未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

結婚のない社会の弊害

「恋愛相手がたまたま既婚者だっただけだ。その恋愛感情を社会的事情で抑制するのは不自然だ。それに、関係者ならまだしも、赤の他人が不倫を批判すべきでない」 不倫を容認する人がよく用いる理屈です。確かに、不倫に限らず全ての恋愛は、関係者にとってすら、正しいか間違っているかの判断はつきません。まして、赤の他人が正しいか間違っているかを判断するのは不適切です。

しかし、不倫は外形だけで、法律的に批判される不法行為です。不倫が完全に許されるなら、そもそも結婚制度なんてなくていいでしょう。「結婚制度が社会に必要な理由」に書いたように、結婚制度がなくなれば、一番困るのは子どもです。しかし、子育てに関しては、父親に養育費さえ払ってもらえれば問題ない、という反論もあるかもしれません。それでも明らかな問題が生じることを次に示します。

結婚制度がなくなれば、事実上、一夫多妻、一妻多夫が容認されます。それこそ平安時代のような「古臭い性道徳」の社会になります。モテる奴はさらにモテて、モテない奴はいつでも捨てられ、失恋の苦しみを経験し続けることになります。だから、結婚は弱者を救う制度なのです。「美しくなくなったから、収入が少なくなったから、別れる(離婚)」が自由に認められたら、社会に不幸が蔓延します。

恋愛のない一生、浮気で裏切られる一生を送りたい人間などいないはずです。かりにあなたがそんな人生だとして耐えられますか。経済は自由が基本ですが、税金や規制は必要なように、恋愛も自由が基本ですが、結婚制度(自由恋愛の規制)は必要です。どんな社会であれ脱税が道徳に反するように、どんな社会であれ不倫が道徳に反するのは必然です。

「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)の著者は、このように「結婚制度がなぜあらゆる社会に存在するか」まで考えてから、不倫を容認しているのでしょうか。このブログは大阪大学(牟田の勤務先)からもアクセスされているようなので、ぜひ誰か聞いてほしいです。

こんな本があるからセクハラの誤解が蔓延する

前回の記事にも書きましたが、「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)はセクハラの誤解を生みやすい本です。牟田はよりにもよって大阪大学教授のようです。こんな浅い人間観、社会観の人の給料が国費から支払われているのは残念でなりません。

にわかに信じられないかもしれませんが、この本で牟田は「(私は)不倫はよくないとの道徳観念を持っていない」と堂々と主張しています。それどころか「男性側が既婚者なのに部下の女性と性関係を持った不倫だから、教師が学生に手を出したから、けしからんという、古臭い性道徳でセクハラだと非難しているのではありません。『不倫なんて!』という保守的道徳観に凝り固まっているワンマン社長や『清く正しく』が売りのお嬢様大学だとクビになるのかもしれませんが(私は違います)」とまで書いています。牟田にとって、不倫は道徳的に問題ない行動のようで、教師が学生に手を出しても、非難する方がワンマン社長(ユニクロの柳井社長のことか?)のように「古臭い性道徳」に凝り固まっていて、間違っているようです。

なぜ牟田が不倫をそこまで感情的になって容認するのかは、この本で説明されていないので分かりません。牟田自身か、牟田に近い人が実際に教え子と不倫した経験があるからかもしれません。

なんにしろ、牟田は結婚制度がなぜ社会に必要なのか、深く考えたことがあるように思えません。その証拠に、こんな文章も本にはあります。

「筆者の知る業界の大物で、結婚と離婚を何度も繰り返していて、二人目以降は全部教え子、という先生もおられます(尊敬語!)。不倫の関係が破綻するとセクハラに転じがちなことは事実。それを避けるには、トラブルが切迫する前に結婚してしまうというのも手だということでしょう。でもこれは、経済的にも精神的にもタフでないとできないワザ。現在の妻にうまく分かれてもらえる力量も必要なのですから、ほとんど超人的です」

こんな倫理観の人が、男女関係の機微に触れるセクハラ問題の専門家になっていいのでしょうか。結婚と離婚を何度も繰り返す男を「超人的」と称賛しています。なにより疑問なのは、結婚と離婚を繰り返した場合、第一に考えるべき子どもの問題に全く触れていないことです。「結婚制度が社会に必要な理由」にも書いたように、結婚制度がなければ、離婚が自由にできるようになったら、一番困るのは子どものはずです。それを考慮せず、本人の経済と精神状況、妻と別れる力量に注目するなど、理解に苦しみます。

百歩譲って、子どもを無視して、男女関係だけを考えても、結婚制度がなくなって完全に自由恋愛になれば、社会に弊害は生じます。それは税金や規制の全くない自由経済を容認するようなものです。これに気づいていない人が国立大学のジェンダー学者にもいるようなので、次の記事で解説します。

セクハラによって浮気男が罰せられるようになった

「セクハラなんてものがあるから、職場恋愛が難しくなるんじゃないの? だから、未婚率が上がって、少子化が進むんだよな」

これは、私がある職場研修で本当に聞いた言葉です。私の前に座っていた女性が面白そうに笑っていたのも覚えています。私もつい最近まで、この発言と似たような考えを持っていました。

