知る世代(停滞の原因を作った世代でもあります)にとって、停滞とは情けない呼称かもしれませんが、未来を少しでも考える人たちは「停滞で済んでいただけよい時代」と認識しているはずです。新しい元号の時代は、後退の時代に入るからです。もちろん、その最大の原因は、少子化による人口減少です。

失われた30年の平成の時代は、全体として停滞していましたが、既に後退している人たちもいました。若年世代です。特に、結婚適齢期の30代男性の年収は下記のように右肩下がりです。

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このブログで何度も言及している通り、少子化問題は非婚化問題とほぼ同義です。非婚化の原因として、「仕事と家族」(筒井淳也著、中公新書)では「女性の男性への要望が高いからである」と、ある程度科学的に示しています。それでは、なぜ女性は男性に高い要望を持つのでしょうか。その理由の一つに、上記統計が示す通り、若者の給与がバブルの頃より明らかに減少していると、多くの妙齢女性が知らないことはあるでしょう。もっと端的に言ってしまえば、ほとんどの若い女性は下のグラフのように「自分より給与が低い男性とは結婚しない」から、また「自分が生まれ育った家庭より貧しい生活を恐れている」からでしょう。しかし、上の統計に表されている通り、ほとんどの若い男性は若い女性よりは稼いでいたとしても、「自分の父親よりも給与は少ない」のが現状です。

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妙齢以上の日本人なら男女問わず全員知っていることですが、ほとんどの女性は結婚相手に求める条件に年収があります。だから、多くの男性は「希望年収700万円」などと平気で言う女性に驚いたことが一度はあるはずです。「年収700万円の日本人は何%いるかは知っているんですか?」と聞いて、「30%くらい?」と言う女性に、開いた口がふさがらなかった経験のある男性も少なくないでしょう。スマホがある時代に、すぐに下のような統計(国税庁民間給与実態統計調査」)でその誤りを示しても、「女性も含めていますよね?」、「日本人の平均貯蓄額は1000万円なんでしょう?」となかなか納得してくれなかった経験のある男性も、私を含め、いるはずです。

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男性だけだとしても下の統計のように、年収700万円以上なんてごくわずかで、まして未婚の若年男性なら例外中の例外です。年収についての無知は、学歴の低い女性に限りません。高学歴の女性でも(むしろ高学歴の女性ほど)、日本人(の若年男性)がどれほどの年収なのか知りません。ためしに、年収1千万円以上の男性が何%いるか、高学歴未婚女性に聞いてみてください。私の経験でいえば、10%と答えるのはまだまだいい方で、50%と答えた世間知らずもいました(そんなバカでも医者になれるのですから、日本の教育システムはどうかしています)。

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こんな基本的な統計を、なぜ多くの日本人、特に若い女性は知らないのでしょうか。日本人の若者の年収分布、および日本人の若者の年収が毎年下がっていることは、社会常識として、なにより少子化を食い止めるために、小学校から高校までの教科書に必ず載せてほしいです。

ある氷河期世代の叫び声

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上は2017年12月8日の朝日新聞社説余滴です。ちょうど私の世代である「氷河期世代」が就職時期だけでなく、現在に至るまで、経済的損失を被っている統計を示しています。上の世代と比べても、下の世代と比べても、今の好景気時に失業者の減少が鈍く、非正規雇用の減少も鈍いそうです。さらには、大卒正社員であっても、5年上の世代より月給で2万3千円も低く、あまりの差額に、桁を間違っていないか計算し直した、とまで書かれています。

本当か嘘か分かりませんが、私が中国にいた時、文革世代は就職が難しいので、雇った者に補助金ができるとの噂を聞きました(「文化大革命と西洋人への皮肉」参照)。日本で上記の氷河期世代程度の格差が補助金で是正されるのは、あと何百年必要か予想はできません。ただし、上の記者も気づいていないと思いますが、氷河期世代への皺寄せは、他の世代にも未来にわたって悪影響を与えています。少子化を促進したからです。第三次ベビーブームが来なかったのは、氷河期世代が貧しくなり、結婚できなかったことと無縁でないはずです。

しんがり山一證券最後の12人」(清武英利著、講談社)という本があります。1997年に不祥事を繰り返して、自主廃業した山一証券に最後まで残り、後始末をした人たちの「偉業」を称えたノンフィクションです。廃業が決まった後、自分の責任を棚に上げて、多くの山一社員どもはさっさと再就職していったそうです。それを潔しとせず、清算事業に邁進した「誠実な」社員たちの本です。

