未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

一人の取りこぼしもない社会

高度経済成長期の日本にはコミュニティが溢れていました。地域ごとのコミュニティ、学校ごとのコミュニティ、会社ごとのコミュニティ、趣味のコミュニティ、親同士のコミュニティがほぼ必ず存在して、自動的に助け合いが行われていました。自治会、PTAなどの規約の定められたコミュニティもあれば、単なる近所づきあいのコミュニティもありました。大抵、一人で複数のコミュニティに属しており、赤ちゃんから高齢者まで、コミュニティに属していない人間など一人もいませんでした。例として、会社ごとのコミュニティを考えても、今と比較にならないほど結びつきが強く、社内旅行や社内運動会などが自主的に開かれて、参加者の多くは義務感でなく、本当に楽しんでいました。

上のような時代を古き良き社会と考える人は、今の日本でどれくらいの割合でいるのでしょうか。超高齢社会の日本では多数派なのかもしれません。その人たちには申し訳ありませんが、上のような「困っている人がいればみんなで助け合っていた」、「悪いことをしていれば、他人の子どもでもちゃんと叱ってあげた」という社会は、これからの日本で実現することも、理想になることもまずありません。私的な問題が私的なコミュニティで解決される社会に日本が戻ることはありえませんし、戻るべきとも私は考えません。

かといって、今後日本がアメリカのように、自己責任の社会になるべきだとも思いません。アメリカ以外の西洋の国々のように、日本は福祉国家を目指すべきだと私は考えます。これから提案するのは、西洋のどの福祉国家よりもさらに福祉を重視した「一人の取りこぼしもない社会」です。

それは、不登校者や失業者や犯罪者などの社会的弱者を金銭的援助ではなく、人的援助によって救済する社会です。この人的援助はボランティアでなく、仕事です。その仕事の報酬は政府から支給されます。社会的弱者の社会復帰を助けた場合に、そこでかかった費用を元社会的弱者に求めるのは現実的でも理想的でもないので、人的援助者の給与は税金によって賄われます。

上記のような社会的弱者の救済制度は現在の日本にもあります。ただし、そのほとんどは人的援助が不十分すぎて、「一人の取りこぼしもない」社会とはとても言えません。それが最もよく表れていると私が思うのは、日本の生活保護の捕捉率(生活保護受給資格者のうち、本当に受給している者の率)の低さです。この捕捉率は2010年の厚労省の調査で15~30%しかないと推定されており、他の研究でも2割程度になっています(https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20170630-OYTET50005/2/)。日本の生活保護捕捉率は先進国で最も低く、なぜ低いかと言うと、「親戚が面倒見るべきだから」、「車持っているほど金持ちだから」、「貯金があるから」などの理由をつけて、生活保護担当職員が支給を拒否しているからです。「親戚とは絶交している。アイツらに頼むくらいなら死んだ方がマシだ」、「今の住所だと車は生活必需品なんだ」、「貯金もあるが借金はそれ以上にある」などの事情を細かく聞いてくれたりはしません。そんな個人的な事情につきあっているほどの人手がないためです。だから、そのための人手を税金で十分に確保し、個人の細かい事情に対応します。必要な生活保護費は与えて、不要な生活保護費は支給しません。また、生活保護費を与えても与えなくても、人的援助は適切な時期まで続けます。

もちろん、こんな制度には欠点もあります。登校拒否したり、失業したりしたら、完全に一人になりたい時でも、自暴自棄になりたい時でも、自殺をしたい時でも、人的援助の公的干渉が自動的に入ってきます。被援助者がいくら自己責任で済ますと主張しても、自己責任で済ましたい合理的な事情を説明する義務は生じます。

古い世代の人は(あるいは現世代の人は)、これを統制社会と捉えて、激しく非難したりするでしょう。しかし、「完全に一人になりたい」、「自暴自棄になりたい」、「自殺をしたい」時は、普通に考えて、その人になんらかの問題があります。そのための公的な人的援助を拒否するなら、もっと問題があります。放っておいたら、本人が取り返しのつかない問題を引き起こすかもしれません。だから、被援助者が余計なお世話だと感じたとしても、被援助者がそれを拒否する事情を説明できなかったり、説明しても合理的な事情でなかったりしたら、被援助者に公的な人的援助を与えた方が社会全体の利益につながる、と私は考えます。また、全ての人の公的人的援助が社会全体の利益なるよう調整することは可能で、調整すべきです。

この記事で提案した制度の導入で、自己責任は軽減され、個別の事情は考慮され、大多数の社会的弱者は救済されるでしょう。一方、完全に自己責任で済ます自由は制限されることにもなります。

