未来社会の道しるべ

新しい社会を切り開く視点の提供

ブラック企業でもこれだけは我慢できない

私がブラック企業にいた頃、同じ現場で毎日パワハラに耐えている同僚が「他の叱責は仕方ないにしても、そう言われることだけは我慢ならない」と口を揃えていた不満があります。上司からの次のような叱責です。

「ここでダメだったら、どこいっても同じだからな」

「こんなんじゃ、他でもやっていけないぞ」

私も同様のことを言われて、「それだけは言っていけないだろう!」と思ったことが何度もあります。毎日、理不尽な叱責に耐えているのは、あくまで会社内で雇用関係にあるからです。その関係さえなければ、社会全体での個人と個人の関係になれば、こんな性格の破綻した上司の言うことなど、黙って聞いているわけがありません。無視するか、頭にきていれば怒鳴り返しています。

だから、あくまで会社内で「ダメだ」「バカか」「無能だ」と言われるのなら、それは耐えるしかないかもしれません。しかし、「会社外でもダメだ」などと叱責することは、人として絶対に許されません。そんなことを言う権利が、法の下の平等憲法で保障されている日本で、パワハラを行うような基本的人権を無視した上司に存在するわけがありません。

これは当たり前のことですが、多くの日本人上司はそのことを本当に忘れています。だから、ここに記しておきます。

新卒一括採用の功罪

私はこちらのブログで何度もカナダの自由と平等を称賛してきました。しかし、人生の重要な分岐点である就職について、カナダは自由でも平等でもありません。

カナダで就職を目指そうとする複数の日本人およびカナダ人から聞いた言葉ですが、カナダでは「なにができるかではなく、誰を知っているかによって(by not what you do but who you know)」就職が決まるそうです。市の就職相談会に行くと、公務員が「就職したければ、頼りになる知人を作ることだ」と明言しいて、仰天したという日本人に会ったこともあります。カナダではコネ就職が一般なのです。

私の知る限り、日本のような新卒一括採用システムがある外国は韓国だけです。カナダではインターンシップ経験から就職する例を除けば(アメリカの一流企業に入るにはこれが一般的みたいです)、学生は在学中に就職活動をしません。卒業してから、就職活動を始めます。そうなると、卒業後に希望する求人がすぐ見つかるとは限らないので、とりあえず妥協できる範囲の仕事に就きます。そのうちに、より条件のいい仕事の求人を見つけるとすぐに応募して、採用されたら転職します。転職は労働者の権利なので、使用者が理不尽な引き留めをすることもありません。だから、転職が多くなります。

一方、日本は新卒就職時にあらゆる企業、あらゆる職種の求人に応募できます。他の外国なら普通に遭遇する「希望する職種がなかなか求人をしてくれない」状況にはなりませんし、採用されれば「卒後にしばらく無職の期間がある」状況にもなりません。これだけでも十分な社会利益があるのですが、それ以上の大きな社会利益は「新卒一括採用だとコネ就職が難しくなる」ことでしょう。実際には新卒一括採用でもコネ就職はあるらしいのですが、不特定の大人数から選ぶ以上、明らかな経歴と能力差があるのにコネで採用するのは確実に難しくなるはずです。少なくとも日本の公務員が「新卒一括採用ではコネが重要だ」などと広言することは許されないでしょう。それくらい新卒一括採用は平等に近いシステムだと私は思っています。

ただし、日本の新卒一括採用システムだと、ほぼ全ての職種の選択肢を示して決めている以上、採用された者がすぐに辞めることは認められません。だから、日本で転職の文化は根付かないままです。新卒採用を逃すと、就職口は激減します。

また、日本で就労条件のいい企業への求人が卒業前に全て提示されるので、わざわざ自分で起業する必要はありません。よほどのことがない限り、起業するよりも就職した方が、成功率×収入の期待値が高いからです。新卒一括採用は、間違いなく、日本で若者の起業を少なくしています。

「若者と労働(濱口桂一朗著、中央公論新社)」では、「日本の企業の人事担当者は、自分たちが毎日やっている人事や、賃金管理の仕事がどのような原理原則のもとに行われているかを理解していない」と断定しています。他の多くの日本の習慣と同様、新卒一括採用も、経済合理性を検証されることなく、伝統的になんとなく続いてきたようです。だからこそ、新卒一括採用の功罪については、日本人全員が意識して知っておくべきでしょう。「日本はなぜ再チャレンジが難しいのか」「日本ではどうして起業する者が少ないのか」といった問題の答えに、「新卒一括採用システムの浸透」がすぐに挙がらなかったら、本質を見誤っていると考えていいでしょう。