もちろん、いけしゃあしゃあと再就職していった山一社員は日本社会のクズで、本来なら山一からもらった給料を1円に至るまで全額返金すべきです。そのクズどもがバブル崩壊の責任を全く負っていないとしたら、今からでも取らせるべきです。もし山一の後始末の本を書くなら、そいつらの責任に重点を置くべきです。しかし、この本ではそんな追及はろくにせず、むしろ「崩壊する会社から逃げるのは仕方ない」といった視点で書かれています。そして、最後まで清算業務をしていた社員たちを異常なほど称賛しています。私にはこれに強い違和感があります。

山一があれだけひどい不祥事を起こしたのですから、借金を全額返せない以上、最後まで清算業務をするのは最低限の義務です。「誠実な偉業」ではなく、当然果たすべき仕事です。理想としては、社員であるなら、山一の不祥事をもっと早くに内部告発すべきでした。「役員が不祥事を内部にも秘密にしていた」のなら、情報公開を求めるべきでした。「上司に逆らえる社内環境でなかった」のなら、その異常さを指摘して、是正すべきでした。それをしていなかった以上、山一から何百万や何千万もの給与を受け取って、返す気もないのなら、悪徳企業の片棒を担いでいた1人と糾弾されても仕方ありません。清算業務など胸を張る偉業ではありません。山一で働いていた過去全てが隠すべき黒歴史のはずです。

なにより驚いたのは、その最後まで残った山一社員たちでさえ、60才を越えている人も含めて、コネを使って高給の仕事にちゃっかり再就職できている点です。同じ時代に彼らの半額の給与の仕事さえ得られなかった私としては「どこまで恵まれているんだ、テメエらは!」と叫びたい気持ちでした。

話を戻します。バブル世代やその上の世代が若者たちを犠牲にして、恵まれた仕事を囲い込んだせいで、氷河期世代が子どもを作れませんでした。そのツケは、バブル世代から上の恵まれた人たちにも、長引く不況として、介護不足として、将来に渡って悪影響を与えていきます。恵まれたそいつらは逃げ切れたとしても、恵まれたそいつらの子どもたちは逃げ切れません。バブル世代から上の恵まれた日本のクズどもは「ブラック企業で精神をすり減らしている若者が30才になっても年収300万円なのに、それより遥かに楽に生きている自分がどうして年収600万円ももらっているのだろう」と考えることはありません。その逆で「自分より楽な仕事をしているはずのアイツがあれだけの年収なのに、どうして自分は低いのか」と自分以下のクズを羨ましがっています。

バブル世代から上のツケを払うことになる未来の世代に伝えるために、この記事を残しておきます。

死生観の社会的向上と個人の幸福

医療の発展は、医学の進歩だけで決まるものではありません。公衆衛生の向上は、医学の進歩以上に、人類の健康増進に役立っています。また、社会全体の死生観の向上も、医療の発展あるいは個人の幸福に繋がっています。

たとえば、20年以上前の日本では、癌告知はまずなされていませんでした。現在50代以上の医者に聞けば、ほぼ全員が「肺がんだと分かっても、まず本人に伝えなかった。『肺ポリープです』と訳分からないこと言って、ごまかしていた」といったことを言うでしょう。本人に死期を伝えないので、必然的に、どのような死を迎えるかの選択権が本人に与えられません。生命に関わる基本的人権の侵害です。

当時の医者たちに聞くと、「おかしいとは思っていたが、患者家族たちが告知を希望していなかった」などと返答してきました。「待ってください。なぜ患者本人よりも、患者家族へ先に癌告知しているんですか。患者が患者家族に伝えない権利はあっても、逆はないでしょう」と私が反論しても、「それはそうなんだけど、当時は誰もが家族に先に告知していた」と言われます。日本によくある「みんながおかしいと思いながらも、みんながしているので続いていた習慣」の一つだったようです。

患者よりも患者家族に終末期の決定権がある状況はその後も続いています。2006年の医療技術評価総合研究事業「終末期医療全国調査」(n=1,499)によると、がんの治療方針や急変時の延命処置などを決定する際に一般病院で最も頻繁に行われている対応は、「患者とは別に、必ず家族の意向も確認している」(48.7%)であり、次に僅差で「先に家族に状況を説明してから、患者に意思確認するかどうか判断する」(46.9%)が続き、「患者の意思決定だけで十分と考え、家族の意向を確認していない」(0.7%)が最も低いそうです。私の経験からいえば、現在でも、患者が認知症の場合は、患者家族へ告知を先にすることが普通です。