漠然とした話になっているので、次の記事に既に存在する介護保険の具体例をあげて示します。

金余り国家ニッポン

「これまでとは別次元のインフレ策」として日銀が資金供給量を急激に増加させましたが、たった2%のインフレすら起こせないままです。その理由の一つは、日本人の消費意欲の低さでしょう。消費意欲が高いはずの若者は薄給で長時間労働ですし、貯蓄も時間も十分にある高齢者は保守的で、医療と福祉以外にお金の使い道がありません。しかも、その高齢者の医療と福祉の出費ですら、莫大な税金で補助されているのですから、財政赤字にならない方がおかしいです。

現在の私たちが第二次世界大戦時の日本人を「中国との戦争が泥沼化しているのに、アメリカとも戦争するなんて、頭おかしいんじゃないか」と考えるように、財政崩壊後の日本人が今の時代を振り返ったら、「インテリたちは、高齢者ばかりが金持ちになっていることを知りながら、どうしてそれを是正しなかったんだ。頭おかしいだろう」と考えたりするに違いありません。

日本は少なくとも1980年代から、一貫して金余りが続いています。本来ならバブル崩壊時に、銀行家や預金者が少なくない損害を被るべきだったのですが、預金者の責任はもちろん、あろうことか、銀行経営者の責任すら全く追及されず、未来世代にツケを回すという最も恥ずべき現実逃避をしました。結局、バブル崩壊後も現在まで、日本の金余り状態は変わっていません。少子化と人口減少で経済成長は伸び悩む中、銀行は莫大な貯蓄額を持て余し、国債に投資して、その国債は平均1000万円以上の貯金のある高齢者の社会保障、採算を度外視した箱モノ、道路、空港などの公共事業に費やされました。

富の不公平を失くすために」で、高い税金によって、収入格差を30倍程度、資産格差を最高年収の10倍程度にするように私は提案しました。しかし、そこで徴収した税金が十分に豊かなはずの人たち(現在では高齢者)の社会保障に使われたり、非効率な公共事業に使われたりしたら、同じ墓穴を掘ることになります。

そんな失敗を避けるため、次の記事に新しい税金の使い道の一案を述べます。

富の不公平を失くすために

前回の記事に書いたように、金銭取引のネット上の完全公開が実現したら、現存する富の不公平のほとんどは解消可能なはずです。常識的に考えて、どんなに仕事の質が違うとしても、同じ社会で同じ時間働いて100倍の収入の差が出るのはおかしいです。現在の日本の4人家族なら、年収1千万でも普通に贅沢ができます。年収の格差は、たとえば300万円から9000万円までの30倍以内になるように税金を設定すべきでしょう。そのためには金融取引税、先行者利益税(現代社会では、先行した者が不公平に得をすることが多いので)などを新たに設定し、ザル法独占禁止法に変わる法律を新しく成立させるべきかもしれません。また、個人の総資産額も、たとえば9億円以内、最高年収の10倍以内までに抑制するように累進資産税などを設定すべきだと考えます。

もっとも、政治家や役人に莫大な税金の使い道を委ねるのは適切でないかもしれません。そうであるなら、蓄積した財産の使い道を個人のためではなく、社会のための投資(若者のベンチャービジネスへの投資など)に限定するものの、どの社会投資に使うかは、蓄積した本人の自由にする方法はあっていいかもしれません。当然、それが事実上個人(本人やその家族など)のために使われないよう、いくつかの規制は必要になります。

このような提案には「そんなに税金をかけたら勤労意欲が削がれる」との反論が出てきますが、そうならないように調整することは十分可能だと私は確信します。たとえば、「日本の医者はお金に無頓着である」で示した通り、日本の医師は給与よりも名誉を重んじています。どんな科でどんな働き方をしてもフルタイムであれば年収1千万円以上の収入があるなら、お金の心配などしない方が多数派だからです。給与のせいで医者の勤労意欲が下がったという話も、ほとんど聞きません(私に言わせれば、そんな人は即刻医者を辞めるべきです)。

また、「自由専門医制」や「診療報酬制度」に書いたように、日本では医者が自由に専門科を選べる独特の制度を取り入れていますが、不公平がないようにうまく調整されています。もちろん問題がないわけではありませんが、「福祉先進国・北欧は幻想である 」に示したように、最も重要な「世界最高水準の医療を国民に提供できている」のですから、政府の診療報酬改定(医師の給与にも影響を与える)により日本の医療は適切に運営できている、と思います。

