未来社会の道しるべ

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自由専門医制

オーストラリアの医学生が脳外科医志望だと自慢気に言いました。日本人医学生は総合診療医志望だと言うと、オーストラリアの医学生は驚いています。

「なぜ総合医志望なの? せめて内科医を目指したら?」

医者社会では、総合医<内科医<外科医というヒエラルキー(上下関係)があります。これは世界共通です。そして一般に、総合医<内科医<外科医の順に、専門医になるのが難しくなります。日本人医学生がオーストラリア医学生に返答します。

「日本では、医者なら誰でも脳外科医になれる。オーストラリアみたいに、優秀な医学生や医師だけが脳外科医になれるわけではないんだよ」

「え! それなら、みんな脳外科医になっちゃうでしょ」

それは事実です。実際、日本の脳外科医の数は、3倍の人口のいるアメリカの脳外科医の数の2倍近くもいます。ただし、当時、この日本人医学生はその事実まで把握していませんでした。だから、知る範囲で、こう答えました。

「そうでもないんだよ。日本では、オーストラリアみたいに、脳外科医の給料が高くない。日本は専門によらず、医者の給与は同じだから。医者が自分の希望で専門を選んでも、うまく回っているんだよね」

オーストラリアの医学生は目を丸くしていました。不思議の国ニッポンの医者社会が理解不能に陥ったようです。確かに、日本の医者社会は、欧米の一般的な医者社会と比べると、大きく異なっています。

まず、医者が自由に専門を選べる制度は、他の国ではありません。なぜなら、ある地域である疾患が起こる数は、統計によって求められるからです。たとえば、日本の肺がん手術件数は年間6万件程度らしいですが、統計から毎年2千件程度増えていることまで分かっています。そういった各手術の数などから、呼吸器外科医の必要数、脳外科医の必要数は自動的に求められ、国によって各専門医の数が規制されるのが普通です。しかし、日本にはそんな規制がありません。医者が希望すれば、どんな専門の医者にもなれます。

だから、脳外科医が人口比でアメリカの5倍もいたりします。もちろん、日本人がアメリカ人の5倍も脳腫瘍などになりやすいわけではありません。にもかかわらず、日本の脳外科医が暇にならないのは、日本の脳外科医は手術以外の仕事も多く処理しているからです。他国では、神経内科医や他の内科医が担っている術前管理や術後管理、または手術しないが脳梗塞になった人の治療を、日本では脳外科医が担うようになっているのです。

同様に、日本は他国と比べて、総合医が極端に少ないのですが、それでも回っているのは、内科医(多くは呼吸器内科や循環器内科や内分泌内科などの専門医を持っている)が、海外での総合医的な仕事をしているからです。

これらの例のように、各専門医が日本の医療で足りないところを自主的に補って、全体としては上手く回っているのです。

とはいえ、完全に無秩序になってもおかしくなかったのに、たまたま上手くいっているわけではありません。それを長年巧みに調整してきたのは、厚生労働省による診療報酬制度の改定です。次の記事で、診療報酬制度による調整について書きます。

 

※注意 日本の専門医は公的資格ではなく、各学会が勝手に基準を作った資格です。だから、現在の日本の専門医は公的になんの力もありません。実際、脳外科専門医をとらなくても、脳外科医と名乗ることは可能で、合法です(もっとも、経験なしの脳外科医に手術させる病院は存在しないでしょうが)。ただし、来年に新専門医制度が導入されると、19の専門医は公的資格になるようで、自由に専門医を標榜することは違法になるようです。今後、医者が自分の希望だけで専門医を選ぶことも事実上制限されるようです。

ピーターの法則を回避するために

1、ある人材が昇進できるかどうかは、現在の仕事の遂行能力に基づいて判断される。

2、ある人材は昇進後の地位での仕事の遂行能力が高いとは限らない。

3、以上から、ある人材がその組織内で昇進できる限界地位に達した時、ある人材が昇進前までに経験した全ての地位での仕事の遂行能力が高かったのに、限界点に達した地位での仕事の遂行能力が低いことになる。

4、これから、ある組織内の各地位の仕事は全て、その仕事の遂行能力の低い者たちによって処理されていることになる。

以上がピーターの法則です。もちろん、こんな単純な法則に従うほど、世の中の仕事は単純ではありません。しかし、仕事遂行能力によらず、勤続年数によって自動的に昇進が約束されている多くの日本の民間企業、公的機関では、ピーターの法則の危険性は注目に値するのではないでしょうか。

なお、ピーターの法則を回避する方法としては、次の二つがあります。

1、現在の仕事遂行能力が高い者は昇進させず、代わりに昇給させる。

2、昇進後の地位の試験訓練期間を設けて、仕事遂行能力があると認められた者だけ昇進させる。

これまでの日本の新卒一括採用制度と年功序列賃金制度の元では、一般的に新入社員は全員、各部署の最も低い地位からスタートしました。私が提案する新しい人事制度では、新入社員でも管理職から始められます。より具体的には次のような人事制度を提案します。

1、全ての地位は試験訓練期間を経験した者から選抜して採用される。

2、試験訓練期間への応募は、年齢や職種経験の有無によらず可能とする。

3、定員よりも応募者が多い場合、特別な事情がない限り、全ての応募者を試験訓練期間に登用する

単純に言えば、多くの経験者と未経験者を試験訓練期間で登用して、仕事遂行能力の高い少数を採用する制度です。

もちろん、この通りにできない地位もあるでしょうし、この通りにすれば大きな問題が出てくる地位もあるでしょう。ただし、固定観念を払拭して、十分に工夫すれば、ほとんどの職種の地位は、上の3原則通りに試験訓練期間を設けて、採用に至ることは可能だと思います。