理由が分からないことは問題なのか

前回の記事の最後で、「医学では、統計による根拠はメカニズムによる根拠に勝る」ことを示しただけで、文部科学省批判までしているのは論理の飛躍があるので、捕捉しておきます。

身の回りのことで、理由を説明できることはどれくらいあるでしょうか。電車がどうして動いているか、そのメカニズムを完全に理解している人はいますか。電車の部品が何千、何万あって、それらがどう有機的に結びついて、どこが故障したら、どんな問題が起こるのか、完全に理解している人はいますか。あるいは、携帯電話はどうですか。どうして携帯電話で友だちといつでも会話できるんですか。テレビや洗濯機や冷蔵庫の仕組みは知っていますか。知らないと使ってはいけないんでしょうか。だとしたら、超高齢社会が進む一方の日本は大変です。

本来答えのあるべき自然科学の領域でさえそうなのですから、政治や社会の問題になれば、なおさら誰もが納得のできる理由はありません。伝統でなんとなく続いている習慣が多い日本なら、とりわけそうでしょう。周りに同じ意見の人ばかり集まっている国で、国語や社会でも模範解答のある問題のテストを受けてきたので、そんな当たり前のことすら忘れてしまったのでしょうか。

世の中のほぼ全ての自然事象は、どうしても説明できない部分を必ず含んでいます。たとえば、ニュートンの力学方程式は地上だけなく天上の運動も同じ法則でとらえた画期的な発見ですが、なぜそんな方程式で全ての物体の運動が成り立っているかは説明できませんでした。それを解明するには、アインシュタインの重力方程式の発見まで待たなければなりません。その重力方程式にしても、なぜそんな方程式で宇宙が成り立っているかは説明できません。当たり前です。しかし、こんな自然科学の公理を理解しないまま一流大学を卒業している日本人は多いのかもしれません。

もし多くの日本人が「AIは理由を説明できないことが問題」とだけ考えていたら、それは日本人全体の知性の低さを示しており、明らかに文部科学省に責任があります。

医学的根拠で最も重要なのは確率的妥当性である

ノーベル賞受賞者山中伸弥と将棋の羽生善治の対談動画あります。

www.youtube.com

この動画の25分以降に、羽生が「AIは確率的にこちらが正しいと言っているだけで、その理由の説明がない。医療のような世界で、理由がよく分からないのでは、命を預けられないと思う」と全く医学を理解していない疑問を口にしています。

朝日新聞で村瀬将棋部記者が「AIの問題点は理由を説明できないところだ」と何度も何度も同じ記事を書いています。10年近くもAIと将棋について考えてきたはずなのに、この程度の浅い見解を繰り返し書くだけで、一流新聞社にいられることの方が、私としてはAI問題よりよほど疑問です(朝日新聞記者への皮肉はこちらの記事に書いています)。

「医学的根拠とは何か (津田敏秀著、岩波新書)」にもある通り、医学的根拠には直感派とメカニズム(機能)派と数量化派があります。それらはお互いに補完しあえる根拠ですが、最優先されるのは数量化、つまりは確率的妥当性になると20世紀の後半には結論が出ています。特に薬物療法については、そのメカニズムが完全に分かっているものなど皆無といっていいでしょう。

日本の医学会では有名な話ですが、20年ほど前、認知症薬として脳の血流をよくする薬がありました。認知症の人は脳の血流が下がっているので、血流がよくなれば脳が活発になるとメカニズムとして推論したわけです。その薬は爆発的に日本で売れていましたが、統計的根拠が医学で重視される普通の国では全く売れませんでした。平たく言えば、日本以外の国ではそもそも薬として認められませんでした。その異常さに、さすがの日本の医学会も反省して、再度、二重盲検法を用いて、脳の血流をよくする薬が認知症に効くかを調べました。既に二十種類以上も脳の血流促進薬が認知症薬として販売されていましたが、それらは全て、一つの例外もなく、効果がないと判定されています。

一方で、世界的に売れた認知症薬のコリンエステラーゼ阻害薬は日本で発明されたのですが、コリンエステラーゼ阻害薬が認知症に効くメカニズムを正確に説明できる医者は世界中に一人もいません。せいぜい、「認知症患者は脳内アセチルコリン濃度が低いから、アセチルコリン濃度を上昇させると認知症の進行を遅らせる効果がある」くらいでしょう。しかし、その論理だと「脳の血流をよくする薬がどうして認知症に効かないのか」と問われると、説明できないはずです。

