未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

介護職の多くを公務員化すべきである

公務員改革でぜひ提案したいのは、介護職の大規模な公務員化です。

あまり知られていないと思うのですが、大きな政府スウェーデンでは職業女性の半数以上が公的部門で雇用されています(「仕事と家族」筒井淳也著、中公新書)。また、その公的部門で雇用されている女性の7割が介護職で、2割が保育職です。スウェーデンは女性が社会進出していると言っても、アメリカのように管理職の女性が10%以上もいるわけではなく、スウェーデン女性で管理職は民間で5.68%(日本0.50%)、公的部門で2.84%(日本1.01%)です。介護職や保育職の多くを公務員化させれば、日本でも女性の社会進出は容易に進むはずです。そんなことで女性が社会進出できたと判断するのは間違っている、と批判する人はいるでしょうが、だとしたら、世界経済フォーラムが発表する「男女平等度ランキング」(スウェーデンは2017年5位)も気にすることはないと思います。

話を戻します。日本では求人が多いのに給与が低いため、介護職と保育職に人がろくに集まらない状況が続いています。これに対処するために、公的部門で十分な給与を出して、多くの職員を雇うべきだと考えます。

現在、公務員では事務系の仕事が無駄に多すぎます。コンピュータ時代の今、事務職は究極的にゼロにするべきです。公務員と言われると事務職を想像するような今は異常であると認識し、公務員といえば人を相手にする福祉職を想像するような社会になるべきです。

公務員を中高年限定採用にする改革

新卒一括採用と年功序列が一般化した日本では、中高年がなんらかの理由で退職した場合、再就職先を探すことが極端に難しくなっています。これの救済策として公務員を若者一括採用から40才以上の中高年者採用に変更することを提案します。

事務職や教員などは中高年で問題ないはずです。警察官はさすがに中高年だけでは問題があるかもしれないので、ある程度は若者にも門戸を開くべきかもしれません。他にも中高年だけにすると問題のある職種や地位もあるでしょうから、例外は設けるべきでしょうが、ほとんどの公務員は中高年採用にしていいと思います。

なお、この改革案が実行されるかはともかく、次の公務員大改革期には、官僚の関係業界の天下り、特に警察官のパチンコ業界の天下りなどの腐敗は法律で厳格に禁止して、排除するべきです。

また、公務員改革に少子化対策を組み込んでみてはどうでしょうか。たとえば、公務員の採用を二人以上の子育てをしている、またはしていた人に限定します。

現在、国民の三大義務に教育、納税、勤労がありますが、それに「子育て」を加えていいと思います。昔は義務化しなくても自然と人間は結婚して、子どもを産むものだと考えていたのでしょうが、現在の流れに任せると少子化は止まりそうもありません。確実に激しい反対が出てくるでしょうが、子どもがいなければ、社会は成り立ちませんし、生物種として滅んでいくのは自然の摂理です。少子化を食い止めるため、「子育て」の義務を果たしている者だけに公的職業の特権を与えてもいいと思います。

公的な人的支援が私的なコミュニティの救済に勝る理由

私の提案している新福祉国家では、公的な人的支援を受ける義務が生じます。最低でも公的な報告の義務は出てきます。この公的な干渉を強く忌避する人は確実にいるでしょう。しかし、私的なコミュニティによる救済が不十分になった今、そしてこれからの時代、このような公的な干渉が必要なはずです。

一人の取りこぼしもない社会」で書いたように、ひと昔前は、コミュニティによって私的な問題が解決されていました。その大きな利点は、やはり公費がかからないことでしょう。一方、その大きな欠点は、社会的な正当性が保証されないことです。だから、私的な問題を解決したが、より大きな社会的な問題が生じていることも少なくありません。

たとえば、私も少し関わったことのある貧困ビジネスがあります。街中の浮浪者に「宿を保証してやる」と声をかけて、安アパートに住ませ、生活保護の手続きをとってあげた後、元浮浪者の生活保護費をピンハネするビジネスです。ほぼ100%でヤクザが関わっており、違法のはずなのですが、浮浪者が集まるような大きな都市なら確実にあります。言うまでもなく、本来その生活保護費は、浮浪者の社会復帰のため、あるいは浮浪者の健康で文化的な生活のために使われるべきなのですが、公的な人的支援があまり入らないため、実態が解明されないまま、ヤクザの活動費用に回っています。これで浮浪者の衣食住などの私的な問題は即座に解決されるのかもしれませんが、公金が反社会勢力に流用されており、より大きな問題が生じています。この他、家出少女を風俗で働かせるなど、ヤクザが関わって私的な問題を解決すると、ろくなことになりません。

ヤクザが関わった例に限らず、私的なコミュニティが私的な問題を解決する場合、それが社会的妥当性を持つ保証はどこにもありません。たとえば、太った不登校児がいたとして、近所の頑固オヤジが「デブなんて生きる価値なんてないんだよ! 毎日、俺と一緒にランニングしろ!」と問題発言をしたとします。よりにもよって、そのランニング実践によって、その子は不登校をやめて、勉強に励むようになり、東大に合格して、挙句には政治家にまでなってしまった例があったら、どうでしょうか。当然、その元不登校児は「デブは生きる価値がない」だとか、パワハラ教育が正義だとかの価値観を持ってしまい、他人にまでその人道に反する価値観を強要するかもしれません(そんな国際的に通用しない価値観の政治家が日本に少なくない上に、そんな政治家を信奉する国民が多いことは本当に情けなく、恥ずかしいことです。極論すれば、こんな価値観が広まっていることこそ、現在の日本の政治・経済・文化が他の先進国に遅れている最大の原因だと私は思います)。