たとえば、全ての応募者を試験訓練期間に登用したら、会社内に試験訓練期間の社員が入りきらなくなってしまう、という企業もあるでしょう。その場合、試験訓練期間中は午前勤務のみ試用社員と午後勤務のみ試用社員で分ける、曜日で出勤日を分ける、などの工夫をすれば、最低でも2倍の定員は試験訓練期間として受け入れられるはずです。

また、この通りにすれば、人気企業の人気地位には、応募者が殺到する一方で、人気のない企業の人気のない地位では、応募すれば、能力がなくても試験訓練期間を突破して、採用されることになるでしょう。そのため、能力のある人でも試験訓練期間が連続することで、人材の無駄が増えるでしょうし、特定の職種の人手不足がさらに悪化するかもしれません。ただし一方で、人材の流動性は間違いなく増えますし、こちらのブログで批判している不公平で非効率な年功序列の秩序は崩壊していくでしょう。

少なくとも、「全ての地位は下から上がってきた者だけに開かれる」習慣がなんの検証もなく浸透しすぎている日本に、上の3原則を上手く取り入れさせれば、経済効率は格段に上がると確信します。

手書きの履歴書は法律で禁止すべきである

日本で履歴書は決められた書式に、わざわざ手書きしないといけません。法律で定められているわけではないのですが、そんな習慣が常態化しています。何件も就職活動した人なら知っているでしょうが、この履歴書手書き労力はバカになりません。ほぼ全ての日本人がこの面倒な作業にうんざりしているのに、何年たってもなくなりません。私は不器用なので、書き損じたり、押印を失敗したりして、一からやり直した経験が何度もあります。

この履歴書手書き習慣は、転職者に無駄な労力をかけて、転職の機会を減らし、日本の人材流動性を妨げています。

私がカナダにいた時、「転職のために100社に履歴書を送った」という話はよく聞きました。転職活動を始めたと聞いて1週間後にそんな言葉を聞いたりした時は、「毎日徹夜で履歴書を書いたのか?」とバカな質問をしてしまいました。もちろん、カナダはそんな非効率な労力を要求する社会ではなく、履歴書のコピーを大量に郵送したり、メールで送ったりしただけです。採用側だって、それでなんの不都合もないはずです。

このままだと履歴書手書き習慣は日本からなくなりそうもないので、さっさと法律で禁止してください。

退職金制度を廃止すべきである

うつ病の症状に貧困妄想があることを知っているでしょうか。本当は貧乏ではないのに、うつ病のせいで貧乏だと思い込んで、わずかな出費さえ控える症状が出ます。私も医療職に就いているので、貧困妄想の患者さんに何名も会ったことがありますが、全員高齢者でした。「暖房費用がもったいない(からエアコン使わない)」、「バス代がもったいない(から日中歩いて熱中症になる)」といった貧困妄想は、高齢者によく出ることが分かっています。

高齢者の高い貯蓄額は日本経済の特徴ですが、それを認めて、「高齢者にお金を遣わせる市場を形成すべきだ」と本気で主張する知識人がいますが、私に言わせれば、現実的でないですし、理想的でもありません。それ以前に、高齢者ほどお金持ちにさせる制度自体がおかしい、と気づかないのが不思議でもあります。

老人天国ニッポン」の記事で、高齢者を罵倒してしまいましたが、変えるべきなのは、高齢者ではなく、日本の制度です。多くの高齢者は金持ちを目指して金持ちになったというより、気づいてみたら、莫大な貯蓄額を持っていたのでしょう。車も家も持っていて、特別ケチな生活をしていたわけでなく、中流生活を真面目に送ってきたら、1千万円以上もの資産ができてしまったのだと推測します。だから、「普通」の生活をしていれば、高齢者に莫大な資産が生じる現在の日本の制度を変更しなければなりません。

分かりやすい改革の一つは、退職金制度の廃止でしょう。日本では一般化してしまった制度ですが、高齢者の貯蓄額を高めますし、終身雇用を促進するので、人材の流動を妨げます。法律で日本の全職業から退職金制度を失くして、消費意欲のある若者たちに回すべきです。

もっとも、これだけで高齢者の高すぎる資産額の問題が解決できるわけではないので、さらなる改革案を述べていきます。

老後に1千万以上の貯蓄の必要性はないし、あるべきでもない

「老後には〇千万円の資金が必要です」という嘘広告はよくあります。これが銀行広告なら預金の宣伝として、まだ許されるのでしょうが、一流新聞の記事でも平気で同じ主張が載っていたりします(日本経済新聞2016年7月20日朝刊など)。

そんな広告を見て、一般の日本人はどう思っているのでしょうか?

(ちょっと待て。3千万円の貯金なんて、できるわけがないだろう! なに? 20%の高齢者は退職金も含めたら、それくらいの貯金があるって? アホか! 高齢者にそんな大金持たせてどうするんだ! オレオレ詐欺のカモになるだけだ!)

(そもそも、1千万以上の資金がないと、まともな老後が送れない社会だとしたら、社会保障制度に問題があると、どうして気づかないんだ! 世の中には、収入も貯金も全くない高齢者だっているんだぞ!)