しかし、それは誤解でした。セクハラは誠実な職場恋愛を禁止するものでは決してありません。セクハラが職場恋愛を抑制しているとの誤解が蔓延しているのは、「部長、その恋愛はセクハラです!」(牟田和恵著、集英社新書)といった本があるからでしょう。この本では、次のようなセクハラ裁判例を載せています。

女性の方も熱を上げていた恋愛だったにもかかわらず、女性がふられた後、その恋愛はセクハラだったと訴えたというのです。裁判では二人がやりとりした親しげなメール、女性が男性に贈ったプレゼント、旅行先での仲良しの写真が次から次へと提出されます。客観的に考えて、女性も本気の恋愛をして楽しんでいたのは間違いありません。それにもかかわらず、ふられると、女性にとってそれらの記憶は辛い思い出になるので、結果、セクハラで慰謝料を払わなければならなくなった実例があるようです。

これでは「女性が嫌がればセクハラで、女性が喜んでいればセクハラでない」だけにとどまりません。「女性が喜んでいても、上司と部下の職場恋愛ならダメ」となってしまいます。「ふられてセクハラと訴える意趣返しが許されるのなら、ふられて元の関係に戻ろうとするストーカーがなぜ罰せられるのか!」と反論したくなる男性もいるでしょう。

私も最初にこの話を読んだとき、世の理不尽を嘆いたものですが、「弁護士が教えるセクハラ対策ルールブック」(山田秀雄・菅谷貴子著、日本経済新聞出版社)を読んでから、再度、「部長、その恋愛はセクハラです!」を読み返して、上の事件が有罪となる決定的な理由を知り、納得しました。「熱愛だったが、ふられたので訴える」など、原則、セクハラと認定されません。しかし、セクハラとなる場合もあります。それは、上司の男性が部下の女性をふって、別の部下の女性に乗り換えた場合です!

そんなのダメに決まっています! セクハラ裁判では、「自分と同じようなこと(熱愛後、捨てられ、別の女にうつっていく)が繰り返されるのは耐えられない」と訴えていたのです。それなら、男性が慰謝料請求されて当然と納得できるのではないでしょうか。ちなみに、男性が既婚者であれば、部下の女性と交際して別れた後に、別の部下の女性と交際していなくても、セクハラで慰謝料請求される場合もあります。それも当然でしょう。

こう考えると、セクハラ制度ができたことで、これまで泣き寝入りしていた女性が慰謝料を請求できるようになったのです。これは画期的です。道徳的には間違っているのに、法律的には許されていた浮気男がセクハラで慰謝料請求される時代になったのです。私が「セクハラ禁止法は強者をくじき弱者を許す制度である」と感じたのは、こんなところに根拠があります。

セクハラはモテない男を罰するものではない

つい最近まで、私は次のような勘違いをしていました。

「セクハラは女性の主観によって決まる。全く同じ行為をしても、モテる男がするとOKで、モテない男がするとダメになる。だから、セクハラ禁止法は強者を保護して、弱者を取り締まる悪法である」

この考えが全くの誤解であることを「弁護士が教えるセクハラ対策ルールブック」(山田秀雄・菅谷貴子著、日本経済新聞出版社)より知りました。

セクハラの必須要件は次の三つです。

①性的な嫌がらせであること

②職場で起こっていること

③上の立場の者が加害者で下の立場の者が被害者であること

①、②、③のどれも境界線が曖昧なところはありますし、拡大解釈もされますが、ともかく③があるからこそ、セクハラにより弱者が罰せられない事実があります。実際、よく調べてみると、職場で弱い立場の人がセクハラで訴えられ、慰謝料を請求された実例は見つけられません。

確かに、「全く同じ行為をしても、モテる男がするとOKで、モテない男がするとダメになる」のはセクハラの一面の真実です。「今日の服、おっぱい見えそうだよ。いいねえ」と言っても、女性が喜んでいればセクハラになりませんが、「今日はミニスカートですか」と事実を言っただけでも、女性が嫌がっていればセクハラになります。モテる奴が得をして、モテない奴が損をするのは、残念ながら、この世の常で、セクハラ禁止法(男女雇用機会均等法の中にその条項がある)の有無に関係ありません。

ただし、セクハラ禁止法がその理不尽を助長しているとは思いません。繰り返しますが、たとえ女性が嫌がっていたとしても、職場で名目上も実質上も弱い立場にいる者であれば、セクハラにはなりません。たとえば、職場で美人と人気者の女性に、同じかそれ以下の地位で、いつも一人の男性が腹立ちまぎれに「女を武器にしやがって!」と言っても、セクハラにはなりません。

ただし、名誉棄損で慰謝料請求される可能性はあります。職場で低い地位にいれば、性的な暴言が許されると考えるのは間違っています。その辺りは、常識と合致しているでしょう。