しかし、公的な人的支援では、十分な教育を受けた支援者が関わるので、そんなことは通常起こりません。万一起こった場合でも、被支援者が「『デブに生きる価値はない』と支援者に言われた」と報告すれば、その支援者は問題のある指導をしたことで処罰を受けます。

ここで、上のような気合重視の精神を美徳と思ったり、世の中にキレイ事では処理できない問題があると思ったりする人は、率直にいって、50年以上は時代遅れです。私に言わせれば、あなたの価値観にピッタリ合う国家、北朝鮮にでも行ってほしいです。社会復帰に気合、というか意思の強さが重要になるのは事実でしょうし、世の中にキレイ事で処理できない問題があるのも事実ですが、だからといって、直近の問題を解決するためなら、なにをしてもいいわけがありません。一部の人には非常に有益だとしても、大多数の人を精神崩壊させ、場合によっては自殺に追いやる指導は道徳的に認められません。不登校の問題は解決できても、基本的人権を無視した指導、場合によっては基本的人権を無視した人物を生みだす指導は社会的に許されるべきではありません。なにより、そういった検証を可能にするように、公的に人的支援をして、それを記録に残すべきです。

私的な救済と違って、公的な支援では、後から社会的な公平さについて検証が可能です。これも公的支援の大きなメリットでしょう。

新福祉国家での雇用政策

私の提案する「一人の取りこぼしもない社会」の新しい日本でAさんがB会社を自主都合退職したと仮定します。

B会社はAさんの退職の意思表示を受け取った時点で、それが口頭であれ文書であれLINEメッセージであれ、失業対策局(仮称)に直ちに連絡する義務が生じます。その当日中に失業対策局からAさんとB会社に、それぞれメールなどで公式な連絡がきて、退職に至った理由を聞きます。

ここで不審な点があれば、失業対策局の職員がB会社の職場まで行って調査します。Aさんの退職が本当に自主都合と判定されるべきなのか、事実上の人員整理になっていないかなどが調べられます。また、パワハラ、セクハラ、マタハラなど違法行為の可能性があれば、職員が専門機関に直ちに通告します。違法とは言えないが職場環境に問題があるなら、B会社は適切な指導を受け、場合によっては指導が実践されているかの定期的な調査も受けます。

これだけなら、労働者保護の印象を受けるかもしれませんが、失業対策局はAさんにも問題がなかったか調べます。たとえば、Aさんに無断欠勤や遅刻が多かったのであれば、それが一生記録に残り、次にAさんが退職した時にも、前職で無断欠勤や遅刻があったことは事前情報として失業救済局の職員に調べられます。

Aさんが退職後、すぐに就職したのなら問題ありませんが、1ヶ月後にも次の仕事を見つけていない場合、失業救済局の職員からメールなどで連絡がきて、Aさんはそれに適切に答える義務が生じます。もし返信がこなかったり、返信がきてもAさんが困っている状況にあると分かったりすると、Aさんの個人宅に職員が伺います。Aさんが怠けて仕事を探していないのなら、職業斡旋所に紹介されます。なお、Aさんが職業斡旋所で紹介された仕事に正当な理由なく就かなかった場合、失業保険や生活保護などは減額されます。また、Aさんがうつ病になっているなら、精神科に紹介されるかもしれませんし、Aさんの仕事能力が劣っているなら、職業訓練校に紹介されたりするかもしれません。これらも拒否すれば、失業保険などが減額されます。もちろん、退職後にAさんが1年間自分探しのために世界旅行することも可能ですが、Aさんは1ヶ月に1度、それが順調に進んでいることを失業救済局の職員に連絡する義務があります。

私の提案する新しい福祉国家では、どんな企業のどんな職種でもパワハラなどが完全に許されない一方で、心身ともに健康な現役世代の人が正当な理由なく無職でいることも許されません。これにはメリットもデメリットもあるのは言うまでもありません。

次の記事に、私的なコミュニティが私的な問題を解決していた過去の時代(あるいは現在)と比較して、公的な人的支援で私的な問題を解決するメリットを書きます。

タックスヘイブンの不正をもっと報道すべきである

本日からパラダイス文書が日本のニュースで報道されています。「ポピュリスト支持者の本当の敵であるグローバリズムの弊害の解決方法」の記事でも同様のことを述べましたが、現代世界で最悪の不正はタックスヘイブンです。戦後から現在までの日本政治家腐敗事件を全て足し合わせても、タックスヘイブンで行われている1年間の不正の足元にも及びません。タックスヘイブンを見逃していることは、戦争と並んで、現代のバカの極みです。

「不平等をめぐる戦争」(上村雅彦著、集英社新書)では、こう書かれています。

タックスヘイブンで秘匿されている個人資産は2310兆円から3520兆円といわれ、これに課税すれば年間21兆円から31兆円の税収が見込める」

パナマ文書が報道された2016年、日本でそれ以上に盛んに報道されていたのは舛添都知事の不正疑惑でした。舛添都知事の私的流用額は推定1400万円です。

これらの金額を比べたら、どちらを大きく報道すべきかは明らかでしょう。もちろん、金額だけで不正の重要度が決まるとはいいませんが、いくらなんでも桁が違いすぎます。

こんなたとえ話はどうでしょうか。100万円の新車を購入したものの、全く違う10万円くらいの中古車が届いたのに、ディーラーに電話して「購入した車と違うと思います」とクレームを言ったものの、「いえ、それで合っていますよ」と返答されると、それっきりにしました。一方、その人は近所のコンビニで買った10円の「うまい棒」が帰って袋を開けたら「チロルチョコ」になっていたと、3ヶ月間毎日、コンビニにクレームの電話を入れていました。