こんな私みたいな感想を持つ日本人は、やはり少数派なのでしょうか。

福祉先進国・北欧は幻想である 」にも書いた通り、日本の医療・福祉は世界で最も恵まれているようです。これは収入によりません。年金をもらえない生活保護世帯であっても、世界最高水準の日本の医療・福祉を受けられます。そんなことは、医療職や福祉職に就いている人なら、全員知っているはずです。何千万円もの貯金がないと幸せな老後が送れないという広告や記事は真っ赤な嘘ですし、社会道徳的に考えて、嘘であるべきです。

 

※注意 日本の高齢者は恵まれた医療・福祉を受けられるものの、「保証人制度をなくした場合の金利上昇はいくらなのか」に書いた通り、日本は異常なほど保証人制度が浸透している国なので、保証人になってくれる親戚がいないと、引っ越しや施設入居が極めて難しくなる、などの問題が出てきます。この保証人制度のせいで、高齢者本人はもちろん、それを助ける福祉職の方も本当に苦労しています。恵まれない高齢者をさらに理不尽に苦しめているので、この保証人制度は即刻廃止すべきです。

日本式長時間労働は年功序列賃金制度により一般化した

このブログで何回か紹介している濱口桂一郎氏は「日本の雇用と中高年」 (ちくま新書)で、「日本の正社員が職種も時間も場所も無制限に働かされるようになったのはオイルショック後の低経済成長期でも雇用を維持するためだった」と述べています。海外では、開発職で雇用された人が会社の都合で営業職に回されることなどなく、その必要があるなら、開発職の社員を解雇して、新しく営業職の社員を雇うそうです。また、1日8時間労働の地元勤務で雇われている人が、不況になったからといって、1日12時間労働にさせられたり、単身赴任させたりすることも一般的でないようです。その場合、会社が解雇するか、あるいは、労働者自らが辞職するのかもしれません。

ここで「終身雇用を守るために、無制限労働を受け入れるしかなかった」と考えるのは間違いです。日本式経営で最も非効率なのは、高齢になり能力が衰えているにもかかわらず、内輪でしか通用しない権威により、年長者が大金をもらえる制度です。年長者の給与をカットすれば、つまり、年功序列賃金制度さえ止めれば、適性のない部署に配置転換したり、長時間労働や単身赴任をさせたりしなくても、雇用は守れたはずです。また、そうすれば、高齢になって体力や知力が衰えてきても、それに見合った仕事ができて、その仕事に見合った給与がもらえる公平な社会になったはずです。

しかし、日本はその方法は取らずに、無制限に働かされることを許容してまで、年功序列賃金制度を守りました。なぜでしょうか? 「日本の雇用と中高年」では、「日本だと子どもの年齢が増えるにしたがって必要な収入が増えるから」と書いています。

しかし、子どもが教育を受ける権利は本来、社会保障が担います。貧富の差に関係なく、全ての子どもに平等に与えられるべきだからです。だから、「一般家庭では子どもの年齢と共に必要な収入が増える」から「年功序列賃金制度は維持しなければならなかった」は、根本的な観点が間違っています。「年功序列賃金制度は経済的に非効率で維持できない」から「収入の少ない一般家庭には子どもの学費補助などの社会保障を充実しなければならない」と考えるべきだったのです。

人口ピラミッドが三角形だった頃の日本では、年長者ほど高給になるシステムで上手く回っていたのでしょう。多くの若年者の生み出す利益を、少数の年長者に回すことが可能だったからです。しかし、少子高齢社会になると、そのシステムを維持するのは経済的に不合理です。それでも無理に維持しようとしたので、上のように、配置転換も長時間労働も単身赴任も当たり前の社会になってしまいました。現在は、それですら維持できないので、正社員が減って、少子化が進んでいます。

本来なら、年功序列賃金制度なんて、40年以上前に経済的に非効率になっていました。少子高齢化は進み、その非効率度は増すばかりなのに、年功序列賃金制度に固執しているから、社会のいろいろなところに弊害が出ている、といいかげん日本人は気づくべきです。

これまで何十年も日本の政治家や官僚たちは、「女性の社会進出」「長時間労働の打破」「男性も子育てに関われる社会」「少子化対策」を掲げて、本気で改革しようとしてきました。しかし、上のような理屈から考えれば、年功序列賃金制度がなくならない限り、その改革はまず実現しないでしょう。

年功序列社会の根深さ

高齢者ほど貯蓄額が高い問題は、ここ最近の話ではありません。私の知る限り、バブル時代の1980年代には日本の重大な経済問題として取り上げられていました。この問題の根本原因には、日本の年功序列賃金制度があります。年次が上になるほど高賃金になりますが、高齢になるほどお金を使うわけではありません。むしろ、子どもが親元を離れたら、家計消費は減るはずなのに、それに見合うだけの賃金減少はありません。だから、高齢者ほど貯蓄額や資産額が上昇します。

また、年功序列賃金制度は、公的年金制度同様、人口ピラミッドが三角形の時はいいのですが、そうでないと維持するのは難しいです。高齢者は若者より能力が高く、価値のある仕事をしているとは限らないからです。まして、現在のように人口ピラミッドが逆三角形になってまで年功序列が一般的なのは、明らかに無理があります。