さらに書くと、セクハラがあるからこそ、強者が罰せられている事実があります。「セクハラが強者を罰する」とはどういうことか、次の記事に示します。

養子移民政策

21世紀日本の最大の問題ともいえる少子化の対策として、次の政策を提案します。

「未婚者および少子の既婚者夫婦が一定の年齢になると、外国で産まれた0~3才の子どもを養子として受け入れる義務が生じる」

たとえば、30才までに未婚であると、男女とも強制的に一人の子どもを養子にしなければなりません。既婚者であっても女性が35才までに子どもがいなければ、一人目の外国の子どもを養子にして、女性が40才までに子どもが一人以下なら二人目の外国の子どもを養子にする義務が生じます。なお、医学的な問題で子どもが作れなかったとしても、義務は免除されず、養子を受け入れなければなりません。

21世紀の人口論」の記事のグラフにあるように、人口爆発はアフリカで2100年までは止まらないようなので、主にアフリカの子どもを養子として受け入れるといいでしょう。赤ちゃんから育てていくので、日本人の良さは受け継がれていき、人種差別も消失していくに違いありません。当然ながら、義務化の前に、この養子縁組が円滑に処理できるよう、法律などの整備はします。

なお、世界的に人口減少になる2100年以降は、この政策を完全に実現するのは難しくなっていきます。その頃になれば、養子を受け入れる希望のない者のうち、収入が少ない者から義務を免除される対処などが必要になってくるでしょう。日本人口、地球人口がどれくらいなら持続可能であるかの検討もしていくべきです。

少子化対策として、養子移民政策が提案されなかったのは不思議なほど、有効なように思います。「未婚税と少子税と子ども補助金」よりも、こちらの政策の方をまず推進すべきかもしれません。

21世紀の人口論

日本の少子化を移民で解決しても世界規模での少子化は止められない」の記事で、私は「世界からの移民で日本だけの人口減少を解決するのは視野が狭い。その手法では、いずれ世界規模で発生する人口減少の解決策にはならない」と書いています。それだけを読むと、「世界規模でいえば、人口はもっと減るべきだ。日本に1億人もいるべきでないように、世界に70億人もいるべきでない」という反論は当然出てくるでしょう。「世界に率先して人口減少していく日本は、理想的な人口減少移行社会のシステムを作り、世界に示すべきである。未婚税や少子税などの人権無視政策で、人口を維持させるなどもっての他である」と私の未婚税・少子税案を批判する人もいるかもしれません。

確かに、世界の人口が多すぎるという観点はあるでしょうが、日本だけが人口減少社会を受け入れるのでは意味がない、と私は思います。少なくとも2100年までは、世界人口は増えていくからです。

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「大局的な視野で見て、世界はいずれ人口減少社会を迎えるので、課題先進国の日本は先駆けて理想的な人口減少社会を作るべきだ」との考えは傾聴に値すると思いますが、それを実行するのは100年早いでしょう。それに、移民を受け入れず、有効な少子化対策が実現できないままなら、日本は消滅するまで少子高齢社会のままです。さすがに高齢化率40%を続けたい日本人はいないはずです。

だから、移民政策はあと100年は推進すべきでしょう。これから数十年間に起こる人口減少を食い止めるまで移民を受け入れるのは無理かもしれませんが、日本の理想的な人口規模に近づける手助けにはなるでしょう。

ただし、単純な移民政策は現在の欧米にもある民族対立が日本で発生するに違いありません。それを解決するための新移民政策を次の記事に記します。

「東電が悪い」だけではいけない

福島第一原発事故7つの謎」(NHKスペシャルメルトダウン』取材班著、講談社現代新書)には、こう書かれています。「(最初にメルトダウンを起こした)1号機こそ、事故の進展を決める重要なポイントだった。その鍵を握っていたのが、1号機のIC(非常用冷却装置)への対応だった。冷却装置が動かなくなったが、ICだけは機能が維持されていると考えて、吉田などの幹部は事故にあたっていた。ところが、後の事故調査で、ICは津波の直後から動いていなかったことが判明する。(省略)検証取材で、IC停止に早期に気づくチャンスは少なくとも4回はあったことが明らかになった」

そのチャンスのうちの一つは、ICの排気管から蒸気が出ていないのに、東電社員が蒸気を目撃してしまったことです。なぜ、ありもしない蒸気を目撃したと東電社員は報告してしまったのでしょうか。

事故前、福島第一原発のICは創設以来40年間、一度も稼働したことがありません。だから、ICが動くと、どのような蒸気が排気管から出るか、実際に見た人は福島第一にいませんでした。アメリカのニューヨーク州には福島第一原発と同じ頃に作られた原発があり、ICの起動試験を定期的に行っています。下の写真のような大量の蒸気が出て、轟音がするそうです。