いくら自動車よりも「うまい棒」が大事だとしても、上のような行動をしていたら、普通、その人は精神異常を疑われます。

上で書いた21兆円から31兆円の全てが日本の税収になっていたわけではありませんが、世界における日本のGDP比6.4%(2017年IMF)から推定すれば、脱税額は毎年1兆円~2兆円程度あることになります。「いや、日本は貧富の差が激しくないし、源泉徴収が多いから、せいぜいその1割だ」としても、1000億円から2000億円です。舛添スキャンダルの1万倍の金額です。金額比がそのままニュース報道の長さの比重になるのなら、タックスヘイブンは舛添スキャンダルの1万倍から10万倍報道することになります。タックスヘイブンの不正はそれくらい桁違いなのです。

こんな事実は私が知っているくらいですから、日本のジャーナリストだって当然知っているはずです。パラダイス文書の衝撃的ニュースも一過性で終わらせることなく、徹底して追及して、タックスヘイブンの腐敗がいかに深刻かを全世界の人に知らしめてほしいです。

なお、このブログで何度も主張している通り、タックスヘイブンを潰すためには、金銭取引の完全公開が最も確実な方法だと私は考えています。それについては、他の記事を読んでもらえると幸いです。

高齢者以上に現役の社会的弱者にも個別事情に応じた人的援助を与えるべきである

前回の記事の続きです。

高齢者天国ニッポンでは、極めて手厚い高齢者介護が行われています。それがよく分かる表を次に示します(日経新聞のHPから引用)。

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要介護1で月約15万円、要介護5になると月約35万円もの金額がたった1割の自己負担で利用できます。それ以外の9割は、税金や40才以上の保険料などの社会的負担で賄っています。

これだけの金額を費やしているので、高齢者の個別事情にも細かく対応できています。たとえば、介護保険を利用する場合、必ずケアマネージャーという「監督者」がついて、どのような介護サービスを受けさせるのが適切か、本人に代わって考えてくれます。

それは必ずしも介護対象者の利益だけを追及するわけでもありません。たとえば、掃除する身体能力はないが、部屋がどれだけ散らかっていても自分は気にならないので、掃除のヘルパーは要らない、と介護対象者が主張したとします。この場合、ケアマネージャーは本人の生活の質の向上のために部屋の掃除はするべきと判断しても、「本人の意思」を最優先させ、掃除ヘルパーは介護サービスに含めません。とはいえ、例外もあります。掃除ヘルパーの支援がないせいで、ゴミの腐臭が近所にも漂って迷惑をかけていたら、それはヘルパー支援を受ける義務が生じても仕方ないからです。それを円満に解決するため、「本人のゴミ出し身体能力」「高齢者家族の協力」「近隣の環境」「日本社会の常識」などの個別事情を細かく把握して対応するのがケアマネージャーの仕事になります。なお、ケアマネージャーの仕事はヘルパーの派遣だけでなく、訪問リハビリ、訪問看護デイケアショートステイ、特養などの全ての当該地域の介護サービスを把握して、介護保険の金額内でどうすれば高齢者にとって最適な介護サービスを提供するかを考えます。

ここまで豊富で手厚い介護サービスが存在しているので、介護保険費用は現在年間10兆円にも達しています。これは現在40兆円の公的医療費用(その6割は65才以上に費やされている)とは別枠の金額です。周知の通り、介護費用も医療費用も高齢者の増加にともなって、これからも上昇していくことが確実視されています。

これだけ高齢者の社会保障が手厚い一方で、現役世代の社会保障はあまりに貧相です。日本の生活保護支給費は約3.7兆円(2015年度厚労省発表)で、刑務所の予算は約2300億円(2015年度法務省発表)で、不登校者などを救うスクールカウンセラーの予算は約41億円(2014年度文科省発表)です。

さらに、上の費用は私が「一人の取りこぼしもない社会」で新しく提案している失業者、犯罪者などの社会的弱者への人的援助の予算にすらなっていません。

生活保護者の費用は本人に給付しているだけで、後は自己責任です。一応、生活保護担当者(保護係などと呼ばれる)は受給者につきますが、ケアマネージャーが高齢者介護費用の使い道を全て把握しているように、保護係が生活保護費の使い道を全て把握しているわけではありません。だから、生活保護受給者がパチンコをしていたら、密告すべきなどの条例ができたりします。確かに、介護サービスと違って、生活保護費は文字通り、生活に関する全ての事柄に費やされます。いくら生活保護受給者といっても、金銭の使い道を全て指定されるのは、生活保護受給者への人権侵害だとの批判はあるでしょう。

だから、使い道の全ては指定しなくても、たとえば生活保護費15万円のうち12万円は保護係が使い道を指定する、ギャンブルに費やす金額を制限する、などの規制はあってしかるべきでしょう。なにより、本人受給額を減らしてでも、本人への人的援助の予算を加えるべきだと思います。人的援助の役割は単に保護費の使い道を把握して規制するだけでなく、本人が退職した事情を親身に聞いたり、就職口を本人の代わりに探したり、職業能力をつけるための学校を紹介したり、本人の理想が高すぎたら現実を理解させたりするなど、多岐に渡ります。もちろん、そんな手厚い人的援助をしたら、生活保護予算は増えるでしょうが、社会全体への貢献で考えれば、それだけの予算をかける価値はあるはずですし、そうなるように運用できるはずです。