しかし、濱口桂一郎氏が「新しい労働社会」(岩波新書)などで繰り返し述べているように、日本企業を年功序列賃金制度から職務能力賃金制度に移行させようと、厚労省は何十年間も活動していますが、一向に成功していません。実際、日本を少しでも知る人なら、年功序列賃金制度の解体が容易でないことは理解できるでしょう。儒教文化、長幼の序の意識、先輩後輩の上下関係などは日本のあらゆる社会の行動規範になっていたりします。

日本人の骨の髄まで浸透した年功序列の価値観を変えるためには、制度面から大胆に変える他ないと思います。その必要性と改革案をこれからの記事に書いていきます。

老人天国ニッポン

内閣府発表では、2016年で世帯主が65才以上である場合、平均貯蓄額は2499万円です。日本では、高齢者ほどお金持ちになる、と統計によって明らかにされています。ただし、常識で考えて、高齢者は医療・福祉以外に大したお金の遣い道はありません。そんな高齢者が全人口の4分の1も占めていて、今後さらにその割合は増加していくのですから、経済が停滞するのは必然です。

高齢者世代、特に戦後の団塊の世代が日本史上最も恵まれた人たちと呼ばれる根拠として、現状の年金制度は確実に指摘できます。日本の公的年金制度は、現役世代が高齢者を支えるシステムです。理論上、相対的に現役世代が多いときは現役世代の負担が少なく、高齢者が多いときは現役世代の負担が大きくなります。だから、団塊の世代は若い頃にわずかな金額しか払っていなかったのに、高齢者になった現在、上のように若者を遥かに凌ぐ貯蓄額があるのに、現役世代に重い負担を課しています。それだけ恵まれているのに、借金だけは着実に増やしてくれて、国債残高は1千兆円を越えています。

「オマエら、いい加減にしろ! 借金だけは全額返せ! 死んで逃げ切りなんて絶対に許すな!」と若者たちに言われるのは当然です。私の率直な感想をいえば、その声の大きさは不十分です。このような批判は、新聞でもテレビでも毎日のように言われるべきだと思います。

ただし、国債を高齢者に消化させれば、日本が老人天国から解放されるわけではありません。財政は一時的に健全化しますが、年功序列賃金制度が続く限り、高齢者ばかりが金持ちになるでしょうし、少子化が続く限り、日本の財政は再び悪化するに違いありません。

少子化問題の方が深刻だと私は考えていますが、これからの記事では、まず年功序列賃金制度について論じます。

どう財政を破綻させるべきか

「日本人の一人当たりの平均金融資産は約1千万円です。これは赤ちゃんも含めた全日本人の平均額です」

「え! それなら、4人家族の自分だと、4千万円の貯金がある計算なのか! 貯金どころか、家のローンがあと何年も残っているのに。いかに自分の家が貧乏か分かった」

日本の財政赤字がどうして破綻しないかを調べているうちに、日本の高い貯蓄額を知って、上のような感想を持った人は多いでしょう。私もその一人でした。上の感想には「家の資産額はいくらなのか? それを計算に入れればローンは相殺され、さらにプラスになり、自分の家もかなりの資産家である。そもそも、子どもが知らないだけで、両親は何百万円もの銀行預金がある」という誤解がしばしばあったりもします。

日本の1千兆円の財政赤字は、ハイパーインフレになるにしろ、預金封鎖が行われるにしろ、最終的に日本の資産家に処理してもらうことになるのは間違いないでしょう。それしか方法はありませんから。

問題なのは、その処理の方法です。日本の財政が破綻することはみんな予想しているようですが、その時、どうするべきかの議論があまりないように思います。せいぜい「ツケを後回しにしてきて、平均2000万円もの資産を持っている高齢者に責任をとらせるべきだ」といった程度ではないでしょうか。それは私も同意するのですが、具体的にどうするのでしょうか。既に逃げ切った(亡くなった)世代もいます。資産のほとんどを投資に回している人もいます。

ハイパーインフレ預金封鎖を起こして、単純に貯蓄額が多い人だけに負担させるのは公平でないでしょう。土地家屋の資産を持っている人、株式資産を持っている人、金(ゴールド)を持っている人、外貨を持っている人などにも負担させるべきです。借金してでも土地や外貨に投資していた人が勝ち組になるのでは、明らかに不公平です。真面目に何十年も働いて貯金してきた2千万円が紙くずになったのに、隣の人は全部ドルに変換していたので全く資産は減らず、外国に逃げて悠々自適な生活を送っている、と知れば、誰だって怒り心頭に達するでしょう。暴動だって起きかねません。

そういった逃げ道は現在、どれくらい法律で防げるようになっているのでしょうか。ない場合、今後、どれくらい規制できるのでしょうか。財務省法務省、政治家、国民は考えるべきでしょう。

もう財政破綻を心配するだけでは不十分です。どう財政を破綻させるか、どう財政赤字を負担させればより公平になるか、よりよい未来につながるかも考えるべきです。

また、「日本が国債デフォルトする前に金銭取引を完全公開しておくべき理由」の繰り返しになりますが、日本が財政破綻する前には、できるだけ公平にするため、日本人および日本国内の全金銭取引をネット上で完全に公開しなければならない、と私は確信しています。また、それができれば、日本は世界の先頭に立って、21世紀の情報公開社会を進めるはずです。

性の問題は敏感である

西洋人は政治や宗教の話が大好きである」にも書いたことですが、性について議論するのは難しいです。ほとんど全ての人にとって関心が強く、重要だからです。わずかな違いでも、大きな差に感じて、言い争いになることも珍しくありません。