もっとも医療は、事実上の公的部門で特殊です。医師に対する規制を全ての職種に当てはめるのは現実的でないでしょう。そうであるにしろ、勤労意欲を引き出す要素はお金以外にも間違いなくあります。普通に考えて、年収が毎年1億円もあったら、よほど不健全な浪費をしない限り、個人で使いきれません。それ以上の収入を求めているとしたら、個人のためでなく、他人のために使いたいからでしょう。より具体的には「人に愛されること、人にほめられること、人の役にたつこと、人から必要とされること」のために使いたいのだと推測します。これは名誉欲や虚栄心などと表現できるかもしれませんが、他人のためにお金を使って自分の幸せにつなげたいことは間違いないでしょう。だとしたら、個人で使いきれないほどの収入や資産があったなら、税金や上のような制度で社会に還元してもいいはずです。

社会全体で貧しい人がいなくなって、不幸な人もいなくなれば、富める人の幸福にも繋がります。そんな理想郷を完全に実現するのは不可能ですが、それに近づく努力はすべきです。

資本主義の矛盾は金銭取引を完全公開しないと解決しない

19世紀の資本主義勃興期のヨーロッパでは、自由と平等の名目の下で、明らかな不公平が広がっていました。大多数の下層民が1日のほとんどを労働で過ごしている間、一部の上層民が全く働かずに贅沢三昧していました。

「これでは古代の奴隷社会と同じではないか。こんな不公平がまかり通っているのに、ほとんどの民衆はどうしておかしいと気づかないのだ」

その理不尽さに気づいた少数のインテリの一人がマルクスでした。その着眼点は正しかったのですが、その解決法は間違っていました。

私有財産こそが諸悪の根源だ。計画経済で富の不平等を完全に失くす」

この原則を元にした共産主義は20世紀を大混乱に陥れました。100年間以上、十億以上もの人が上の理念を追及しましたが、結局、全て失敗しました。人間社会の経済については「原則自由にして、例外的に規則で取り締まる」方がいいと判明したと言っていいでしょう。

ただし、マルクスが注目した不公平は現在も残っています。特に投機家に極端な富が集中する制度は理不尽です。誰かの物を売ったり買ったりするだけで、その物を作った人の年収の100倍以上も稼げる経済制度は、誰が考えても間違っています。特に、そのリスクや損失すら負わないとしたら、理不尽極まりありません。しかし、現実にバブル崩壊後、日本はもちろん世界中で「責任を負わせたら社会が混乱するから」というよく分からない理屈で、その理不尽や不公平がまかり通っています。

この問題を解決するためには、情報公開しかないと私は思っています。「本当に責任を負わせたら社会が混乱するのか」、「税金で処理して、国民全員に責任を負わせるべきなのか」、「〇〇業界と××公的機関の人だけが責任を負うべきではないのか」、「その中でも、当時の上層部は全員自己破産させるまで責任を負わせるべきだろう」といった判断も、情報公開がなされていないと、不可能だからです。

その情報公開の最初の段階として、金銭取引の完全公開を提案します。あらゆる取引をオンラインで清算して、瞬時にネット上で公開する方法です。これで資本主義経済の不公平の全ては解決しないでしょうが、資本主義経済下での明らかな不公平は検証でき、是正することが可能になります。

金銭取引の完全公開改革の必要性に何十年も生きているにに気づかなかった私の愚かさに、私自身、驚いています。おそらく、100年後の10代の少年少女がこの記事を読んだら、「こんなの当たり前だろう。大げさに言うほどのことでない」と思っているはずです。

年功序列賃金制度を解体しないと日本の夜明けはない

社会経験が始めての新入社員は現場の仕事能力が、全社員で最も低くなります。この新入社員の時期に、自分より仕事能力の高い先輩への敬意と服従が要求され、確定します。先輩との上下関係は同じ会社で働いている間はもちろん、通常、退職しても終生変わりません。日本では、ほぼ同年齢の新入社員が大量に入社してくる習慣が何十年も続いてきました。だから、年長者=先輩=上位となります。

また、中学、高校で盛んなクラブ活動では、やはり年長者=先輩=上位の関係が徹底されています。古くからの儒教文化のせいもあり、社会人になる前も、なった後も年功序列は社会に蔓延しており、もはや日本の道徳となってしまっています。偉そうに批判している私も、日本にいるとこの道徳にある程度従っています。

こう考えると、年功序列の弊害を日本から消滅させるのはほぼ無理でしょう。しかし、年功序列「賃金」制度を破壊するのは、制度面の変更で可能だと私は考えています。具体的な方法は「ピーターの法則を回避するために」に書きました。

目標は、消費意欲の高い20代、30代の収入が増えて、子どものいない世帯の収入が激減して、貯金があまり残らないようにすることです。貯金だけでなく、子どもが巣立った後の高齢者だけの世帯に大きな土地建物は要らないので、土地建物資産についても社会的に公平な分配がなされるべきです。土地問題についてもいずれブログで語りたいと思いますが、大きな問題の一つが「高齢者への土地建物資産の集中」であることは同じでしょう。