上記の刑務所の予算は、刑務所内で犯罪者が更生するための費用です。私の提案する新しい犯罪者への人的援助の予算は、刑務所から出た後の犯罪者が社会復帰するための人的援助の費用、あるいは刑務所に入らない程度の軽犯罪者が再犯しないための人的援助の費用です。軽犯罪といっても、駐車違反程度で人的援助が入っていたら無駄な予算になるでしょうが、窃盗くらいになると人的援助は入った方がいいと私は思います。

上記のスクールカウンセラーの予算は明らかに不足しています。スクールカウンセラーの担当業務は不登校、いじめ、非行、家庭問題なども含まれます。不登校者だけを処理する予算でも現状では足りないでしょう。

話を介護保険に戻します。要介護5といえば、まともに意思疎通ができず、自分で歩くことは当然できず、トイレまで行けないのでオムツ使用で、口からの食事も難しい方です。そんな方の介護には月35万円もの金額が必要だと、日本が事実上の公的判断を出していることは、国内的にも国際的にも広報すべきではないでしょうか。

その事実をどう考えるかは人によって違うでしょう。「そんな高額費用がかかるくらい、人間の最期の介護は大変だ」、「そんな負担の多い介護を家族だけに任せるわけにはいかない」、「さすが高齢化先進国ニッポン! 最期の最期まで介護を提供している!」と考える人もいるかもしれません。しかし、日本社会全体で考えていれば、「自力で意思疎通も移動もトイレも食事できない人の介護に月35万円もかける金があれば、他に回すべきだ」という結論になったと私は推定します。特に、日本以外の国だったら、高齢者も含めて、ほぼ全員がそんな結論に到達すると確信します。終末期医療については、また別の記事で論じるつもりですが、社会負担を考慮するまでもなく、本人のためにすらならない過剰医療まで日本では行われていたりします。

現状の日本で介護の個別事情が世界一きめ細かく考慮されていると同じくらい、不登校者、失業者、犯罪者などの社会的弱者の個別事情を考慮して、人的援助を与えるべきだと考えます。ここでは簡単に書いていますが、それがいかに大変かは私も少しは理解しているつもりです。刑務所に入るほどの犯罪者の社会復帰なんて、それこそ月35万円程度の人的援助が1年以上必要かもしれません。どこまでどのように援助すべきかについて詳しくここでは論じませんが、身体能力の落ちた高齢者にも同じ費用をかけているのですから、犯罪者の更生にもそれくらいお金をかけるべきだ、と考える日本人が増えてくれることを願っています。

一人の取りこぼしもない社会

高度経済成長期の日本にはコミュニティが溢れていました。地域ごとのコミュニティ、学校ごとのコミュニティ、会社ごとのコミュニティ、趣味のコミュニティ、親同士のコミュニティがほぼ必ず存在して、自動的に助け合いが行われていました。自治会、PTAなどの規約の定められたコミュニティもあれば、単なる近所づきあいのコミュニティもありました。大抵、一人で複数のコミュニティに属しており、赤ちゃんから高齢者まで、コミュニティに属していない人間など一人もいませんでした。例として、会社ごとのコミュニティを考えても、今と比較にならないほど結びつきが強く、社内旅行や社内運動会などが自主的に開かれて、参加者の多くは義務感でなく、本当に楽しんでいました。

上のような時代を古き良き社会と考える人は、今の日本でどれくらいの割合でいるのでしょうか。超高齢社会の日本では多数派なのかもしれません。その人たちには申し訳ありませんが、上のような「困っている人がいればみんなで助け合っていた」、「悪いことをしていれば、他人の子どもでもちゃんと叱ってあげた」という社会は、これからの日本で実現することも、理想になることもまずありません。私的な問題が私的なコミュニティで解決される社会に日本が戻ることはありえませんし、戻るべきとも私は考えません。

かといって、今後日本がアメリカのように、自己責任の社会になるべきだとも思いません。アメリカ以外の西洋の国々のように、日本は福祉国家を目指すべきだと私は考えます。これから提案するのは、西洋のどの福祉国家よりもさらに福祉を重視した「一人の取りこぼしもない社会」です。

それは、不登校者や失業者や犯罪者などの社会的弱者を金銭的援助ではなく、人的援助によって救済する社会です。この人的援助はボランティアでなく、仕事です。その仕事の報酬は政府から支給されます。社会的弱者の社会復帰を助けた場合に、そこでかかった費用を元社会的弱者に求めるのは現実的でも理想的でもないので、人的援助者の給与は税金によって賄われます。

上記のような社会的弱者の救済制度は現在の日本にもあります。ただし、そのほとんどは人的援助が不十分すぎて、「一人の取りこぼしもない」社会とはとても言えません。それが最もよく表れていると私が思うのは、日本の生活保護の捕捉率(生活保護受給資格者のうち、本当に受給している者の率)の低さです。この捕捉率は2010年の厚労省の調査で15~30%しかないと推定されており、他の研究でも2割程度になっています(https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20170630-OYTET50005/2/)。日本の生活保護捕捉率は先進国で最も低く、なぜ低いかと言うと、「親戚が面倒見るべきだから」、「車持っているほど金持ちだから」、「貯金があるから」などの理由をつけて、生活保護担当職員が支給を拒否しているからです。「親戚とは絶交している。アイツらに頼むくらいなら死んだ方がマシだ」、「今の住所だと車は生活必需品なんだ」、「貯金もあるが借金はそれ以上にある」などの事情を細かく聞いてくれたりはしません。そんな個人的な事情につきあっているほどの人手がないためです。だから、そのための人手を税金で十分に確保し、個人の細かい事情に対応します。必要な生活保護費は与えて、不要な生活保護費は支給しません。また、生活保護費を与えても与えなくても、人的援助は適切な時期まで続けます。