非暴力を成功に導いたガンジーの実像」の記事で私はガンジーを批判していますが、性についての問題はとりあげませんでした。しかし、「ガンジーの実像」をネットで検索したら、ほぼ全てのサイトで性についての問題を扱っています。ガンジーは晩年、彼を暖めるため、若い女性たちに服を脱いで、身体をぴったり寄せて寝るよう要求した、というスキャンダルです。古今東西、一般大衆はこんな性的な話に興味津々です。質の低いスキャンダルな情報が集まるネット上で、この話題ばかり取り上げられるのは必然なのかもしれません。

ただし、「ガンジーの実像」(ロベール・ドリエージュ著、白水社)を読めば分かる通り、この節のタイトルは「スキャンダラスな関係?」と疑問符がついています。根拠となっている出典は事実上一冊だけのようです。現在の日本でもそうですが、性的スキャンダルについては、あることないこと書かれるのは世の常です。ガンジーの同行集団に若い女性がいただけだったのに、上のような事件があった、と書かれたのかもしれません。

性についての本質的な要素から考えると、従軍慰安婦は極めて難しい問題でしょう。性に関するだけでなく、政治にも関わっていますから。日本の政治家の問題発言を封じるのも、韓国人の感情的な反対運動を封じるのも、しばらくは無理かもしれません。日本も厄介な問題を抱えてしまったものです。

「オリーブの罠」にみる日本女性の美意識と少子化原因

「オリーブの罠」(酒井順子著、講談社現代新書)というバブル世代の著者の本では、「自分のために美しくなろう」という言葉が出てきます。その意味するところは「全方位的におしゃれな女の子」を目指すことのようです。全方位的といっても、私が「世界一自意識過剰な日本人は世界一美しくなったけれども」の記事に書いた「空や海の青さ」などの生物普遍的な美の追及をしているのでは、全くありません。人間に限ったとして、時代や場所を超越した美しさの話も出てきません。高齢社会日本において、お爺さんやお婆さんにも感心される美しさ、なんて話も当然のようにありません。ここでの「全方位」は、本を全て読む限り、「同世代の女友だち」に対して優越感を持つための美しさ、としか考えられません。「全方位」と言いながら、対象が思いっ切り限定されていることに、著者は完全に気づいていないようです。

そんな矛盾があっても、この「同世代の女友だち」から称賛される美しさを追及することは、当時だと新しかったようです。この本で頻繁に使用される言葉に「モテ」があります。一方で、「非モテ」という言葉も多用しています。「非モテ」とは「他人の束縛から解放された美しさ」という意味では決してありません。「モテ」が男性を意識した美しさなのに対して、「非モテ」は同世代の女性を意識した美しさです。新しい世代は、モテではなく非モテを追及するようになった、と主張しているのです。

バブルを知らない私くらいの世代になると、そんな発想は新しくともなんともないでしょう。若い女性が女性の中だけの内輪の美しさを追及していることは、当たり前だと思っているのではないでしょうか。

昔は違ったようですが、今の日本人女性は家族のしがらみから解放されて、女性の仲間たちだけで集まります。子どもの頃から慣れ親しんだ女性だけの社会は、極めて居心地がいいはずです。それこそ、違う価値観の社会で生きてきた男なんかと一緒にいるより、よほど快適な環境でしょう。だから、男から美しいと思われなくても別にいいのです。それよりも、同世代の女性たちに美しいと思われることが、女性にとって幸せな人生を送ることに繋がっているのだと思います。

なお、「オリーブの罠」の著者は、「振り返ってみて『非モテ』を追及しているのではいけなかった」と後悔してもいます。「言うまでもなく、異性獲得の闘いに負けるからだ」と述べているのです。A→Bと進んで、またAに戻ったら、進化した(アウフヘーベンされた)A’に昇華されそうなものですが、そのような高次の概念は私には見つけられません。単純に、「モテ」を追及するべきだった、男性にとっての美しさを追及すべきだった、と感じているようです。

この感性も、私からしたら古臭いです。なんだかんだいっても女性は男性に頼らないと幸せになれない、といった価値観は私より下の世代にはないでしょう。上に書いたように、女性が女性たちだけの世界に安住することを許容する時代になっています。昔は、健康な女や男が結婚しないまま高齢になるなど許されない社会的圧力があったようですが、今は顔を合わせるたびに「結婚しろ」「子ども作れ」と連呼するお爺さんやお婆さんが激減しました。結婚しても家庭だけに執着する女性はほとんどいなくなって、既婚女性は自分の子どもと同年代の子どものいる既婚女性たちだけと接する、なんてこともありません。未婚女性でも既婚女性たちとつきあえて、さらに、それが自分の人間関係の中で一番重要な仲間だったりするので、未婚女性が孤独感を味わうこともありません。むしろ、男性と一緒に暮らすストレスを感じることなく、子育ての世話をしなくていいので、未婚女性が最も幸せな人生を送れる社会になったのではないでしょうか。

こういった社会環境の変化こそが、少子化原因の大きな一つだと私は考えています。同様のことは、男性側の視点からも言えます。それについては、いつか記事に書くつもりです。

世界一自意識過剰な日本人は世界一美しくなったけれども

個人としての日本人ほど、他人からどう見られているか、どう思われているかを気にする意識=自意識(self-awarenessではなくself-consciousness)が過剰な人はいないでしょう。私は日本人にしては自意識が低い方だと思いますが、それでも海外にいる時と比べて日本にいると、どうしても恥や外聞を気にしてしまいます。