相手の気持ちを最優先する日本と道徳を最優先する西洋

日本人のコミュニケーションで最優先されるのは、相手の気持ちを傷つけないことです。自分の意見を言うことは重要でありませんし、正しい意見を言う必要も全くありません。それでは意思疎通の本来の目的が達成されないかもしれませんが、相手を傷つけるくらいなら、そんなことはどうでもいいのです。相手を傷つけてしまうと、相手がこちらに攻撃的になり、こちらも傷ついてしまうかもしれませんから。

たとえば、「中国人は声が大きくて嫌いだ」と相手が感情的に言ってきたら、たとえそう思っていなくても、「そうねえ」と返すのが日本での模範解答です。最悪の返答は「あなたは人種差別主義者なのか!」と批判することです。まず、言い争いになってしまいますから。

一方、西洋では、その最悪の返答が最高の返答になります。というより、それ以外の返答をしたら、人間として許されません。西洋では、道徳が最優先されます。それに反したことを言うと、普通の日本人(女性)ならまず経験しないほど、人格を徹底的に非難されます。

こう書くと、西洋人が道徳を重視する素晴らしい人たちで、日本人は上辺だけの付き合いしかしない下劣な人たちのようです。しかし、道徳や倫理を重視する西洋人よりも、相手の気持ちを尊重する日本人の方が好ましい時はあるはずです。道徳や倫理ばかり重視すると、人間集団がおかしな方向に進んでしまうからです。

第二次大戦時の日本は、人の命よりも国体を重視したために、いまだに消えないほどの汚点を日本だけでなく、アジア中に残してしまいました。その他、文化大革命、冷戦、イスラム戦士たちによる自爆テロなど、自分のたちの信じる道徳や倫理を重視しすぎたために起こった多くの悲劇がありました。それは今もありますし、これからもあるでしょう。しかし、それら全ての道徳や倫理が、それぞれの大きな社会的悲劇を生むほどの重要な問題だったのでしょうか。日本人的な観点からすれば、そんなはずはないでしょう。

道徳や倫理は確かに重要な問題ではありますが、いつも最優先されるのは間違っています。それこそ殺し合いになるまで対立を深める必要は大抵ないはずです。第二次大戦や全共闘などの失敗から、日本人はそんなことを学んできたのかもしれません。だから、道徳よりも和を求めてしまうのでしょう。

日本の医者はお金に無頓着である

診療報酬制度」の記事で、白内障手術の診療報酬を激減させたことに、良心的な眼科医は不平を言っていない、と書きました。その一番の理由は、白内障手術の診療報酬の激減前も後も、病院内での眼科医の給料は変わっていないからです。

そもそも、医者の給料はどのように変化するのでしょうか。私の知る限りでいえば、専門医をとる7年目から10年目までは順調に給与は上がります。そこからは伸び悩んで、部長や院長クラスになって手当がつくと、上がる程度です。都会よりは田舎の方が高収入で、病院勤務医より開業医の方が高収入です。以前の記事に書いた通り、同じ病院なら、科によらず給与は原則同じです。

ただし、良くも悪くも、日本の医者はお金に無頓着です。日本の医者社会では「出世=お金持ち」という発想が皆無です。「白い巨塔」などで知られているように、日本の医者ヒエラルキーのトップは医学部教授です。教授>准教授>講師>助教>医局員と縦社会になっており、日本の医者人生はこの医局村社会で完結しています。「隣の医局は外国より遠い」という言葉がある通り、自分の専門科以外については、その診断法も、その給料もあまり知りません。医局での出世競争に疲れたら開業医になったりしますが、たとえ給与が高くても、開業医は勤務医より格下です。

日本の医者が給料よりも名誉を求めるのは、どんな専門、どんな病院で働くにしても、医者である以上、生きていくだけに十分な収入が得られることは大きいでしょう。また、だからこそ、楽な眼科や皮膚科ではなく、大変な心臓外科を目指す医者が自然に出てくるのだと思います。給料が同じなら、楽な科に進もう、という医者は日本で一般的ではありません。むしろ、日本の医者はやりがいのある、自分に適した専門を選んでいるようです。医者が希望通りに専門を決めても、日本の医療が上手く回っているのは、「診療報酬制度」の記事に示したように、厚生労働省の診療報酬の調整にも原因がありますが、医者がお金の心配をしなくてもよかったことにも原因があるでしょう。

診療報酬制度

日本の皆保険制度では、ほぼ全ての病院、ほぼ全てのクリニックが厚生労働省の定める診療報酬制度に従って収入を得ています。血液検査などの各種検査の費用、肺炎などでの各種入院費用、虫垂炎などの各手術の費用は、全国一律で決まっています。病院によって、あるいは、医者によって、その費用が変わることはありません。その診療報酬は2年ごとに改訂されます。