法律上、これは明らかに不適切な対応です。自身の病状を知る権利が患者本人だけにあり、その病状を誰にどこまで伝えるかの権利も患者本人だけにあることは法律で定まっています。それは医療者も十分承知しているはずなのですが、実際には、患者よりも患者家族を優先し、場合によっては患者家族が患者本人の死の決定権まで持っています。患者本人が死にたいと主張しても、患者家族が延命治療を希望しているので、治療を続行した経験なら、医療従事者なら誰でもあるはずです。

医学の進歩と違って、死生観の向上は、人びとの意識さえ変えれば、いつでも可能です。それこそ50年前に、患者本人への癌告知を一般化することは、物理的に十分実現可能でした。しかし、現実には、癌告知が一般化するまで、何十年もかかっています。

前回の記事に書いたように、終末期の安楽死は20年以上前から問題になっているのに、いまだ法制化されていません。まして、終末期でない死(ピンピンコロリ)など、今の日本では夢物語になっています。ピンピンコロリの実現には、下手したら100年かかるかもしれません。しかし、繰り返しますが、死生観の向上は個人の幸福に密接に関係しており、物理的には今すぐにでも実現できます。今回の私の一連の記事が、日本人全体の死生観の向上の一助になることを願っています。

ピンピンコロリは違法である

前回の記事で、医学が進歩したため、ピンピンコロリが実現できなくなった、と私は書きましたが、それはおかしな話です。医療技術が発展すれば、人間は苦しみながら死ぬしかない、会話ができなくなるまで、トイレが使えなくなるまで、歩けなくなるまで、生きなければならないのでしょうか。そんなわけがありません。新しい医療技術が世間に普及したとしても、それを拒否する権利は患者本人に必ずあるからです。この患者側の重要な権利を理解してない医療者が多すぎるように思います。

偉そうに書いている私も、十分に理解していない医療従事者の一人でした(あるいは一人です)。つい先日も、こんな事件がありました。80才の持病のない方がひどい便秘で、腸管穿孔を起こしました。認知症は全くなく、歩行もしっかりしていて、糖尿病や高血圧や高脂血症もない患者さんです。現在の医療者なら間違いなく、緊急で開腹手術します。手術すれば、あと10年は生きられる可能性の高い方です。「このまま死なせてあげよう」と100%考えません。しかし、その患者さんは当初、手術を拒否していました。普段から「周りに迷惑をかけてまで生きたくない」「延命治療はしてほしくない」と考えて、家族にもはっきり伝えていたようです。後から駆け付けた家族も手術しないよう要望してきました。しかし、外科医も看護師も私も、「医療の専門知識がないから、間違った判断をしている」としか思えませんでした。すぐにでも緊急手術したいところ我慢し30分かけて説得して、患者さんと家族から手術の同意書をもらい、実行しました。術後、患者さんは大きな後遺症もなく、社会復帰しました。患者さんや家族は後で、感謝の言葉を言ってくれています。「ビックリしたよ。たかが便秘で、死ぬ気マンマンなんだもん」との外科医の発言に、私も笑いました。

しかし、その患者さんに完全に後遺症がないわけではありません。一時的とはいえ、人工肛門生活を余儀なくされました。穿孔した大腸は切断され小さくなっているので、普段から便秘がちと思われる患者さんはさらに便秘になりやすくなっています。腹腔内の大手術を行っているため、腸閉塞にもなりやすいです。高齢での開腹手術なので、本人が気づかないながらも、体力は確実に落ちていたはずです。

このように最初は元気だった高齢者が、あれこれの病気で入退院を何度も繰り返し、そのたびに生活能力を落とし、ついには寝た切りになって、最期を迎えます。それが現在の日本の標準的な死です。

これだと、いつまでたってもピンピンコロリは実現しません。意思が表明できなくなるまで、動けなくなるまで、苦しみながら生かされてしまうことになります。どこかで治療を止めるべき時があったはずです。それが十分に元気な時だっていいはずです。

ところが、上にも書いたように、患者さんがいかにピンピンコロリを望んでいようが、現代の日本なら100%、医療者は元気な高齢者の突然死を救おうとします。たとえ医療者がその患者さんの意思を尊重したい、尊重すべきだと思っていても、終末期でもない患者さんをそのまま安楽死させると、殺人罪として訴えられる可能性が高いからです。日本では、終末期であること(この定義も曖昧ですが、東海大学安楽死事件では「患者が治癒不可能な病気に冒され、回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあること」)が、安楽死を認める最低限の状況です。判例を調べてもらえれば分かる通り、終末期であっても、日本では安楽死が認められず、執行猶予付きの刑罰が科されたことがあります。