「オリーブの罠」(酒井順子著、講談社現代新書)という本があります。このブログで紹介したくないほど、倫理観や社会観や人生観に劣る著者によって書かれています。典型的なバブル世代の人で、その必要が全くないのに、50才近い自分の写真を本の扉に掲載しています(そういえば、海外の人は日本人ほど写真を自分の本や記事に載せません)。ただし、日本人の自意識を考察する上では有効のように感じました。

世界中どこでも、自意識が最も過剰なのは、中高生の女子でしょう。だから、世界一自意識過剰な日本人の中高生女子は、自意識過剰の極地まで到達した人たちになっているようです。「オリーブの罠」を読めば、そうとしか思えません。

当然ですが、美とは相対的なものであり、他者によって定義されるものです。「自分が美しい」という感覚は、人間一人で成立しません。人間一人であったら「澄み切った青空は美しい」といった美的な感覚が存在する程度でしょう。それは雨による災害のない、移動しやすい環境を意味する青空に生物進化の長い期間、安心を感じてきたことに原因を求められるのかもしれません。しかし、「オリーブの罠」に出てくる日本の中高生女子は、そんな生物普遍的な美を追及しているわけでは全くありません。「自分としての美しさ」を肯定していますが、あくまで自意識としての美しさなので、現実は「他者から美しいと思われて満足している自分」を追及しています。その時点で大きな矛盾があり、「自意識の美しさ」を求めるのは「他者に自分を美しいと思ってもらいたい欲求」が必ず背後にあるので、決して純粋なものではなく、称賛されるべきものでもないと思うのですが、それについては上記の本で一切触れられていません。著者は50才近くなるのに、それに気づいていないか、それを理解できないかのどちらかのようです。

私はもう若者と言えない年齢になっていますが、それでも「オリーブの罠」のバブル感覚には古臭さを感じてしまいます。とりわけ、「西洋人はカッコいい」という感覚の異常な強さには違和感があります。そういえば、私も子どもの頃にそんな感覚がありましたが、実際にカナダに1年以上住んでみて、そんな感覚はすっかりなくなりました。西洋人がみんなハリウッドスターのようにカッコよく、美しいはずがありません。カッコ悪い人もいますし、太った人もたくさんいます。

カナダにいた人で「カナダ人は日本人よりカッコいい」と言う人には一度も会ったことがないのに、「日本人はカナダ人よりカッコいい」と言う人には何度も会ったことがあります。というか、私自身も「カナダ人は、なんであんなにダサいんですか?」と言っていました。カナダ人にも「日本人はオシャレだ」とよく言われました。

ただし、このブログで何度も書いているように、カナダ人はそもそも外見を重視しません。だから、「日本人はオシャレだ」というのも、「日本人は服に金をかけすぎている」「日本人は厚化粧だ」などと悪い意味で指摘されることの方が多かったです。

私がこんな記事を急に書きたくなったのは、今朝の朝日新聞で次のような記事を見つけたからです。

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「自分らしく楽しもう」という趣旨で「地域別のスカート丈の長さ」の調査記事を書いた、と主張しています。もう矛盾だらけで、どこから指摘していいのか私には見当がつきません。ともかく、私が上記で指摘したような視点は、この30才にもなる一流新聞社記者にすら、皆無のようです。バブル世代に絶頂に達した日本人中高生の美意識は、現在も受け継がれているのかもしれません。

別の見方をすれば、自意識の美を極限まで追及してきたからこそ、日本人は世界で一番美しい人たちになったのかもしれません。しかし、美しさで西洋人に勝ったことで、日本人は満足しているのでしょうか。それで西洋人より幸せになったのでしょうか。全体として西洋人に勝った、と思っている日本人がどれくらいいるのでしょうか。

日本人が美しさの追及に費やした活力を、内面の研鑽に向けていれば、今の日本は全く違った社会になっていたことでしょう。嘆いても過去は変わらないので、もういいかげん十分すぎる美の追及はやめて(特に自意識の美の追及なんて完全にやめて)、内面を磨くようにしていくべきでしょう。

3時間待ちの3分診療は問題なのか

日本の医療不満では、待ち時間の長さが上位に来ることがあります。その一方で診察時間は極めて短いです。いわゆる「3時間待ちの3分診療」と呼ばれる問題です。他の先進国の医療事情をある程度知っている私からすると、これは贅沢な不満だと思います。

診察待ち時間を減らす最も簡単な方法は、当日飛び込みを不可にして、全て予約制にすることです。実際、緊急性の低い診療科(眼科や歯科など)では、一般に全て予約制です。しかし、通常の内科クリニックや病院では、当日の飛び込みでも受けつけて、電話での問い合わせすら必要ありません。緊急度が高いと判断されると、予約している患者さんよりも先に飛び込み患者さんが診察してもらえるのが普通です(そうするように現在の医学部では教育されています)。救急外来でもないのに、診察時間内なら電話なしの飛び込みでも受けつけてくれる内科クリニックが日本のように全国至るところにある欧米先進国は、私の知る限り、ありません。つまり、日本は待ち時間が長くてもその日のうちに診てくれる、医療アクセスの極めて恵まれた国なのです。他の国なら、体調不良があると思っても、救急外来でなければ、その日のうちにかかれるとは限りません。もちろん、大抵はそれで問題ないのですが、一部には手遅れになってしまう病気も必ずあるでしょう。日本はその一部を救えているわけです。