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福島第一原発事故時に社員は「(排気口から)もやもやとした蒸気を発見した」そうですが、それはIC停止後2~3時間後に出る蒸気の状態だったと後に分かっています。吉田昌郎所長が証言しているように、ICの仕組みや挙動に対する知識は福島第一で十分でありませんでした。40年間一度も動かしていなければ、ICの知識を持つ人間がいなくなるのは当然です。だからこそ、アメリカでは数年に一度ICを動かす検査をしていました。福島原発でIC動作訓練をしなかった理由を検証して、出てきた答えの一つが「ICを動かす時に出る大量の蒸気と轟音が、周辺住民を不安にさせることを恐れたのだろう」でした。

(いかにも日本らしい理由だ)

それが私の感想でした。上の写真のような蒸気が原発から出てくれば、不安になるのは理解できます。しかし、特に害があるわけでなく、必要な検査で出てくる蒸気です。科学的に考えられる人物なら、怖がることは全くありません。

今回の原発事故では、非科学的な風評被害が発生したことは周知の通りでしょう。なかには「福島県人が近づいてきたら、逃げていった」と差別としか言いようのない被害まで発生しています。

私は医療従事者なので「奴らが電波で私を攻撃してくるので、テレビをつけない」と言う人に何名も会っています。統合失調症という精神病患者です。電波の攻撃を避けるため、いつも布団を被っている人もいました。「他の人は平気ではないか」「引きこもりのあなたを攻撃してなんの得があるのか」という疑問が生じますが、彼ら彼女らはそんな理性的な思考を放棄して、怖がっています。

「全ての人間は皆同じ」との人間観を私は持っているので、この統合失調症様の恐怖は、程度は少なくとも、どんな人間でも持っているものだと考えています。だから、「よく分からない危険なものに対する恐怖」も全否定するつもりはありません。しかし、左側の水たまりを怖がるあまり、右側の崖に落ちて死ぬのは馬鹿げています。本当に怖がるべきことを知るために、科学教育を受けてきたはずです。科学を無視して正体不明のものに怖がるなら、動物と同じです。自ら人間であることを放棄しているに等しいです。精神障害者が本人の意思に反して入院を強制されることがあるように、非科学的思考で放射能を恐れる人の意思を社会で尊重すべきではないでしょう。

もっとも、日本でIC稼働訓練を避けたのは、日本の一般住民側の責任だけでなく、原子力村の人たちの責任でもあります。「説明しても素人は理解できない。危険はあるが、それを伝えると素人は怖がるから、黙っているのが一番だ」は一般人を見下した態度です。そんな家父長的な態度は、成熟国家の日本では不適切です。たとえ怖がらせたとしても、危険を承知しているなら、情報を全て公開して、同意を得るべきです。日本人はそれを受け入れられるほどの理性を身に着けているはずですし、身に着けていなければなりません。一般住民も、専門家に全て任せて、十分にチェックもせず、問題が起こった時だけ被害者面すべきでありません。今回、地震で直接被害にあった方は、なおさら、そのような姿勢の問題点を日本人全体に伝えていくべきだと思います。

福島原発事故は日本人全員の失敗である

福島原発事故では、私を含む多くの日本人が東京電力に怒り、呆れたことでしょう。しかし、私は事故が起きるまで、東電があそこまで腐敗して、あそこまで大局的な視野のない社員たちばかりとは全く知りませんでした。そもそも東電社員がどんな人たちか関心すらなかったわけですが、原発事故でそれが自分の人生と無関係でないことを思い知りました。無関心でいることで、本来原発を扱うべきでない人たちに原発を任せていたわけです。だから、東電を責めて、一般人の自分は被害者と考えるのは短絡的すぎます。それは第二次世界大戦で、日中戦争や太平洋戦争の初期の戦勝を熱狂的に支持していたくせに、戦後になると、軍部が加害者で一般の自分たち国民は被害者と考えることに等しいでしょう。

また、福島第一の吉田昌郎や現場職員を英雄視する見方も「精神に重きをおきすぎて、科学を忘れた」姿勢に通じると私は考えます。その間違いは「福島原発事故と八甲田山遭難事故の相似」に書いた通りですが、ここで付け加えます。「福島第一原発事故7つの謎」(NHKスペシャルメルトダウン』取材班著、講談社現代新書)によると、1号機のベントがあそこまで遅れた理由の一つに、「決死隊」がベント実行の最中、なんと100mSv程度の被爆で逃げ帰ってきた事実が書かれています。「決死隊」とは、ベントが遅れに遅れていることに我慢ならなくなって福島第一まで来た菅直人首相に対し、吉田所長がベント実行のため募ると約束した集団です。欧米での原発事故時の被爆限度は250~500mSvです。メルトダウンの最中、チェルノブイリ以後最悪の事故が起こっている最中、「決死隊」がわずか100mSvで諦めるなど、ありえません。もちろん、当時の法律では100mSvを越えての作業を禁止していましたが、そんなことを無視してでもベントを実行するから「決死隊」と呼んだはずです。防護服もなしで免震棟に入ろうとして、係員が放射線被爆量を計ろうとしたら、「俺は呑気にこんなことをされるために来たんじゃないんだ!」と怒鳴った菅直人の姿勢こそ、見習ってほしかったです。