このように全ての薬はそのメカニズムが完全には分かっていません。そもそも、人間の体内のタンパク質は10万個程度あると推定されていますが、その相互作用はほとんど分かっていません。つまりは、なぜ人間が生きているのかすら、医学はあまり解明できていないのです。だから、当然、体内に入った薬が体内でどう相互作用を起こすかなど完全に分かるわけがありません。

しかし、統計的に結論を出すことはできます。全員に効かないかもしれないが、8割の人に効く薬であれば、使うべきでしょう。なにもしなければ5年以内に80%の人が死ぬが、ある薬で5年以内に死ぬ人が40%まで減らせるなら、その薬を使うべきでしょう。このように確率的に考えた方が、現代の医学には有効なのです。

それでも「統計的には効果があるとしても、そのメカニズムを説明できなければ納得できない」と考えるのでしょうか。「理論的には効くはずだが、統計的には効果の認められない薬」を使った方がいいと思うのでしょうか。もし多くの日本人がそう思っているなら、日本人の自然科学観は決定的な欠陥があると断定していいでしょう。高卒棋士の羽生はともかく、一流新聞社まで「理由を説明できないのはAIの欠点だ」と(一度だけならまだしも)何度も全国記事で堂々と主張しているのは、日本の恥だと文部科学省には考えてもらいたいです。

人として大切なところが欠けている

私が小学生の頃です。タチの悪い友だちが得意気にこんなことを言っていました。

友だち「知っているか? アメリカでは銃で人を撃っても、『撃たれそうになったから撃った』と言えば罪にならないんだぜ」

私(バカ言うな。そんなことあるわけないだろう)

そんな言い訳が通用したら、無法国家です。世界最高の民主主義国のアメリカで起こるはずがありません。そう信じていました。

しかし、1992年、愛知県の少年が留学先のアメリカで射殺された事件が起きます。銃はもちろん武器すら持っていない少年です。「『動くな』と言ったのに、動いたから撃った」と被告は裁判で主張すると、陪審員の全会一致で無罪となりました。

私(嘘だろう!)

衝撃を受けたのは私だけでなく、当時、このニュースは日本で大きく扱われました。銃を撃って、人を殺して、全会一致の無罪判決が出るなど、日本ではありえない、いえ、まともな国家なら想像もできないはずです。小学校時代の友だちの妄想だと思った言葉は、事実だったのです。

その後、私はカナダで暮らす機会があり、カナダ人やアメリカ人と銃規制の議論をしたことは何度もあります。アメリカ人は「自分の身を自分で守るのは人間として当然の権利だ」、「合衆国憲法にも銃を持つ権利が認められている」などと主張してきます。それに対して、私は必ず上記の話をします。それでも納得しない相手には、私はこう言っていました。

私「率直に言わせてもらうが、『撃たれそうになったから撃った』という言い訳が通用する国家を認める人は、どんな理屈で正当化しようとも、人として大切なところが欠けているとしか僕には思えない」

PISA現象のおかしさ

若い世代には通じないでしょうが、10年ほど前、日本には「PISAショック」という言葉がありました。「国際的な学力テストのPISAで日本の成績が下がったショック」を意味しています。PISAショックは、当時導入されていたゆとり教育批判の根拠にもなりました。一方で注目された「教育先進国」がフィンランドでした。日本のPISA順位が下降していた2003年や2006年、フィンランドが成績上位だったからです。当時マスコミがやたらとフィンランド教育を称賛したので、今でも20代以上の多くの日本人が「フィンランド=教育国」の印象を持っているかもしれません。

しかし、wikipediaで過去のPISA成績一覧を見てもらえば分かる通り、PISA史上で飛びぬけて優秀だったのは上海です。2009年と2012年で2位以下を突き放しています。客観的に判断して、上海のぶっちぎりの成績の前では、フィンランドなど霞んでしまいます。当然、今度は「上海に学べ!」と日本のマスコミは、フィンランドの時以上に騒がなければならないはずです。

しかし、そんな声は全くと言っていいほど聞かれませんでした。日本で、フィンランドの教育本は今でも出版されていますが、上海の教育本など見つけるのさえ難しいでしょう。そのダントツだった上海は2015年のPISAで「中国」と一括して計算されるようになると、大幅に偏差値を下げています。この事実を知る日本人は少ないはずです。いつの間にか、日本のマスコミが揃ってPISAの順位に騒がなくなったからです。

明らかに、この一連のPISA注目度の上昇と衰退は、大きな問題があります。最低でも、日本のマスコミや教育関係者は次のような検証はするべきです。

フィンランドPISA成績はなぜ下がったのか

フィンランドの教育は日本に導入可能だったのか(日本が参考にするだけでなく、直接見習うべきだったのか)