終末期の安楽死でさえ法律で認められていない日本で、ピンピンコロリの実現を議論すること自体がナンセンスです。終末期の安楽死を認める法律制定が先決で、ピンピンコロリの実現はその後の話になります。だから、ここでしている議論は、10年先、20年先あるいはもっと先の話になるでしょう。もしかしたら、どこまで議論しても、自殺を社会的に認めるべきでないように、ピンピンコロリは認めるべきでない、との結論になるのかもしれません。

しかし、ピンピンコロリの選択がいつまでも法律で完全に許されない、と私には思えません。生物としての死は本人だけが責任を負います。どのような死を迎えるかを選ぶ決定権は本人だけにあるべきだからです。仕事を引退した年齢になって何年も経過したのに、老い衰えて周囲の人の世話になりたくない本人の気持ちを尊重してもいいはずです。

ピンピンコロリが実現できない理由は医者にある

ピンピンコロリは無理である」と「ピンピンコロリは理想でない」の続きです。

ピンピンコロリが不可能な理由はどこにあるのでしょうか。それは医学の進歩、および医療アクセスの充実です。もはや心筋梗塞脳卒中を起こしても、すぐに救急車を呼べば、特に後遺症もなく過ごせる時代になりました。70代になっても80代になっても、全身麻酔の必要な手術を日本中の病院で行っています。「こんな状態の患者さんを手術するんですか? 手術費はいくらなんですか? その手術費のほとんどはこの患者さんが払うのではなく、国が払う、つまり、未来の世代に担わせることを知っているんですよね?」 そんなことを私は何度も思ったことがあります。しかし、「患者さんが希望しているから」の一言で全て退けられます。治療を行うかどうかの決定権は、その患者さんにあります。医療者にはありません。

私が疑問に感じているのは、まさにその点です。確かに、患者さんが心から治療を望んでいるなら、私もある程度は納得できます。しかし、患者さんが当初望んでいない場合でも、日本なら医療者の説得により治療が行われています。たとえば、DNR(Do not resuscitate=蘇生をするな)の同意を入院時に本人から得ている時でも、「同意文書がないから」「家族の同意はまだとっていないから」といった理由で、患者さんが心停止した時、心臓マッサージが行われています。本人の同意も家族の同意も全て文書で揃っていた時でも、「それは心不全が原因で死ぬ場合のはなし。腸閉塞の同意はとっていない」といった理由で、緊急手術が行われることも普通です。

終末期に限らず、まだまだ日本は、患者本人よりも医療者が強い決定権を持っています。もちろん、患者さんや患者家族が反対しているのに、医療者が治療を強行することは今の時代ないでしょうが、「なにもしないと死ぬだけです。この手術(治療)をすると生きられるかもしれません。どうしますか?」などの嘘ではない選択で、医者が患者側に治療の同意を迫ります。こんな脅迫のような同意を拒否できる人はまずいません。

これが日本の現状です。二足歩行のできない患者さん、オムツの必要な患者さん、今が平成何年かも思い出せない患者さんで、本人が意識清明時にDNRの書類を作成していても、医者がそれを覆して患者さんや患者家族に同意を強制し、緊急手術をすることなど日常茶飯事です。日本でピンピンコロリなど、夢のまた夢であることは、医療従事者なら百も承知しているでしょう。

どうしてそこまで医者は治療をしたがるのでしょうか。「せっかく身に着けた専門知識や技術を使ってみたいから」「治療した方が儲かるから」「患者のためになると思っているから」など理由はいろいろあるでしょうが、大きな一つに「裁判で訴えられたくないから」があることは事実です。日本では安楽死を認めると、法律で罰せられるからです。だから、必ずしも医者だけでの責任ではなく、司法にも責任がある、あるいは、安楽死を認めていない社会全体の責任でもある、と私は考えています。

それについて、次からの記事で論じます。

ピンピンコロリは理想でない

「直前まで元気で、急に死ぬ」といった意味のピンピンコロリは、10年ほど前、マスコミで理想として持て囃されていました。今でも、ピンピンコロリを理想と考えている高齢者は少なくないようです。