5年くらい前でしょうか。科別に計算すると、ほとんどの病院で眼科が一番利益を出していた時代があります。眼科専門医は引く手あまたでしたし、開業した眼科医も少なくありませんでした。眼科医が儲かった理由は、白内障手術の件数が増加したからです。白内障高齢になれば必ず罹患して、短時間の手術で簡単に治ります。

これでは不公平と考えた厚生労働省は、白内障手術の診療報酬を一気に下げます。こんな単純な方法ですが、眼科医が引く手あまたの時代、眼科医の開業が増える時代は、あっさり終わりました。今でも日本眼科学会はこの診療報酬改定に不満を表明しているようですが、私の知る多くの良心的な眼科医は「確かに簡単な手術だし、それは仕方ないだろう」と言っています。ちなみに、白内障手術件数はその手術報酬が減った後も増加しています。

また、最近の診療報酬では、訪問診療に高い点数(=報酬)をつけています。日本では病院で亡くなる人の割合が非常に多いのですが、このまま高齢者が増えると、外国と比べて多い日本の病院ベッド数でも、足りなくなってしまいます。自宅で最期を迎えられるように、訪問診療する医師を増やしたいので、厚生労働省は、その診療報酬を上げているわけです。そして、診療報酬増加の通りに、訪問診療する医師が増えています。

ただし、この訪問診療の優遇策はいつまでも続かない、と良心的な訪問診療医は予想しています。これまでも、厚生労働省は足りない医療の診療報酬を上げて、その医療が充足してくると、その診療報酬を下げる、という手法を取ってきました。その政策を、金儲けしか考えない医者は「ハシゴをはずされた」と不満を言ったりしますが、良心的な医者は最初からその流れを見越していますし、診療報酬引き下げに不満を言うこともありません。

このように、専門によって不公平がないように、また、必要な医療を増やし無駄な医療を減らすように、厚生労働省は診療報酬を改定して調整しています。

診療報酬制度には医者の技量によって報酬が変わらないなどのデメリットもあるのですが、メリットも確実にあることは注目すべきでしょう。

自由専門医制

オーストラリアの医学生が脳外科医志望だと自慢気に言いました。日本人医学生は総合診療医志望だと言うと、オーストラリアの医学生は驚いています。

「なぜ総合医志望なの? せめて内科医を目指したら?」

医者社会では、総合医<内科医<外科医というヒエラルキー(上下関係)があります。これは世界共通です。そして一般に、総合医<内科医<外科医の順に、専門医になるのが難しくなります。日本人医学生がオーストラリア医学生に返答します。

「日本では、医者なら誰でも脳外科医になれる。オーストラリアみたいに、優秀な医学生や医師だけが脳外科医になれるわけではないんだよ」

「え! それなら、みんな脳外科医になっちゃうでしょ」

それは事実です。実際、日本の脳外科医の数は、3倍の人口のいるアメリカの脳外科医の数の2倍近くもいます。ただし、当時、この日本人医学生はその事実まで把握していませんでした。だから、知る範囲で、こう答えました。

「そうでもないんだよ。日本では、オーストラリアみたいに、脳外科医の給料が高くない。日本は専門によらず、医者の給与は同じだから。医者が自分の希望で専門を選んでも、うまく回っているんだよね」

オーストラリアの医学生は目を丸くしていました。不思議の国ニッポンの医者社会が理解不能に陥ったようです。確かに、日本の医者社会は、欧米の一般的な医者社会と比べると、大きく異なっています。

まず、医者が自由に専門を選べる制度は、他の国ではありません。なぜなら、ある地域である疾患が起こる数は、統計によって求められるからです。たとえば、日本の肺がん手術件数は年間6万件程度らしいですが、統計から毎年2千件程度増えていることまで分かっています。そういった各手術の数などから、呼吸器外科医の必要数、脳外科医の必要数は自動的に求められ、国によって各専門医の数が規制されるのが普通です。しかし、日本にはそんな規制がありません。医者が希望すれば、どんな専門の医者にもなれます。

だから、脳外科医が人口比でアメリカの5倍もいたりします。もちろん、日本人がアメリカ人の5倍も脳腫瘍などになりやすいわけではありません。にもかかわらず、日本の脳外科医が暇にならないのは、日本の脳外科医は手術以外の仕事も多く処理しているからです。他国では、神経内科医や他の内科医が担っている術前管理や術後管理、または手術しないが脳梗塞になった人の治療を、日本では脳外科医が担うようになっているのです。

同様に、日本は他国と比べて、総合医が極端に少ないのですが、それでも回っているのは、内科医(多くは呼吸器内科や循環器内科や内分泌内科などの専門医を持っている)が、海外での総合医的な仕事をしているからです。