もちろん、こんな制度には欠点もあります。登校拒否したり、失業したりしたら、完全に一人になりたい時でも、自暴自棄になりたい時でも、自殺をしたい時でも、人的援助の公的干渉が自動的に入ってきます。被援助者がいくら自己責任で済ますと主張しても、自己責任で済ましたい合理的な事情を説明する義務は生じます。

古い世代の人は(あるいは現世代の人は)、これを統制社会と捉えて、激しく非難したりするでしょう。しかし、「完全に一人になりたい」、「自暴自棄になりたい」、「自殺をしたい」時は、普通に考えて、その人になんらかの問題があります。そのための公的な人的援助を拒否するなら、もっと問題があります。放っておいたら、本人が取り返しのつかない問題を引き起こすかもしれません。だから、被援助者が余計なお世話だと感じたとしても、被援助者がそれを拒否する事情を説明できなかったり、説明しても合理的な事情でなかったりしたら、被援助者に公的な人的援助を与えた方が社会全体の利益につながる、と私は考えます。また、全ての人の公的人的援助が社会全体の利益なるよう調整することは可能で、調整すべきです。

この記事で提案した制度の導入で、自己責任は軽減され、個別の事情は考慮され、大多数の社会的弱者は救済されるでしょう。一方、完全に自己責任で済ます自由は制限されることにもなります。

漠然とした話になっているので、次の記事に既に存在する介護保険の具体例をあげて示します。

金余り国家ニッポン

「これまでとは別次元のインフレ策」として日銀が資金供給量を急激に増加させましたが、たった2%のインフレすら起こせないままです。その理由の一つは、日本人の消費意欲の低さでしょう。消費意欲が高いはずの若者は薄給で長時間労働ですし、貯蓄も時間も十分にある高齢者は保守的で、医療と福祉以外にお金の使い道がありません。しかも、その高齢者の医療と福祉の出費ですら、莫大な税金で補助されているのですから、財政赤字にならない方がおかしいです。

現在の私たちが第二次世界大戦時の日本人を「中国との戦争が泥沼化しているのに、アメリカとも戦争するなんて、頭おかしいんじゃないか」と考えるように、財政崩壊後の日本人が今の時代を振り返ったら、「インテリたちは、高齢者ばかりが金持ちになっていることを知りながら、どうしてそれを是正しなかったんだ。頭おかしいだろう」と考えたりするに違いありません。

日本は少なくとも1980年代から、一貫して金余りが続いています。本来ならバブル崩壊時に、銀行家や預金者が少なくない損害を被るべきだったのですが、預金者の責任はもちろん、あろうことか、銀行経営者の責任すら全く追及されず、未来世代にツケを回すという最も恥ずべき現実逃避をしました。結局、バブル崩壊後も現在まで、日本の金余り状態は変わっていません。少子化と人口減少で経済成長は伸び悩む中、銀行は莫大な貯蓄額を持て余し、国債に投資して、その国債は平均1000万円以上の貯金のある高齢者の社会保障、採算を度外視した箱モノ、道路、空港などの公共事業に費やされました。

富の不公平を失くすために」で、高い税金によって、収入格差を30倍程度、資産格差を最高年収の10倍程度にするように私は提案しました。しかし、そこで徴収した税金が十分に豊かなはずの人たち(現在では高齢者)の社会保障に使われたり、非効率な公共事業に使われたりしたら、同じ墓穴を掘ることになります。

そんな失敗を避けるため、次の記事に新しい税金の使い道の一案を述べます。

富の不公平を失くすために

前回の記事に書いたように、金銭取引のネット上の完全公開が実現したら、現存する富の不公平のほとんどは解消可能なはずです。常識的に考えて、どんなに仕事の質が違うとしても、同じ社会で同じ時間働いて100倍の収入の差が出るのはおかしいです。現在の日本の4人家族なら、年収1千万でも普通に贅沢ができます。年収の格差は、たとえば300万円から9000万円までの30倍以内になるように税金を設定すべきでしょう。そのためには金融取引税、先行者利益税(現代社会では、先行した者が不公平に得をすることが多いので)などを新たに設定し、ザル法独占禁止法に変わる法律を新しく成立させるべきかもしれません。また、個人の総資産額も、たとえば9億円以内、最高年収の10倍以内までに抑制するように累進資産税などを設定すべきだと考えます。

もっとも、政治家や役人に莫大な税金の使い道を委ねるのは適切でないかもしれません。そうであるなら、蓄積した財産の使い道を個人のためではなく、社会のための投資(若者のベンチャービジネスへの投資など)に限定するものの、どの社会投資に使うかは、蓄積した本人の自由にする方法はあっていいかもしれません。当然、それが事実上個人(本人やその家族など)のために使われないよう、いくつかの規制は必要になります。