かといって、現場職員がバカで臆病者だったと断定するのも行き過ぎでしょう。

メルトダウン」(大鹿靖明著、講談社文庫)では、細野豪志の発言を引用して「最大の功労者は自衛隊だと思っております。ヘリコプターからの放水がターニングポイントだった」と書いています。また、「カウントダウン・メルトダウン」(船橋洋一著、文藝春秋)では、日本で原発事故の支援活動をしたアメリカ人カストーが「家に火事が起こり、停電してしまったと仮定しよう。その時、中に飛び込んで、まず電源を復旧しようとするか。いや、しないだろう。まず、水の管を開けるに決まっている。なんでそんなことが分からないのだろうか」と日本到着の3月15日頃に考えていたことを記し、放水作業より電源復旧を優先しようとする東電を批判しています。しかし、両書籍より後に出版された「福島第一原発事故7つの謎」(NHKスペシャルメルトダウン』取材班著、講談社現代新書)によれば、3月15日からは東電の言う通りに、電源復旧を最優先すべきだったことが明らかになっています。核燃料プールへの放水作業のため、電源復旧作業は合計5回、少なくとも39時間57分中断されています。そのために、3月15日から22日までに事故全体の7割の放射性物質の放出があったそうです。自衛隊の放水作業は、アメリカや日本国民へのデモンストレーション以上の効果は事実上ゼロに近かったと「福島第一原発事故7つの謎」は断定しています。とはいえ、これは結果論であり、そうなると当時予想できなかったことは確かです。それにしても、「メルトダウン」は自衛隊を、「カウントダウン・メルトダウン」はアメリカを称賛しすぎています。

福島第一原発事故7つの謎」にある通り、福島原発事故はまだ解明されていない謎があります。「東京電力撤退事件」に書いた通り、2号機の格納容器が圧力破壊を起こさなかった理由も分かっていないのです。これからも福島原発事故について新しい事実が分かり、そのたびに新しい教訓を日本人が得られるかもしれません。そのとき、誰かを英雄視したり、誰かを犯人にしたてあげて日本人の自分を被害者と考えたりすることは、間違っていると私は予想します。

東京電力撤退事件

2011年3月14日から15日、福島第一原発の2号機が格納容器の圧力破壊という最低最悪の事態に陥る可能性がありました。東電社長の清水が官邸首脳部に福島第一原発からの現場職員撤退を進言して、菅直人首相以外の政治家たちはそれを容認しようか迷っていたことが、「カウントダウン・メルトダウン」(船橋洋一著、文藝春秋)に書かれています。同様のシーンは、他の全ての本に出てくるはずです。国会事故調によると、吉田昌郎が最低でも10人は残るつもりだったので、東電撤退を「官邸の誤解」としています。現在、wikipedia福島第一原発事故の記事では、東電の清水社長の伝達ミスとして、東電撤退は「誤報」の一つとされています。

しかし、これは単なる官邸の誤解や伝達ミスではない、と私には思えます。福島第一の人数がフクシマ・フィフティー(実際は70人らしい)まで減った事実があるからです。こんな人数で4つや6つもの原子炉を制御できるわけがありません。事実上の全面撤退でしょう。

「カウントダウン・メルトダウン」によると、当時、官邸で原発事故に対応していた政治家と官僚たち、海江田万里枝野幸男福山哲郎細野豪志、寺田学、伊藤哲朗は東電撤退を認めるよう、菅直人に提言しています。菅は激怒して「撤退? なんだそれは。そんなのありえないだろう!」と叫びます。海江田は「ええ、そうなんですが、ただ、東電社員に死ぬまでそこに残れとも言えませんし……」と反論したそうです。

なぜ日本政治の中枢にいる者たちが、揃いも揃って東電撤退を認めようとしたのか、私には不思議で仕方ありません。彼らは当時の状況をどう認識していたのでしょうか。

①東電社員が今すぐ現場から逃げても、逃亡中に放射線被爆を受けるので、すぐに死んでしまう。

②東電社員が今すぐ現場から逃げたら、十分に長生きできるが、首都は放射能汚染で東京から移転しなければならない(東京は何十年か何万年も人が住めない場所になる)。

③東電社員が今すぐ現場から逃げたら、十分に長生きできる。避難区域はひどくても80km以内でよい。

当然ですが、①なら東電社員を撤退させる意味がありません。

3月15日の早朝、菅首相東京電力に乗り込んで「逃げてみたって逃げられないぞ!」と大演説をぶって、東電撤退案は流れます。

結果論として、東電社員を撤退させたままなら、福島第一の現場職員が70人に減ったままなら、どうなっていたのか、実はいまだによく分かっていません。「福島第一原発事故7つの謎」(NHKスペシャルメルトダウン』取材班著、講談社現代新書)にあるように、2号機で決定的な圧力破壊が起こらなかった理由は現在も不明だからです。吉田昌郎も「ここだけは一番思い出したくないところです。ここで本当に死んだと思った。チェルノブイリよりひどい状況になる」と後に証言しています。