しかし、ピンピンコロリが現実に起こったら、どうなるでしょうか。本人ですら死ぬ時を正確に予想できないので、本人が死ぬ前に伝えたかったこと、あるいは、本人が死ぬ前に処理したかった仕事が、周囲の人に残されてしまう可能性があります。事実、本人が大金の貸し借りをしていたが、詳細が分からず、全ての処理に数年もかかった、という話は、私も聞いたことがあります。

また、心臓突然死であれ脳卒中であれ、事故死であれ自殺であれ、持病もない人が突然死ぬと、ほぼ100%、警察が来ます。事件性がないか、警察にあれこれ聞かれます。近い人が予想外に死んだことでショックなところ、さらに警察の相手をしなければなりません。

ピンピンコロリは理想でないと私が考える一番の理由は、その正反対である老衰が最も好ましい死に方だと思うからです。死因統計を見てもらえれば分かりますが、ここ10年ほどで、老衰で死ぬ高齢者が急激に増えています。

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医療従事者なら知っているでしょうが、この老衰は餓死とほぼ同義です。つまり、食べられなくて、あるいは無理に食べさせなくて、亡くなっているのです。10年以上前の日本だったら食べられなくなっても、胃瘻を使って、経鼻カテーテルを使って、中心静脈カテーテルを使って、無理にでも摂らせていた栄養を、今は入れなくなったからです。そこまでしても、生命予後はほとんど変わらない、場合によっては短くなると統計的に示されたからです。また、日本経済新聞2017年12月25日の記事によれば、老衰死の割合が高い自治体ほど後期高齢者の医療費は安くなっています。さらにいえば、経口摂取以外の栄養摂取で寿命を延ばしても、QOL(生活の質)が上がるとは考えにくいです。嚥下能力がなくなった人に無理に栄養を摂らせても、食道を逆流して誤嚥性肺炎を起こしたり、静脈栄養なら腸の免疫力が落ちて感染症にかかったりします。そこまでして栄養を入れて、癌や感染症と戦わせるより、少しずつ衰弱させて、穏やかな最期を迎える方がいいだろう、と多くの医療従事者が気づいてきました。

そういった医療従事者が増えたからこそ、マスコミもピンピンコロリを称賛しなくなったと推測します。医療従事者やジャーナリストにとっては既に常識かもしれませんが、高齢者にはまだ十分に浸透していないようなので、この記事を書いておきます。

(余談ですが、昔の医療統計で老衰が多かったのは、死因を医学的に特定していなかったためと言われています。現在の医療で診断すれば、老衰のほとんどは癌だったのだろう、と推測されています)

ピンピンコロリについては、当初、前回の記事とこの記事だけで終わる予定でしたが、執筆中に、この見解では浅いと考えたので、次に続きます。

ピンピンコロリは無理である

10年くらい前、全国紙を始めとしたマスコミで「ピンピンコロリ(略してPPK)」という言葉が流行しました。「人生の最後までピンピン元気でコロリと死ぬ」といった意味で、主に「そんな死に方が理想である」という前提で使われていました。その頃の私は医療従事者でなかったので、「たしかに理想なのかもしれない」と思っていました。しかし、医療従事者になった今は、ピンピンコロリを理想とする考え方には、大きな誤りがあると気づいています。

この言葉が高齢者の間であまりに普及したせいでしょう。2011年の日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団の調査で次のようなアンケート結果があります。f:id:future-reading:20180820203759j:plain

高齢者ほど、突然死を望んでいるようです。一方で、現実の日本の死亡原因は次のようになっています。

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1位の悪性新生物(癌)、3位の肺炎、5位の老衰など、日本の死亡原因の多くは、突然死ではありません。2位の心疾患と4位の脳血管疾患に至っても、ほとんどはピンピンコロリではありません。たった一度の心筋梗塞脳卒中で死ぬことは、最近の日本では稀です。通常、死ぬまでに何度も心筋梗塞脳卒中を繰り返します。その度に心臓カテーテル、バイパス手術、脳動脈瘤コイル塞栓術、開頭血腫除去術など、決して安くない医療費を使います。もちろん、周囲の人間を心配させるでしょうし、心筋梗塞脳卒中のため、体力の低下や麻痺も生じるので、周囲の人間の援助も必要になります。下のグラフにあるように、介護が必要な原因として、現在のところ、脳卒中認知症より多くなっています。

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こう考えてみると、ピンピンコロリが実現できる可能性は極めて低いことが分かります。そもそも、人間は生きたいように生きられないと同様、死にたいように死ねません。目標を持つことはいいのですが、上のような現実を考えれば、ピンピンコロリは虚構に過ぎないように思います。ピンピンコロリを理想としている方は、具体的にどの死因を考えているのでしょうか。まさか自殺や事故死なのでしょうか。

この記事では、ピンピンコロリの実現可能性の低さを主に証明してきましたが、次の記事では、ピンピンコロリが理想でないことを示していきます。

なぜ私がこんな国の少子化を心配しているのか。私はバカか?