このような提案には「そんなに税金をかけたら勤労意欲が削がれる」との反論が出てきますが、そうならないように調整することは十分可能だと私は確信します。たとえば、「日本の医者はお金に無頓着である」で示した通り、日本の医師は給与よりも名誉を重んじています。どんな科でどんな働き方をしてもフルタイムであれば年収1千万円以上の収入があるなら、お金の心配などしない方が多数派だからです。給与のせいで医者の勤労意欲が下がったという話も、ほとんど聞きません(私に言わせれば、そんな人は即刻医者を辞めるべきです)。

また、「自由専門医制」や「診療報酬制度」に書いたように、日本では医者が自由に専門科を選べる独特の制度を取り入れていますが、不公平がないようにうまく調整されています。もちろん問題がないわけではありませんが、「福祉先進国・北欧は幻想である 」に示したように、最も重要な「世界最高水準の医療を国民に提供できている」のですから、政府の診療報酬改定(医師の給与にも影響を与える)により日本の医療は適切に運営できている、と思います。

もっとも医療は、事実上の公的部門で特殊です。医師に対する規制を全ての職種に当てはめるのは現実的でないでしょう。そうであるにしろ、勤労意欲を引き出す要素はお金以外にも間違いなくあります。普通に考えて、年収が毎年1億円もあったら、よほど不健全な浪費をしない限り、個人で使いきれません。それ以上の収入を求めているとしたら、個人のためでなく、他人のために使いたいからでしょう。より具体的には「人に愛されること、人にほめられること、人の役にたつこと、人から必要とされること」のために使いたいのだと推測します。これは名誉欲や虚栄心などと表現できるかもしれませんが、他人のためにお金を使って自分の幸せにつなげたいことは間違いないでしょう。だとしたら、個人で使いきれないほどの収入や資産があったなら、税金や上のような制度で社会に還元してもいいはずです。

社会全体で貧しい人がいなくなって、不幸な人もいなくなれば、富める人の幸福にも繋がります。そんな理想郷を完全に実現するのは不可能ですが、それに近づく努力はすべきです。

資本主義の矛盾は金銭取引を完全公開しないと解決しない

19世紀の資本主義勃興期のヨーロッパでは、自由と平等の名目の下で、明らかな不公平が広がっていました。大多数の下層民が1日のほとんどを労働で過ごしている間、一部の上層民が全く働かずに贅沢三昧していました。

「これでは古代の奴隷社会と同じではないか。こんな不公平がまかり通っているのに、ほとんどの民衆はどうしておかしいと気づかないのだ」

その理不尽さに気づいた少数のインテリの一人がマルクスでした。その着眼点は正しかったのですが、その解決法は間違っていました。

私有財産こそが諸悪の根源だ。計画経済で富の不平等を完全に失くす」

この原則を元にした共産主義は20世紀を大混乱に陥れました。100年間以上、十億以上もの人が上の理念を追及しましたが、結局、全て失敗しました。人間社会の経済については「原則自由にして、例外的に規則で取り締まる」方がいいと判明したと言っていいでしょう。

ただし、マルクスが注目した不公平は現在も残っています。特に投機家に極端な富が集中する制度は理不尽です。誰かの物を売ったり買ったりするだけで、その物を作った人の年収の100倍以上も稼げる経済制度は、誰が考えても間違っています。特に、そのリスクや損失すら負わないとしたら、理不尽極まりありません。しかし、現実にバブル崩壊後、日本はもちろん世界中で「責任を負わせたら社会が混乱するから」というよく分からない理屈で、その理不尽や不公平がまかり通っています。

この問題を解決するためには、情報公開しかないと私は思っています。「本当に責任を負わせたら社会が混乱するのか」、「税金で処理して、国民全員に責任を負わせるべきなのか」、「〇〇業界と××公的機関の人だけが責任を負うべきではないのか」、「その中でも、当時の上層部は全員自己破産させるまで責任を負わせるべきだろう」といった判断も、情報公開がなされていないと、不可能だからです。

その情報公開の最初の段階として、金銭取引の完全公開を提案します。あらゆる取引をオンラインで清算して、瞬時にネット上で公開する方法です。これで資本主義経済の不公平の全ては解決しないでしょうが、資本主義経済下での明らかな不公平は検証でき、是正することが可能になります。

金銭取引の完全公開改革の必要性に何十年も生きているにに気づかなかった私の愚かさに、私自身、驚いています。おそらく、100年後の10代の少年少女がこの記事を読んだら、「こんなの当たり前だろう。大げさに言うほどのことでない」と思っているはずです。

年功序列賃金制度を解体しないと日本の夜明けはない

社会経験が始めての新入社員は現場の仕事能力が、全社員で最も低くなります。この新入社員の時期に、自分より仕事能力の高い先輩への敬意と服従が要求され、確定します。先輩との上下関係は同じ会社で働いている間はもちろん、通常、退職しても終生変わりません。日本では、ほぼ同年齢の新入社員が大量に入社してくる習慣が何十年も続いてきました。だから、年長者=先輩=上位となります。

また、中学、高校で盛んなクラブ活動では、やはり年長者=先輩=上位の関係が徹底されています。古くからの儒教文化のせいもあり、社会人になる前も、なった後も年功序列は社会に蔓延しており、もはや日本の道徳となってしまっています。偉そうに批判している私も、日本にいるとこの道徳にある程度従っています。

こう考えると、年功序列の弊害を日本から消滅させるのはほぼ無理でしょう。しかし、年功序列「賃金」制度を破壊するのは、制度面の変更で可能だと私は考えています。具体的な方法は「ピーターの法則を回避するために」に書きました。