専門家が集まって調べに調べた今でも、2号機が破滅に至らなかった理由をつかめていないので、当時、原発がどうなるか、東日本がどうなるか、明確に分かっていた人はいなかったでしょう。上記の①、②、③、それ以外の全ての可能性がありました。

日本人なら、次のことは考えてほしいです。①の確率が少しでもあるなら、原発から撤退すべきだったでしょうか。また、撤退したら最低でも②は起こるのなら、あなたはその損害を補う覚悟はありますか。東京に人が住めなくなったら、東京にいる日本人を全て避難させなければならないとしたら、日本人全員がどれくらいのお金と労力と年月を費やさないといけないか、想像できるでしょうか。

 

※この記事も間違った事実に基づいているので、「『東京電力全面撤退は誤報である』は誤報である」の記事に「東電社長から撤退申し入れ」→「菅総理が東電社長に拒否の連絡(全面撤退でないと官邸も分かる)」→「菅総理が東電本社に乗り込み大演説」→「菅総理の黙認の上で人員70人まで減らした」であることを書いています。

福島原発事故に天才もいなければバカもいない

福島第一原発所長である吉田昌郎は事故後、あっという間に英雄視されてしまいました。まるで乃木希典日露戦争後、あっという前に英雄視されたかのようです。

第二次大戦後、司馬遼太郎の「坂の上の雲」が部下たちに無謀な突撃を何度も強いた乃木の愚策を世間に広めたせいで、乃木は英雄から愚将に一気に落ちぶれました。対照的に、日露戦争の英雄となったのは児玉源太郎です。やはり司馬遼太郎によって、難攻不落の203高地を攻略できたのは、児玉源太郎の作戦によるものとの認識が広がったからです。しかし、wikipedia児玉源太郎の記事にもあるように、203高地での児玉の貢献は司馬によって誇張されていることは間違いありません(デタラメの可能性もある)。また、乃木を愚将と断定するのも大げさです。旅順の突撃作戦が大失敗なのは事実でしょうが、乃木は旅順陥落後に敵将ステッセリを丁重に扱ったため国際的に称賛を浴びましたし、奉天会戦で最も敢闘した第三軍の指揮をとっています。

日露戦争での乃木が天才でもバカでもないように、「福島原発事故と八甲田山遭難事故の相似」に示した通り、福島原発事故での吉田は天才でもバカでもありません。

同様に、原発事故時の菅直人がバカであるとの認識も間違いです。次の記事に書くように、菅直人が首相でなければ、東京に人が住めなくなっていた可能性さえあったのです。

当たり前ですが、全ての判断を完璧にできる人はいませんし、全ての判断を間違う人もいないでしょう。正解と思える判断が、見方を変えれば不正解になることもありますし、逆もまた然りです。「吉田昌郎は英雄であり、その批判は許されない」、「菅直人原発事故時に首相だったことは、太平洋開戦時に東条英機が首相だった不幸と同じである」と信じて疑わない人は、何十年かかってもいいので、この当たり前の認識を身に着けてほしいです。

2012年5月28日、国会事故調での菅直人の発言をほぼ引用しておきます。「東電と電事連などが原子力行政の実権をこの40年間で掌握していき、批判的な専門家、政治家、官僚を村八分にして、主流から外してきました。それを見ていた多くの関係者は、自己保身と事なかれ主義に陥っていた。原発の危険性を訴える人はいたのに、多くの日本人は当事者意識を持たず、それに気づかないか、見て見ぬフリをしてきた。今回の原発事故は、私を含めた日本人全体の失敗だと思います」

福島原発事故と八甲田山遭難事故の相似

福島原発事故での吉田昌郎所長を「東日本壊滅から救った英雄」と考えている日本人は、まだどれくらいいるのでしょうか。 

1902年の八甲田山遭難事件は第二次大戦中まで、210人中199名も死亡した青森歩兵第5連隊を英雄視することが常識でした。1971年の「八甲田山死の彷徨」(新田次郎著、新潮文庫)によって、第5連隊がありえない貧弱な装備で、無謀な雪中行軍をしたことが世間に明らかになり、八甲田山遭難事件は愚の骨頂との認識が一般になりました。一方、同書で注目されたのは、戦後まで政府が意図的に隠してきた弘前歩兵第31連隊です。第31連隊は第5連隊の10倍の距離を八甲田山で雪中行軍したにもかかわらず、十分な装備と準備で挑んだため、死者はゼロでした。無謀な計画でほぼ全滅した第5連隊の悲劇を称賛して、入念な計画により無事に予定行路を踏破した第31連隊を無視するなど、狂気を褒め、理性を貶すようなものです。こんな思想傾向が、第二次大戦時の日本の悲劇に繋がっているような気がしてなりません。

福島原発事故吉田昌郎を英雄と考える観点も、八甲田山遭難事件で第5連隊に感動する観点に似ていると思います。国会事故調によると、東京電力は従来の想定を超えた地震津波が襲来する可能性、そして福島原発がそれに耐えられない構造であることを、何度も指摘されていたにも関わらず、これを軽視し、適切な対策をとらなかったことが事故の根本原因だとしています。その「指摘を軽視し、対策をとらなかった」東電の責任者こそ、吉田昌郎なのです(東電の武黒一郎、武藤栄も同罪です)。