「どうしてこの人は子どもを作らないのだろう? それだけならまだしも、子どもを作らないことで社会に迷惑をかけることに全く気づいていないなんて、どこまで道徳心のない奴だ。アンタが老いた時、誰が介護するんだ?」

そう思ってしまうことは少なくありません。

もちろん、子育てする経済的余裕も時間的余裕もないワーキングプアの若者たちに、そんな感想を持つことはありません。また、「今まで世の中の連中が私のためになにをしてくれた! 家族も、先生も、上司も、クラスメートも、同僚も、みんな私を理解してくれないし、理解しようともしてくれなかった! いつも私を不幸にしてきた! 日本人に返す恨みはあっても、恩などは一切ない!」と何度も思ったことのある私のような人に、子育ての社会的責任を負わすつもりもありません。

しかし、どこからどう見ても幸せな人で、世帯年収700万円以上あるいは実家暮らしと、金銭的にも恵まれている人なのに、子どもを作らないでいることに罪悪感が全くなかったりすると、正直、私は胸糞が悪くなります。

「日本社会から、あれだけ恩恵を受けているオマエが子どもを作らないくせに、日本社会からこれだけ阻害されてきたオレが、どうして必死で子どもを作ろうとしているのか。日本社会のために、こんなブログで少子化問題の重要性を訴えているのか」

バカらしいです。

母子手帳と女性手帳

国際医療について少しでも学んだことのある方なら、母子手帳が日本最高の国際医療貢献度を誇ることは知っているでしょう。私も国際医療に関する集会で母子手帳の自慢話を何回聞いたか分かりません。

母子手帳は日本発祥で発展途上国中心に世界中で普及し、わずかな経費で新生児・乳児の公衆衛生に画期的な効果があるようです。国際医療に関心のない方なら全く知らないようなので、定量的にどれくらいの効果があるのか、誰か統計的に示してほしいです。また、新生児・乳児医療への効果は間違いないので、日本人を含めた国際医療に関係ない人たちにも、母子手帳国際貢献を広報すべきでしょう。

少子化対策として提案され、あっという間に話が立ち消えになった女性手帳も、上記のような母子手帳の成功体験から生まれてきたに違いありません。賛否両論ではなく、否定的意見しか私は知りませんが、女性手帳を配布していたら、いい効果も生まれていたと私は考えています。下のような三十代後半から流産率が加速度的に上昇する統計グラフを見せて驚く女性に、私は10人以上会っているからです。

 

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これは学歴のない女性に限りません。弁護士の女性でさえ、上のグラフを見て「本当ですか」と心底ショックを受けていました(ちなみに、彼女は三十代後半でした)。そういう女性を多く見ていると、「なんでこんな重要なことを知らないままでいたのか」と、どうしても思ってしまいます。

私は医療従事者なので、下のグラフのように、女性ほど極端な変化ではないものの、男性の年齢が上がると流産率が上がることも知っています。さらにいえば、男性の年齢が上がると、やはり妊娠率は下がり、奇形率は上がります。だから、なにがなんでも子どもがほしい私は、同年代の女性との結婚となると、大変申し訳ないが、非常に躊躇してしまう、と正直に伝えています。

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保守系自民党少子化対策として女性手帳なんて提案すると、戦時中の「産めよ増やせよ」政策を思い出させて、どうしても批判されてしまうのでしょう。しかし、少子化がここまで深刻化している現在の日本なら、多少の批判があっても、少しでも効果があると思うのなら、強行すべき少子化政策はあるはずです。女性手帳の批判が殺到した時、「国家のためではなく、自分のため、将来の子どものため、少子化対策を推進します」「女性だけに少子化の責任を負わせるつもりはないので、男性手帳も配布します」「批判するのなら、他に有効な少子化政策はあるんですか」くらいは、政治家や官僚たちに言ってもらいたかったです。