目標は、消費意欲の高い20代、30代の収入が増えて、子どものいない世帯の収入が激減して、貯金があまり残らないようにすることです。貯金だけでなく、子どもが巣立った後の高齢者だけの世帯に大きな土地建物は要らないので、土地建物資産についても社会的に公平な分配がなされるべきです。土地問題についてもいずれブログで語りたいと思いますが、大きな問題の一つが「高齢者への土地建物資産の集中」であることは同じでしょう。

相手の気持ちを最優先する日本と道徳を最優先する西洋

日本人のコミュニケーションで最優先されるのは、相手の気持ちを傷つけないことです。自分の意見を言うことは重要でありませんし、正しい意見を言う必要も全くありません。それでは意思疎通の本来の目的が達成されないかもしれませんが、相手を傷つけるくらいなら、そんなことはどうでもいいのです。相手を傷つけてしまうと、相手がこちらに攻撃的になり、こちらも傷ついてしまうかもしれませんから。

たとえば、「中国人は声が大きくて嫌いだ」と相手が感情的に言ってきたら、たとえそう思っていなくても、「そうねえ」と返すのが日本での模範解答です。最悪の返答は「あなたは人種差別主義者なのか!」と批判することです。まず、言い争いになってしまいますから。

一方、西洋では、その最悪の返答が最高の返答になります。というより、それ以外の返答をしたら、人間として許されません。西洋では、道徳が最優先されます。それに反したことを言うと、普通の日本人(女性)ならまず経験しないほど、人格を徹底的に非難されます。

こう書くと、西洋人が道徳を重視する素晴らしい人たちで、日本人は上辺だけの付き合いしかしない下劣な人たちのようです。しかし、道徳や倫理を重視する西洋人よりも、相手の気持ちを尊重する日本人の方が好ましい時はあるはずです。道徳や倫理ばかり重視すると、人間集団がおかしな方向に進んでしまうからです。

第二次大戦時の日本は、人の命よりも国体を重視したために、いまだに消えないほどの汚点を日本だけでなく、アジア中に残してしまいました。その他、文化大革命、冷戦、イスラム戦士たちによる自爆テロなど、自分のたちの信じる道徳や倫理を重視しすぎたために起こった多くの悲劇がありました。それは今もありますし、これからもあるでしょう。しかし、それら全ての道徳や倫理が、それぞれの大きな社会的悲劇を生むほどの重要な問題だったのでしょうか。日本人的な観点からすれば、そんなはずはないでしょう。

道徳や倫理は確かに重要な問題ではありますが、いつも最優先されるのは間違っています。それこそ殺し合いになるまで対立を深める必要は大抵ないはずです。第二次大戦や全共闘などの失敗から、日本人はそんなことを学んできたのかもしれません。だから、道徳よりも和を求めてしまうのでしょう。

日本の医者はお金に無頓着である

診療報酬制度」の記事で、白内障手術の診療報酬を激減させたことに、良心的な眼科医は不平を言っていない、と書きました。その一番の理由は、白内障手術の診療報酬の激減前も後も、病院内での眼科医の給料は変わっていないからです。

そもそも、医者の給料はどのように変化するのでしょうか。私の知る限りでいえば、専門医をとる7年目から10年目までは順調に給与は上がります。そこからは伸び悩んで、部長や院長クラスになって手当がつくと、上がる程度です。都会よりは田舎の方が高収入で、病院勤務医より開業医の方が高収入です。以前の記事に書いた通り、同じ病院なら、科によらず給与は原則同じです。

ただし、良くも悪くも、日本の医者はお金に無頓着です。日本の医者社会では「出世=お金持ち」という発想が皆無です。「白い巨塔」などで知られているように、日本の医者ヒエラルキーのトップは医学部教授です。教授>准教授>講師>助教>医局員と縦社会になっており、日本の医者人生はこの医局村社会で完結しています。「隣の医局は外国より遠い」という言葉がある通り、自分の専門科以外については、その診断法も、その給料もあまり知りません。医局での出世競争に疲れたら開業医になったりしますが、たとえ給与が高くても、開業医は勤務医より格下です。

日本の医者が給料よりも名誉を求めるのは、どんな専門、どんな病院で働くにしても、医者である以上、生きていくだけに十分な収入が得られることは大きいでしょう。また、だからこそ、楽な眼科や皮膚科ではなく、大変な心臓外科を目指す医者が自然に出てくるのだと思います。給料が同じなら、楽な科に進もう、という医者は日本で一般的ではありません。むしろ、日本の医者はやりがいのある、自分に適した専門を選んでいるようです。医者が希望通りに専門を決めても、日本の医療が上手く回っているのは、「診療報酬制度」の記事に示したように、厚生労働省の診療報酬の調整にも原因がありますが、医者がお金の心配をしなくてもよかったことにも原因があるでしょう。

診療報酬制度

日本の皆保険制度では、ほぼ全ての病院、ほぼ全てのクリニックが厚生労働省の定める診療報酬制度に従って収入を得ています。血液検査などの各種検査の費用、肺炎などでの各種入院費用、虫垂炎などの各手術の費用は、全国一律で決まっています。病院によって、あるいは、医者によって、その費用が変わることはありません。その診療報酬は2年ごとに改訂されます。