原発事故時の吉田昌郎は、怒り心頭に達していた菅直人首相を黙らせるほどの理性と度胸を兼ね備えた稀有な人物でした。しかし、大局的な視野でみれば、原発事故時に冷静に対応する能力よりも、そもそも原発事故を起こさない能力の方が比較できないほど価値があることは論をまちません。

さらに、原発事故が起こった時の対応ですら、吉田昌郎は完璧でなかった、と後に判明しています。「カウントダウン・メルトダウン」(船橋洋一著、文藝春秋)には、福島第二原発でも、第一原発同様に原子力災害対策特別措置法に基づく緊急通報(15条通報)が行なわれ、ベント決死隊まで準備されていたことが記されています。15条通報は「緊急事態が起きかねない」(10条通報)状態でなく、「緊急時代が起きている」状態で出されます。福島第二原発メルトダウン寸前だったのです。しかし、メルトダウンを3基も起こした第一と異なり、第二では注水が途切れることなく、あと一歩で踏みとどまりました。上記の書では、福島第二原発の増田尚宏所長を「本当のヒーロー」と称えています。もちろん、福島第一と第二が全く同じ状況ではありませんでしたが、事故後の調査で、第一でも事故時に適切に対応していれば、メルトダウンを防げたことは既に分かっています。その最高責任者は、現場所長である吉田昌郎のはずです。

現在、福島第一原発と第二原発のこの決定的な差を知っている日本人は、一体どれくらいいるのでしょうか。それを知らないまま吉田昌郎を英雄だと信じている日本人は、ぜひとも上の事実を知っておいてほしい、いえ、日本人なら知っておかなければならない、と私は強く思います。

次の記事に続きます。

イケメン税とイジメ

橋下徹が政治家を引退宣言して始めた番組が2016年4月から2017年9月まで放送されていました。その番組中、イケメン税導入を主張して、こちらの記事によると、世界中で反響を呼んだ人物がいます。経済学者の森永卓郎です。ネットで調べると、森永は2012年頃からイケメン税を主張していたようです。イケメンで決してない私としては大賛成の案です。普通の番組でこの発言を聞いていたら、私は「よくぞ言ってくれた!」と笑いながら拍手喝采していたでしょう。

しかし、2016/6/6の番組を観れば分かりますが、この主張のせいで、森永は出演者全員に完全にバカ扱いされています。あからさまなイジメです。拍手するような清々しい気持ちにはとてもなれません。橋下が出演しているせいでしょうが、この番組では一人の異端者への嘲笑や、一方的な論破などが何度もありましたが、その中でもこれはひどい例です。

橋下は政治家時代に沖縄在日米軍に「もっと風俗業を活用して欲しい」と提案して、米軍高官から「ばかげている」と返されました。その風俗案と比べたら、社会的弱者を救うイケメン税はよほど国際的には通用する案です。この番組に出演している政治家やアナウンサーや知識人、そして多くの日本人視聴者は、イジメの傍観者能力は十分に習得していても、国際感覚は全く身についていないようです。

日本は「幸せな人を尊重し、不幸な人を虐げる国」であると書きましたが、この番組のこのシーンはそれを象徴しています。100年後の日本でもイジメの教材として使えるでしょう。

「薬品業界は不正の温床」という格言

海外の医学会に参加して、全てのパンフレットの裏表紙に「当学会は製薬企業から金銭支援を受けていません」と書いてあるのを見て、異様に感じる日本人医師たちが(残念ながら)います。ちなみに日本では、ほぼ全ての学会で製薬企業がスポンサーに入って、医者家庭で育った金持ちたちでさえ「一体どこで買ったんだろう」と思わせるほど豪華な弁当を無料で配るのが普通です。私は一度「この豪華弁当代金が最終的に患者負担、保険料負担、税金負担になることは知っていますか?」と学会参加医師たちに聞いたことがありますが、鼻で笑われて終わりました。

MRという職業があります。病院やクリニックに薬の営業をする仕事をしています。日本中おそらく全ての大学病院、および、ほとんどの大病院の医局前で列を作っている人たちです。医師が通るたび礼儀正しく会釈をして、医師と話せるまで何時間でも背筋を伸ばして立っています。待っている時間はなんら生産的な活動をしていませんが、当然、勤務時間内なのでMRの給料は発生しています。明らかな無駄で、恐らく日本中の医者がこの制度を恥ずかしく思っていますが、まだなくなっていません。