これらの例のように、各専門医が日本の医療で足りないところを自主的に補って、全体としては上手く回っているのです。

とはいえ、完全に無秩序になってもおかしくなかったのに、たまたま上手くいっているわけではありません。それを長年巧みに調整してきたのは、厚生労働省による診療報酬制度の改定です。次の記事で、診療報酬制度による調整について書きます。

 

※注意 日本の専門医は公的資格ではなく、各学会が勝手に基準を作った資格です。だから、現在の日本の専門医は公的になんの力もありません。実際、脳外科専門医をとらなくても、脳外科医と名乗ることは可能で、合法です(もっとも、経験なしの脳外科医に手術させる病院は存在しないでしょうが)。ただし、来年に新専門医制度が導入されると、19の専門医は公的資格になるようで、自由に専門医を標榜することは違法になるようです。今後、医者が自分の希望だけで専門医を選ぶことも事実上制限されるようです。

ピーターの法則を回避するために

1、ある人材が昇進できるかどうかは、現在の仕事の遂行能力に基づいて判断される。

2、ある人材は昇進後の地位での仕事の遂行能力が高いとは限らない。

3、以上から、ある人材がその組織内で昇進できる限界地位に達した時、ある人材が昇進前までに経験した全ての地位での仕事の遂行能力が高かったのに、限界点に達した地位での仕事の遂行能力が低いことになる。

4、これから、ある組織内の各地位の仕事は全て、その仕事の遂行能力の低い者たちによって処理されていることになる。

以上がピーターの法則です。もちろん、こんな単純な法則に従うほど、世の中の仕事は単純ではありません。しかし、仕事遂行能力によらず、勤続年数によって自動的に昇進が約束されている多くの日本の民間企業、公的機関では、ピーターの法則の危険性は注目に値するのではないでしょうか。

なお、ピーターの法則を回避する方法としては、次の二つがあります。

1、現在の仕事遂行能力が高い者は昇進させず、代わりに昇給させる。

2、昇進後の地位の試験訓練期間を設けて、仕事遂行能力があると認められた者だけ昇進させる。

これまでの日本の新卒一括採用制度と年功序列賃金制度の元では、一般的に新入社員は全員、各部署の最も低い地位からスタートしました。私が提案する新しい人事制度では、新入社員でも管理職から始められます。より具体的には次のような人事制度を提案します。

1、全ての地位は試験訓練期間を経験した者から選抜して採用される。

2、試験訓練期間への応募は、年齢や職種経験の有無によらず可能とする。

3、定員よりも応募者が多い場合、特別な事情がない限り、全ての応募者を試験訓練期間に登用する

単純に言えば、多くの経験者と未経験者を試験訓練期間で登用して、仕事遂行能力の高い少数を採用する制度です。

もちろん、この通りにできない地位もあるでしょうし、この通りにすれば大きな問題が出てくる地位もあるでしょう。ただし、固定観念を払拭して、十分に工夫すれば、ほとんどの職種の地位は、上の3原則通りに試験訓練期間を設けて、採用に至ることは可能だと思います。

たとえば、全ての応募者を試験訓練期間に登用したら、会社内に試験訓練期間の社員が入りきらなくなってしまう、という企業もあるでしょう。その場合、試験訓練期間中は午前勤務のみ試用社員と午後勤務のみ試用社員で分ける、曜日で出勤日を分ける、などの工夫をすれば、最低でも2倍の定員は試験訓練期間として受け入れられるはずです。

また、この通りにすれば、人気企業の人気地位には、応募者が殺到する一方で、人気のない企業の人気のない地位では、応募すれば、能力がなくても試験訓練期間を突破して、採用されることになるでしょう。そのため、能力のある人でも試験訓練期間が連続することで、人材の無駄が増えるでしょうし、特定の職種の人手不足がさらに悪化するかもしれません。ただし一方で、人材の流動性は間違いなく増えますし、こちらのブログで批判している不公平で非効率な年功序列の秩序は崩壊していくでしょう。

少なくとも、「全ての地位は下から上がってきた者だけに開かれる」習慣がなんの検証もなく浸透しすぎている日本に、上の3原則を上手く取り入れさせれば、経済効率は格段に上がると確信します。

手書きの履歴書は法律で禁止すべきである

日本で履歴書は決められた書式に、わざわざ手書きしないといけません。法律で定められているわけではないのですが、そんな習慣が常態化しています。何件も就職活動した人なら知っているでしょうが、この履歴書手書き労力はバカになりません。ほぼ全ての日本人がこの面倒な作業にうんざりしているのに、何年たってもなくなりません。私は不器用なので、書き損じたり、押印を失敗したりして、一からやり直した経験が何度もあります。