5年くらい前でしょうか。科別に計算すると、ほとんどの病院で眼科が一番利益を出していた時代があります。眼科専門医は引く手あまたでしたし、開業した眼科医も少なくありませんでした。眼科医が儲かった理由は、白内障手術の件数が増加したからです。白内障高齢になれば必ず罹患して、短時間の手術で簡単に治ります。

これでは不公平と考えた厚生労働省は、白内障手術の診療報酬を一気に下げます。こんな単純な方法ですが、眼科医が引く手あまたの時代、眼科医の開業が増える時代は、あっさり終わりました。今でも日本眼科学会はこの診療報酬改定に不満を表明しているようですが、私の知る多くの良心的な眼科医は「確かに簡単な手術だし、それは仕方ないだろう」と言っています。ちなみに、白内障手術件数はその手術報酬が減った後も増加しています。

また、最近の診療報酬では、訪問診療に高い点数(=報酬)をつけています。日本では病院で亡くなる人の割合が非常に多いのですが、このまま高齢者が増えると、外国と比べて多い日本の病院ベッド数でも、足りなくなってしまいます。自宅で最期を迎えられるように、訪問診療する医師を増やしたいので、厚生労働省は、その診療報酬を上げているわけです。そして、診療報酬増加の通りに、訪問診療する医師が増えています。

ただし、この訪問診療の優遇策はいつまでも続かない、と良心的な訪問診療医は予想しています。これまでも、厚生労働省は足りない医療の診療報酬を上げて、その医療が充足してくると、その診療報酬を下げる、という手法を取ってきました。その政策を、金儲けしか考えない医者は「ハシゴをはずされた」と不満を言ったりしますが、良心的な医者は最初からその流れを見越していますし、診療報酬引き下げに不満を言うこともありません。

このように、専門によって不公平がないように、また、必要な医療を増やし無駄な医療を減らすように、厚生労働省は診療報酬を改定して調整しています。

診療報酬制度には医者の技量によって報酬が変わらないなどのデメリットもあるのですが、メリットも確実にあることは注目すべきでしょう。

自由専門医制

オーストラリアの医学生が脳外科医志望だと自慢気に言いました。日本人医学生は総合診療医志望だと言うと、オーストラリアの医学生は驚いています。

「なぜ総合医志望なの? せめて内科医を目指したら?」

医者社会では、総合医<内科医<外科医というヒエラルキー(上下関係)があります。これは世界共通です。そして一般に、総合医<内科医<外科医の順に、専門医になるのが難しくなります。日本人医学生がオーストラリア医学生に返答します。

「日本では、医者なら誰でも脳外科医になれる。オーストラリアみたいに、優秀な医学生や医師だけが脳外科医になれるわけではないんだよ」

「え! それなら、みんな脳外科医になっちゃうでしょ」

それは事実です。実際、日本の脳外科医の数は、3倍の人口のいるアメリカの脳外科医の数の2倍近くもいます。ただし、当時、この日本人医学生はその事実まで把握していませんでした。だから、知る範囲で、こう答えました。

「そうでもないんだよ。日本では、オーストラリアみたいに、脳外科医の給料が高くない。日本は専門によらず、医者の給与は同じだから。医者が自分の希望で専門を選んでも、うまく回っているんだよね」

オーストラリアの医学生は目を丸くしていました。不思議の国ニッポンの医者社会が理解不能に陥ったようです。確かに、日本の医者社会は、欧米の一般的な医者社会と比べると、大きく異なっています。

まず、医者が自由に専門を選べる制度は、他の国ではありません。なぜなら、ある地域である疾患が起こる数は、統計によって求められるからです。たとえば、日本の肺がん手術件数は年間6万件程度らしいですが、統計から毎年2千件程度増えていることまで分かっています。そういった各手術の数などから、呼吸器外科医の必要数、脳外科医の必要数は自動的に求められ、国によって各専門医の数が規制されるのが普通です。しかし、日本にはそんな規制がありません。医者が希望すれば、どんな専門の医者にもなれます。

だから、脳外科医が人口比でアメリカの5倍もいたりします。もちろん、日本人がアメリカ人の5倍も脳腫瘍などになりやすいわけではありません。にもかかわらず、日本の脳外科医が暇にならないのは、日本の脳外科医は手術以外の仕事も多く処理しているからです。他国では、神経内科医や他の内科医が担っている術前管理や術後管理、または手術しないが脳梗塞になった人の治療を、日本では脳外科医が担うようになっているのです。

同様に、日本は他国と比べて、総合医が極端に少ないのですが、それでも回っているのは、内科医(多くは呼吸器内科や循環器内科や内分泌内科などの専門医を持っている)が、海外での総合医的な仕事をしているからです。

これらの例のように、各専門医が日本の医療で足りないところを自主的に補って、全体としては上手く回っているのです。

とはいえ、完全に無秩序になってもおかしくなかったのに、たまたま上手くいっているわけではありません。それを長年巧みに調整してきたのは、厚生労働省による診療報酬制度の改定です。次の記事で、診療報酬制度による調整について書きます。

 

※注意 日本の専門医は公的資格ではなく、各学会が勝手に基準を作った資格です。だから、現在の日本の専門医は公的になんの力もありません。実際、脳外科専門医をとらなくても、脳外科医と名乗ることは可能で、合法です(もっとも、経験なしの脳外科医に手術させる病院は存在しないでしょうが)。ただし、来年に新専門医制度が導入されると、19の専門医は公的資格になるようで、自由に専門医を標榜することは違法になるようです。今後、医者が自分の希望だけで専門医を選ぶことも事実上制限されるようです。