性の多様性尊重と少子化対策は両立できる

昨日の朝日新聞の1面トップには、「同性カップルを生産性のない人」と発言した女性政治家への批判記事が載っていました。確かに問題発言だと私も思いますが、同性カップルだと子どもを産めないのは科学的事実であり、少子化問題が最大の政治・経済・社会問題ともいえる日本で、その事実すら言えない状況を醸し出しているのは行き過ぎでしょう。先日の朝日新聞は「子どもを作らない選択をした夫婦を、他人がとやかく言うべきでない」との趣旨のマンガまで載せられていましたが、それも行き過ぎです。このままだと有効な少子化対策がとれないどころか、その議論すらできない状況になりかねません。批判された政治家も「性の多様性は尊重されなければなりません。ただし、少子化問題も極めて重要な問題であることも分かっていただきたい」となぜ弁明しないのでしょうか。
私はこのブログで「性の問題」を広く「少子化」のカテゴリーに入れています。少子化問題を深く語るには性の問題に踏み込まざるを得ないからです。
誰かがLGBTであることを社会が否定することは許されません。子どもを産まない選択をする夫婦を社会が否定することも許されません。基本的人権が尊重される現在の日本なら当然です。ただし、少子化問題がここまで深刻になっている以上、子どもを産まない彼ら・彼女らに子どもを産み育てる程度の税金や義務を課すことは、あってしかるべきはずです。
「(自分の)子どもを作らない自由はあります。ただしその場合、子どもを産み育てる程度の税金、あるいはそれ以上の税金は課されるべきです」との発言さえ許されないのでしょうか。私がこちらのブログで主張している未婚税・少子税養子移民政策まで問答無用で批判される状況になったら、日本の衰退は加速していくに違いありません。

勤勉すぎる主婦たちが日本の生産性を下げる

遺伝的に日本人に勤勉な人の割合が高いとは思いませんが、能力のある人は極限まで勤勉にしてしまうのが日本社会のように思います。企業で働く日本人男性もそうですが、家庭でも日本人女性は平均すると世界一勤勉だと私は推測しています。

それがよく示す数値が、1960年の女性平日の家事労働時間4時間26分と、1970年での4時間37分でしょう(NHK国民生活時間調査)。この間の高度経済成長で掃除機、洗濯機、冷蔵庫が普及して、主婦の家事労働は格段に楽になったはずなのに、なぜか家事労働時間は増えています。家事に手間がかからなくなった分、日本の勤勉な主婦たちは家事の質を上げることに専念し、返って家事労働時間を増やしてしまったのです(「小林カツ代栗原はるみ」阿古真理著、新潮新書)。

これは日本人全体の幸福に大きく繋がっていたかもしれません。主婦たちが掃除や洗濯などに邁進し日本人の清潔感を上げたおかげで、公衆衛生が改善し、結核赤痢などの感染症が激減した可能性はあるでしょう。それに加えて、かつて先進国最低だった日本人の平均寿命がこの30年間世界1位を維持しているのは、主婦たちが手間ひまかけて毎回変化のある料理を家族に提供していることも大きいでしょう。私の知る限り、日本人ほど清潔な民族、日本人ほど料理に手間をかける民族は、世界中に存在しません。

1990年前後、世界で日本の存在感が最も大きかった時代、その繁栄の土台を作っていたのは、勤勉な男性企業戦士ではなく、さらに勤勉な家庭の主婦だったのかもしれません(数値化して客観的に示すのは難しいでしょうが)。しかし、他の日本の過去の必勝法と同じく、その方法は既に世界でも日本でも通用しません。むしろ、勤勉な日本の主婦たちが現在、日本全体の生産性を下げる要因になっていると私は考えています。

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このグラフのように日本の女性就業者率は上昇する一方です。一見、日本の女性が社会進出しているようですが、必ずしもそうとは言えません。

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ここで示されているように、日本女性の正規雇用はこの30年間ほとんど変わらず、就業率の上昇分は非正規雇用によって埋められているからです。

下のグラフのように日本なら男女問わず、非正規雇用なら賃金はたかが知れています。

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女性が社会進出したというより、女性がワーキングプアに仲間入りしたと考えた方が妥当でしょう。

パワハラの現状と日本の生産性の低さ」に書いたように、日本は国際比較して質の高いサービスを提供しているのにもかかわらず、サービス産業の生産性は国際比較して異常に低くなっています。この原因として、能力の高い女性が低賃金にあまんじていることがある、と私は考えています。2017年で非正規雇用2036万人のうち約3分の2、1389万人が女性です(総務省統計局・労働力調査)。この1000万人以上の女性が無能の人ばかりのはずがありません。世界最高水準の家事をこなす日本の主婦たちが働いているのですから、サービスの質は恐ろしく高くなります。それにもかかわらず、彼女たちの賃金は安いままです。世界最高水準の家事や育児などに時間をとられるため、フルタイムで働けない、つまり、非正規雇用になり、日本だと非正規だと低賃金だからです。