ところで、医者の誤診率はどれくらいか知っているでしょうか。東大の沖中重雄教授の1963年の退官演説で「私の誤診率は14.2%だった」と言って、世の中に衝撃を与えたことがあります。一般の人は「そんなに多いのか!」と驚きました。一方、それを聞いていた医者たちは「さすが教授、たった14.2%か」と感心したと言われています。それから50年以上たったので、誤診率はもっと下がっているのか、と私は思っていましたが、最近のアメリカでの大規模研究で医者の誤診率が10~20%という論文を見かけました。

そんな高確率で誤診しているのに、なぜ医療事故がもっと大きな問題になっていないかと言えば、「8割は病院にかからなくても治る、1割は病院にかかったから治る、1割は病院にかかっても治らない」(「医者は病気をどう推理するか」NHK総合診療医ドクターG制作班編、幻冬舎)からです。上記の誤診率と違って、この数値は統計的に求めていませんが、医者の中では昔から言われている格言です。つまり、病院にかかって誤診が起こっても、9割は実質的に問題ないのです。たとえば、誤診率20%の医者がいたとしても、本当に問題になるのは「病院にかかったから治る1割の病気」だけなので、わずか2%です。

さらに、日本では、その2%でさえ救えるシステムになっています。それが日本の極めて高い受診回数です。下のグラフは、1年間に国民1人が医者にかかる平均回数を国別に比較したものです。

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これも医者の間で昔から言われる有名な格言ですが、「後医は名医」という言葉があります。最初の医者が診察した時には症状があまり現れていないので見逃してしまいがちですが、後の医者が診察した時には症状がもっと明確に出ていて、前の医者の情報も活用できるので、より正確な判断ができる、という意味です。

上の診察頻度グラフを見ると、日本人は1月1回も医者にかかれるほど医療アクセスに恵まれています。スウェーデン人のように4か月に1回しか医者にかかれないのなら、「後医」に巡り合える確率も低いでしょうが、日本ならその4倍「後医」にかかれるわけで、その分、見逃しも少なくなります。

私は医療従事者ですが、現場を見ていて、重症の患者さんまで3分診療で終わらせることはほぼありません。見逃しがないように、必要な問診はします。ただし、薬をもらうだけの患者さんだったりしたら、3分もかけないのも事実です。だからといって、今の日本の診療時間を3倍に伸ばしたところで、見逃しが3分の1に減ることは絶対にないでしょう。それよりも、診察回数を増やして、患者さんが何度もかかりやすいシステムを作る方がよほど効果的だと確信します。

日本の医療制度に改革すべきところはありますが、「3分診療」(短時間での診療)まで失くすべきではない、と私は思っています。もし「3分診療」を止めたら、こんなに頻繁に病院やクリニックにかかることはできなくなり、恐らく当日の飛び込み診療も救急外来以外はなくなるはずです。短時間診療には、そのデメリットを上回るメリットがあると私は考えています。それを医療者側も広報すべきだと思ったので、この記事に書きました。

もし「3時間待ちの3分診療」を失くしたら、「3時間待っても当日に診てもらえた昔がよかった」という不満が必ず出てくる、と私は確信します。

 

※注意 日本より欧米で診察時間が長い一番の要因は、患者教育を重視しているからです。「患者さんに病状とその予防法について十分に時間をかけて説明していた」と、欧米の医療を見てきた日本の医師が異口同音に言います。「予防は治療に勝る」の記事で、医療機関外での日本の患者教育は遅れていると指摘しましたが、医療機関内でも日本の患者教育が遅れているのは事実のようです。特に、外来患者さんはともかく、入院した患者さんまで患者教育がろくに行われていない日本の医療は、患者さんの自己責任意識を低め、頻回受診を生み、医療費の無駄につながるので、明らかに問題だと思います。

日本の歴史はいつになったら神話ではなく事実に基づくのか

私は小学生の時、魏志倭人伝を習いました。最も古い書物による日本実在記録です。しばらくして、マンガの「中国の歴史」を読んでいるとき、ふと気づきました。

(魏は三国志曹操の国じゃないか。魏志倭人伝とは、中国の歴史書の一部だ。他国の歴史書が自国の存在を証明する最古の記録だとは、情けない。ひらがな、カタカナなどの独自文字ができる前だとしても、自ら正確な歴史くらい記録しておいてほしかった)

それから10年以上たって、幕末以降の近代史を調べている時、私は次のことを感じました。

(日本の歴史を知るために、アメリカの資料を調べなければならないことが、なぜこんなに多いのか。また、アメリカの方が日本より資料が詳しいため、重要な結論がアメリカ側の一次資料に基づいていることが非常に多い)

2013年、日本に特定秘密保護法が成立してしまいました。これは多くの知識人から強い批判を浴びていますが、「国家と秘密」(久保亨著、瀬畑源著、集英社新書)を読めば、もともと日本の公文書は秘密だらけだったことが分かります。

2001年に情報公開法、2011年に公文書管理法の二つができて、ようやく日本も近代国家並みの情報公開ができるようになった、はずでした。しかし、官僚や政治家たちが「議事録の内容を公表するなら、自由に発言できない」と思ったのか、それらの法律が適切に運用され出す前の2013年に特定秘密保護法を作って、以前の体制に戻してしまったのです。