日本の医薬分業を最も推進してきたのは日本調剤の三津原博社長でしょう。医薬分業とは、簡単にいえば、病院から薬局を分離させる政策のことです。そのせいで、昔は病院で薬をもらえたのに、今は病院ではもらえず、薬局で薬をもらっています。患者さんの手間がかかるだけならまだいいのですが、前回までの記事に書いたように、この過程で莫大な医療費が余計に発生しています。三津原は「医薬分業」を企業理念とする日本調剤を創設して、日本中の病院の前に門前薬局を建てまくり、ボロ儲けしています。ボロ儲けとは決して大げさでなく、三津原は企業役員報酬ランキングで毎年上位に入っており、トップに立ったことさえあります。薬の費用ではなく、薬をもらう行為の費用のピンハネで、毎年5億~7億円もの報酬を受け取っている人物がいるのです。当然ながら、三津原の報酬は、患者、健康保険料、税金から支払われています。

門前薬局は日本から消えるべきである

医薬分業は日本医療行政史上に残る大失敗」の記事で、国が医薬分業(病院から薬局を分離)を進めたのは、薬漬け医療を抑制するためと書きました。では、全医療費に占める薬剤費比率は減ったのでしょうか。残念ながら、この20年間ほど横ばいで、減っていません。薬価差益(薬を売ることの利益)は下げたにもかかわらず、全体の薬剤費比率でみると減っていないのです。薬そのものの費用ではなく、薬を手渡す行為に莫大な費用をかけているからです。こちらの記事には、同じ薬なのに、院内で受けとる場合の3倍の値段が、院外の薬局で請求される例が書かれています。病院内で薬を受け取った方が患者さんとしては楽なのにもかかわらず、そんな診療報酬制度になっています。

厚生労働省はこんな無駄な費用をかけたくて医薬分業を進めたわけではありません。病院やクリニックの前に門前薬局がどんどんできていた時、良心的な官僚は青ざめていたはずです。当たり前ですが、病院外に薬局があれば、その分の土地代も建物代もかかります。日本の制度だと、それらは最終的に患者負担、保険料負担、税金負担になります。「薬剤師が不要であると見抜けなかったツケ」の記事に書いたように、薬局の数に合わせるかのように増えた薬剤師の給与も、同様に負担されています。しかも、日本では医師同様、病院薬剤師よりも楽な薬局薬剤師が、病院薬剤師よりも給与が高いのです。

門前薬局は、大病院なら一つだけでなく三つ四つもあるのが普通です。これらが病院内の一か所にあれば、土地も労力も人件費も省けることは、小学生だって分かります。薬を渡す行為に莫大な費用をかけず、薬そのものに費用をかけられるようになれば、患者さんにとって有益であることも自明です。

莫大な医薬分業費用(薬剤師人件費、薬局建設費)をかけるべきでなかったのは疑念の余地がありません。AIと機械化により薬剤師の全ての仕事がなくなるとも考えられているのに、いまだ厚労省は「門前薬局の増加は明らかな失敗だったが、医薬分業自体は間違いでないはずだ」との姿勢です。日本中の薬剤師を転職させるのは時間がかかるでしょうが、今すぐ病院と薬局で薬を受け取る診療報酬を適切に変更して、門前薬局は日本から消滅させ、薬局薬剤師は病院薬剤師より低い給与にすべきでしょう。

薬剤師が不要であると見抜けなかったツケ

薬学部にこんな授業があることを知っているでしょうか。医師の処方箋(患者に出した薬品名リスト)から、患者の病気を推測する授業です。それを聞いた医学部生は驚き、全員がこう言いました。

「なぜそんな無駄なクイズ授業があるの? 処方箋に病名書いておけばいいだけじゃない」

薬学生は全員こう反論しました。

「いや、患者の病名は個人情報だから、処方箋に書いてはいけない」

薬剤師の常識は世間の非常識のいい例です。個人情報を失うデメリットよりも、薬剤師が病名を知って、医師の処方間違いをチェックできるメリットが遥かに勝ります。それだからこそ、処方箋から病名を推測しているはずです。書いて伝えるのはダメで、理論的に推測して当てるのはいいのでしょうか。その反論は矛盾しています。

とはいえ、薬剤師による疑義照会(医師に処方が正しいか確認する作業)は、全処方の約5%で行われているようです。病名が分からないながらも、薬剤師は明らかな医師の処方ミスを指摘していたりします。これは確かに価値ある仕事ですが、薬剤師に高給を払うほどの価値はないと思います。その仕事は、薬剤師でなくてもできるからです。

また、そう遠くない未来に、医師の処方ミスや複数処方箋の薬剤相互作用はAIで自動的にチェックし、通知してくれるようになります。いずれ、こういった仕事自体がなくなるのです。このことに限らず、薬剤師はAIによって医療業界から最初に消える職業であることは衆目の一致するところです。しかし、日本は薬局数の増加に合わせて、下のグラフのように薬剤師の増加も黙認してしまいました。

 

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薬学部合格の難しさ、薬学部が6年生になったこと、なにより30万人もの薬剤師(医師数に匹敵します)を誕生させたことを考えると、医薬分業は高齢者医療費無料化と並ぶ日本医療政策の汚点になると私は考えます。

今後、30万人近い薬剤師をどう活用すべきか、日本人全体で考えないといけないでしょう。