能力の高い女性が非正規の低い賃金で働いているので、同じ職場の男性たちは高い賃金を要求できません。能力の低い男性や女性は、非正規雇用にもなれません。結果、日本人の生産性は低くなります。これが日本のサービスの質が高いのに、日本人の賃金が低い一つの大きな要因だと考えます。

この問題の原因と解決策について、これからの記事で論じます。

学習指導員

全国共通習熟度順テスト」と「ネット教育を一般化すべきである」の続きです。これら二つの制度を導入すれば、教員人件費は大幅に削減されるはずです。その浮いた費用で、学習指導員の導入を提案します。

学習指導員は国家資格の教育職ですが、授業は行いません。生徒一人一人がなにを、どれくらい、どのように勉強しているかを把握し、それに対して助言を行い、学習効果を高めることが仕事です。学習指導員がチェックできるように、生徒は勉強している間、その勉強の様子をカメラに映す義務があります。生徒が集団学習しているなら、本人の様子と全体の様子をそれぞれカメラに映します。学習指導員は担当する全ての生徒について学習の映像記録を、早送りや一部スキップして、チェックしなければなりません。学習指導員はそれぞれの生徒の特性に合わせた学習方法について生徒と話して合意し、生徒本人の学習効果を高めます。

学習指導員のもう一つの重要な仕事は、生徒の精神面でのケアです。どんな生徒であれ、大なり小なり悩みはあります。勉強がはかどらない原因が、勉強面以外に存在することも多いでしょう。学習指導員は、勉強面以外でも生徒の相談に乗り、学習を継続していけるように助言していきます。

なお、学習指導員一人で手に負えない問題も出てくるに違いありません。そのために、生活指導員、非行指導員、発達障害指導員などの専門職も新たに創設すべきだと考えます。生活指導員、非行指導員は、私が以前提案した「家庭支援相談員」と協力することはほぼ必須になります。

ネット教育を一般化すべきである

日本の最難関学力試験である司法試験の合格者のほとんどは、現在、ネット講座で法律を学んでいることを知っているでしょうか。同様に、医師国家試験の合格者のほとんどは、ネット講座で学力を養っています。もちろん、ほぼ全ての合格者は大学で法律や医療を学んでいますが、司法試験や医師国家試験が要求する学力は、主にネット講座で習得しています。ネット講座は自分の好きな時間帯に視聴でき、何度も見返すことが可能で、0.8倍速~2倍速と観る速さを変更できるメリットがあるため、通常の対面授業よりも効率がいいからです。

ネットを使えば、地元の教えるのが下手な先生でなく、全国規模で教えるのが上手な先生から、世界中どこにいても、どんな時間でも、学年にかかわらず講義を受けることができます。先生にとっても、1回の講義で通常の対面式の百倍以上の生徒に教えられるので、労力を削減でき、教員の人件費が大幅に抑えられます。

これほどの長所があるネット講座を通常教育制度に組み込まない理由はありません。とはいえ、ネット講座が合わない生徒も確実にいるので、通常の対面授業も存続させて、そのための先生は雇うべきです。しかし、自発的に学習できるのなら、ネット講座が対面授業より遥かに効率的であると、上記の司法試験と医師国家試験の合格者の現状からも言えると推測します。これについては、教育学者が統計的に証明してほしいです。

もちろん、ネット講座には重大な欠点があります。一人で学習するため、社会性が身に着かないことはその最たるものでしょう。だから、ネット講座だけでの進級は不可で、体育祭、音楽祭、地域ボランティアなどの集団活動も必修とします。全学年、1週間あたり合計半日分はこれらの集団学習をするべきだと考えます。生徒によっては毎日こういった集団活動を行って、事実上、これまでと同じような集団学校生活を送ることも可能です。

ただし、現状の日本教育のように、全ての学力科目、実技科目、課外活動を集団で行うのは、少なくない生徒にとって好ましくない、と私は推測します。

 

捕捉

ネット講座を通常教育に取り入れるメリットは、公的なチェックが可能なことです。「藤澤孝志郎医師の殺人自供に疑問を感じない新人医師たち」に書いたように、医師としても人間としも失格の講師の発言を数千人の医学生が視聴しているのに、批判が殺到していないのは異常です。