別の観点でいえば、2001年まで日本は公文書をろくに公開していませんでしたし、2011年まではそもそもの公文書をあまり作っていませんでした。「国家と秘密」によると、国立公文書館の職員数は、アメリカ2720人、ドイツ790人、韓国340人、ベトナム270人、日本47人という有様です。私が上のような感想を持つのも至極当然だったのです。

日本の公文書管理法の第1条にはこんなことが書かれています。

「公文書は健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源である」

「公文書が適切に保存・利用されることで、現在および将来の国民に説明する債務が全うされる」

魏志倭人伝の時代、日本の統治者は卑弥呼であり、神権政治が行われていました。日本の歴史書である古事記や日本書記では、卑弥呼は神話の中に組み込まれており、何年前で日本のどこの話かも全くの謎です。現在の日本はもちろん神権政治ではなく民主政治のはずなのですが、民主化の成熟度のバロメーターともいえる公文書公開度は著しく低いままです。このままでは神話時代と同じく、自国の歴史を知るために、他国の公式文書を頼りにしなければいけないでしょう。

情けないです。

日本や日本人にプライドを持っている人たちなら、日本政府に公文書作成とその情報公開を徹底して要求していってほしいです。

予防は治療に勝る

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上記の表は「スウェーデンにおける医療福祉の舞台裏」(河本桂子著、新評論)からの抜粋で、著者が務めるスウェーデンのリハビリセンターでの活動件数です。日本人医療者にとって驚きなのは学校訪問と家庭訪問の数でしょう。10件の通院患者に対して、学校訪問と家庭訪問を合わせて2件もしている割合です。それくらい教育活動を重視しているのです。これほどの頻度で教育活動を行っている現役の作業療法士(リハビリ職の一つで、上記の著者の職業)なんて、日本に一人もいないでしょう。日本の医師や看護師も、外来患者や入院患者で手一杯で、病気でもない人のために教育活動をしている暇はありません。

しかし、「福祉先進国・北欧は幻想である」の記事に書いた通り、スウェーデンだって、医師や看護師が余っているわけではありません。むしろ、外来待機患者や入院待機患者が日本以上に多いのです。それでも、教育活動に時間を費やします。なぜでしょうか。

それは予防医療の効果を認識しているからでしょう。健康は一度マイナスになるとゼロに持っていくのは容易ではありません。だから、薬や手術などの手段を用います。しかし、薬や手術でゼロに戻ったとしても副作用は必ずあります。再度マイナスになりやすかったりしますし、必ずしも完全にゼロまで戻れるとも限りません。だからこそ、最初からマイナスにならないように、予防するべきです。ゼロからプラスに持っていき、マイナスに陥らないようにするべきなのです。

また、全ての病気、全ての体調不良、全ての死に医療・福祉が関わっていたら、いくら医師や作業療法士介護士がいても足りません。上記の本に「患者さんの理想は、常に専門職が一緒にいてリハビリすること」と書かれています。しかし、それは人手の面で不可能です。専門職が関わる時間はどうしても限られます。だから、リハビリの専門職は家族を中心とした治療訓練をします。作業療法士などが着いて行うリハビリよりも、生活環境の中で毎日自由に行うリハビリの方が、遥かに効果があると科学的に証明されてもいます。

にもかかわらず、上記のように患者さんと家族の理想は「誰かリハビリをしてくれる人がいてほしい」なので、なかなか納得してくれません。専門職が近くにいないと、どうしてもサボってしまいます。それを正し、自分で実践してもらうために、教育活動をしているわけです。別の見方をすれば、「できないこと」も予め伝えているのです。健康な時から、「専門職はいつも一緒にいることはできません」「どのようなリハビリを行えばいいかは教えます」「自分で自由な時間にリハビリした方が効果あります」といったことを認識してもらっているようです。

これは自己責任を高めるためにも有効でしょう。世界の中で、日本ほど恵まれた医療・福祉の国はありません。その恵まれすぎた制度のため、どうしても患者さんは医療・福祉に頼りすぎています。世界標準からいえば、患者さんの自己責任の意識が薄すぎます。その自己責任を高めるために、日本の医療者も医療活動の時間を削ってでも、教育活動をすればいい、と私は思います。

「糖尿病になったら、神経が鈍くなり、目が見えなくなり、腎臓が悪くなり、病気にかかりやすくなります。食事療法で予防できるので、糖尿病から透析になった人は全額自費治療にします(現在の日本では、透析は身体障害者手帳が発行されるため、全額公費!)」

「この近辺の病院ではAの病気が治療できません。Bの予防法は十分にしておいてほしいですが、それでもダメな場合があるので予め知っておいてください」

こういった広報教育活動を医療者自らが行うべきです。

このような案について「ネットを使えば医学の知識は着けられるし、地域の医療事情だって自分で調べられるので、情報収集しなかった者の自己責任だ」という反論が出そうですが、それで自己責任を押しつけるのは現実的でないでしょう。ネット上には真偽不明の情報が溢れていますし、地域の医療事情を自力で調べられるほど能力が高い人はごく僅かです。

一方、正しい科学的知識を持った医療従事者自らが地域で教育活動を行っていれば、「知らなかったから、私の責任ではない」は通らないはずです。

当たり前ですが、本来、病院と警察は商売繁盛すべき場所ではありません。だとしたら、医療者の最も重要な仕事は、病人を治すことではなく、病人を作らないようにすることです。そのためには、医療者は病院の外にも出て、教育活動を行うべきでしょう。

だから、ぜひ厚生労働省に、医療教育活動に保険点数をつけてほしいです。