この履歴書手書き習慣は、転職者に無駄な労力をかけて、転職の機会を減らし、日本の人材流動性を妨げています。

私がカナダにいた時、「転職のために100社に履歴書を送った」という話はよく聞きました。転職活動を始めたと聞いて1週間後にそんな言葉を聞いたりした時は、「毎日徹夜で履歴書を書いたのか?」とバカな質問をしてしまいました。もちろん、カナダはそんな非効率な労力を要求する社会ではなく、履歴書のコピーを大量に郵送したり、メールで送ったりしただけです。採用側だって、それでなんの不都合もないはずです。

このままだと履歴書手書き習慣は日本からなくなりそうもないので、さっさと法律で禁止してください。

退職金制度を廃止すべきである

うつ病の症状に貧困妄想があることを知っているでしょうか。本当は貧乏ではないのに、うつ病のせいで貧乏だと思い込んで、わずかな出費さえ控える症状が出ます。私も医療職に就いているので、貧困妄想の患者さんに何名も会ったことがありますが、全員高齢者でした。「暖房費用がもったいない(からエアコン使わない)」、「バス代がもったいない(から日中歩いて熱中症になる)」といった貧困妄想は、高齢者によく出ることが分かっています。

高齢者の高い貯蓄額は日本経済の特徴ですが、それを認めて、「高齢者にお金を遣わせる市場を形成すべきだ」と本気で主張する知識人がいますが、私に言わせれば、現実的でないですし、理想的でもありません。それ以前に、高齢者ほどお金持ちにさせる制度自体がおかしい、と気づかないのが不思議でもあります。

老人天国ニッポン」の記事で、高齢者を罵倒してしまいましたが、変えるべきなのは、高齢者ではなく、日本の制度です。多くの高齢者は金持ちを目指して金持ちになったというより、気づいてみたら、莫大な貯蓄額を持っていたのでしょう。車も家も持っていて、特別ケチな生活をしていたわけでなく、中流生活を真面目に送ってきたら、1千万円以上もの資産ができてしまったのだと推測します。だから、「普通」の生活をしていれば、高齢者に莫大な資産が生じる現在の日本の制度を変更しなければなりません。

分かりやすい改革の一つは、退職金制度の廃止でしょう。日本では一般化してしまった制度ですが、高齢者の貯蓄額を高めますし、終身雇用を促進するので、人材の流動を妨げます。法律で日本の全職業から退職金制度を失くして、消費意欲のある若者たちに回すべきです。

もっとも、これだけで高齢者の高すぎる資産額の問題が解決できるわけではないので、さらなる改革案を述べていきます。

老後に1千万以上の貯蓄の必要性はないし、あるべきでもない

「老後には〇千万円の資金が必要です」という嘘広告はよくあります。これが銀行広告なら預金の宣伝として、まだ許されるのでしょうが、一流新聞の記事でも平気で同じ主張が載っていたりします(日本経済新聞2016年7月20日朝刊など)。

そんな広告を見て、一般の日本人はどう思っているのでしょうか?

(ちょっと待て。3千万円の貯金なんて、できるわけがないだろう! なに? 20%の高齢者は退職金も含めたら、それくらいの貯金があるって? アホか! 高齢者にそんな大金持たせてどうするんだ! オレオレ詐欺のカモになるだけだ!)

(そもそも、1千万以上の資金がないと、まともな老後が送れない社会だとしたら、社会保障制度に問題があると、どうして気づかないんだ! 世の中には、収入も貯金も全くない高齢者だっているんだぞ!)

こんな私みたいな感想を持つ日本人は、やはり少数派なのでしょうか。

福祉先進国・北欧は幻想である 」にも書いた通り、日本の医療・福祉は世界で最も恵まれているようです。これは収入によりません。年金をもらえない生活保護世帯であっても、世界最高水準の日本の医療・福祉を受けられます。そんなことは、医療職や福祉職に就いている人なら、全員知っているはずです。何千万円もの貯金がないと幸せな老後が送れないという広告や記事は真っ赤な嘘ですし、社会道徳的に考えて、嘘であるべきです。

 

※注意 日本の高齢者は恵まれた医療・福祉を受けられるものの、「保証人制度をなくした場合の金利上昇はいくらなのか」に書いた通り、日本は異常なほど保証人制度が浸透している国なので、保証人になってくれる親戚がいないと、引っ越しや施設入居が極めて難しくなる、などの問題が出てきます。この保証人制度のせいで、高齢者本人はもちろん、それを助ける福祉職の方も本当に苦労しています。恵まれない高齢者をさらに理不尽に苦しめているので、この保証人制度は即刻廃止すべきです。

日本式長時間労働は年功序列賃金制度により一般化した

このブログで何回か紹介している濱口桂一郎氏は「日本の雇用と中高年」 (ちくま新書)で、「日本の正社員が職種も時間も場所も無制限に働かされるようになったのはオイルショック後の低経済成長期でも雇用を維持するためだった」と述べています。海外では、開発職で雇用された人が会社の都合で営業職に回されることなどなく、その必要があるなら、開発職の社員を解雇して、新しく営業職の社員を雇うそうです。また、1日8時間労働の地元勤務で雇われている人が、不況になったからといって、1日12時間労働にさせられたり、単身赴任させたりすることも一般的でないようです。その場合、会社が解雇するか、あるいは、労働者自らが辞職するのかもしれません。

ここで「終身雇用を守るために、無制限労働を受け入れるしかなかった」と考えるのは間違いです。日本式経営で最も非効率なのは、高齢になり能力が衰えているにもかかわらず、内輪でしか通用しない権威により、年長者が大金をもらえる制度です。年長者の給与をカットすれば、つまり、年功序列賃金制度さえ止めれば、適性のない部署に配置転換したり、長時間労働や単身赴任をさせたりしなくても、雇用は守れたはずです。また、そうすれば、高齢になって体力や知力が衰えてきても、それに見合った仕事ができて、その仕事に見合った給与がもらえる公平な社会になったはずです。

しかし、日本はその方法は取らずに、無制限に働かされることを許容してまで、年功序列賃金制度を守りました。なぜでしょうか? 「日本の雇用と中高年」では、「日本だと子どもの年齢が増えるにしたがって必要な収入が増えるから」と書いています。

しかし、子どもが教育を受ける権利は本来、社会保障が担います。貧富の差に関係なく、全ての子どもに平等に与えられるべきだからです。だから、「一般家庭では子どもの年齢と共に必要な収入が増える」から「年功序列賃金制度は維持しなければならなかった」は、根本的な観点が間違っています。「年功序列賃金制度は経済的に非効率で維持できない」から「収入の少ない一般家庭には子どもの学費補助などの社会保障を充実しなければならない」と考えるべきだったのです。

人口ピラミッドが三角形だった頃の日本では、年長者ほど高給になるシステムで上手く回っていたのでしょう。多くの若年者の生み出す利益を、少数の年長者に回すことが可能だったからです。しかし、少子高齢社会になると、そのシステムを維持するのは経済的に不合理です。それでも無理に維持しようとしたので、上のように、配置転換も長時間労働も単身赴任も当たり前の社会になってしまいました。現在は、それですら維持できないので、正社員が減って、少子化が進んでいます。

本来なら、年功序列賃金制度なんて、40年以上前に経済的に非効率になっていました。少子高齢化は進み、その非効率度は増すばかりなのに、年功序列賃金制度に固執しているから、社会のいろいろなところに弊害が出ている、といいかげん日本人は気づくべきです。

これまで何十年も日本の政治家や官僚たちは、「女性の社会進出」「長時間労働の打破」「男性も子育てに関われる社会」「少子化対策」を掲げて、本気で改革しようとしてきました。しかし、上のような理屈から考えれば、年功序列賃金制度がなくならない限り、その改革はまず実現しないでしょう。

年功序列社会の根深さ

高齢者ほど貯蓄額が高い問題は、ここ最近の話ではありません。私の知る限り、バブル時代の1980年代には日本の重大な経済問題として取り上げられていました。この問題の根本原因には、日本の年功序列賃金制度があります。年次が上になるほど高賃金になりますが、高齢になるほどお金を使うわけではありません。むしろ、子どもが親元を離れたら、家計消費は減るはずなのに、それに見合うだけの賃金減少はありません。だから、高齢者ほど貯蓄額や資産額が上昇します。

また、年功序列賃金制度は、公的年金制度同様、人口ピラミッドが三角形の時はいいのですが、そうでないと維持するのは難しいです。高齢者は若者より能力が高く、価値のある仕事をしているとは限らないからです。まして、現在のように人口ピラミッドが逆三角形になってまで年功序列が一般的なのは、明らかに無理があります。

しかし、濱口桂一郎氏が「新しい労働社会」(岩波新書)などで繰り返し述べているように、日本企業を年功序列賃金制度から職務能力賃金制度に移行させようと、厚労省は何十年間も活動していますが、一向に成功していません。実際、日本を少しでも知る人なら、年功序列賃金制度の解体が容易でないことは理解できるでしょう。儒教文化、長幼の序の意識、先輩後輩の上下関係などは日本のあらゆる社会の行動規範になっていたりします。

日本人の骨の髄まで浸透した年功序列の価値観を変えるためには、制度面から大胆に変える他ないと思います。その必要性と改革案をこれからの記事に書いていきます。