・どうして上海はPISAで抜群の成績を叩き出したのか。

フィンランドが注目されて上海が注目されなかったいびつさに、どうして疑問の声が上がらなかったのか。

・どうして2012年の上海と2015年の中国で成績が大きく違うのか。

・どうして日本のマスコミはPISAに関心を失っていったのか。

今まで日本のマスコミが(あるいは日本人が)こんな重要な教育問題を無視してきた反省も含めて、検証してほしいです。

五蘊盛苦

五蘊盛苦という仏教用語を知る人は少ないでしょう。四苦八苦の一つで、「自分の容姿と自分の性格が自分の思い通りにならない苦しみ」という言葉です。「キレイになりたい」と思ってもなれない苦しみ、「明るくなりたい」と思ってもなれない苦しみはどんな人でも感じます。

一党独裁を批判された中国人の反論」で、私は中国人に謙虚さを求めましたが、日本人に謙虚さを求めていません。「日本人は中国人より謙虚なのだから、中国人こそ謙虚になるべきだ」との思い上がりがあったのです。現実の日中関係を見ていると、どちらも謙虚ではなく、子どものように意地の張り合いをしています。そんな場合に譲歩するべきなのは、普通、より成熟した方でしょう。この場合なら、日本です。私はその逆を要求しているわけで、明らかにいびつです。私のような者に外交を語る資格はないのかもしれません。

さらに私は「なぜ日本人は討論下手なのか」の記事で、日本人の人間観や倫理観が劣っているから建設的な議論ができない、だから日本人と議論するのは嫌だ、と上から目線で批判しています。しかし、相手が劣った人間観や倫理観を持っているなら、分かりやすく諭してあげればいいだけです。そんな説得能力がない以上、相手の人間観や倫理観が劣っていると批判する正当性は私にないでしょう。

相手から自分の意見を感情的に批判されたとき、こちらは感情的にならずに理性的に諭せるような性格になりたい、と私はずっと思っています。しかし、どんなに頭で分かっていても、「バカにつられてバカになってしまうなんて、バカな奴の言い訳だ」といくら考えていても、感情を抑えることができません。過去あるいは現在の精神的な余裕がないのです。

私は「今の自分でいい」「どんなに頑張っても自分は自分でしかない」などと思ったことは、この10年間以上、一度もありません。いつも「自分は最低だ」「自分は変わらなければいけない」と強く思って生きています。それくらい自分はダメだからです。

しかし、人間は「口下手な人」から「話上手な人」などとそう簡単に変われません。大抵の人は、一生変わらないでしょう。それでも、10年、20年と長い期間で見れば、必死で変わろうとした人と、自分を肯定してきた人では、大きな違いになる、と私は信じています。だから、私は自分の人間観や倫理観を相手に正しく伝えられる性格になるよう、今も努力し続けています。

なぜ日本人は討論下手なのか

建設的な議論が成り立つには、お互いに社会観、人間観、倫理観、洞察力などがある程度の水準以上でなければならない、と私は考えています。ほとんどの日本人はその水準に達していないように私は思っています。日本人集団だと意見がほぼ一致している時だけ口論にならずに深い話ができますが、実際は同調しあっているだけで、建設的な議論では全くありません。意見や視点が違う人とは、「言い争いになる」あるいは「一方が言ってもう一方が聞くだけになっている」のどちらかです。新しい視点を知り、新しい概念に到達し、お互いに知的に満足することなど、まずありません。

私は知性の高い西洋人と議論するのは好きですが、日本人と議論するのが嫌いです。

その具体的な経験や、そのような考えに至った経緯はこちらのブログのいくつかの記事に書いています。読んでもらえると光栄です。

(あまりに傲岸不遜な記事なので、その反省文を次の「五蘊盛苦」の記事に書きます)

「あらゆる思想の正誤は絶対的に決められない」とは絶対的に決められない

あらゆる思想は、正しいか間違っているかを絶対的に決めることはできません。正しいか間違っているかは人間の価値観で判定されるものであり、価値観である以上、自然科学のような絶対的な答えは存在しません。誰もが知っている当たり前のことです。私の社会観でも最も大きい柱になっています。

一方で、全ての思想に優劣の順序を決められないとも限らない、と思っています。例えば、あらゆる倫理観は絶対的に間違っていると言えないしょうが、社会的に好ましくない倫理観は存在しますし、他の倫理観と比較した場合に劣る倫理観も存在すると思っています。人間社会は完全に無秩序な集団ではありません。人間が集団としての習性を見出せる以上、人類普遍の社会を安定させるためのルールは存在し、それを見つけ出し、作り出すことはできると思っています。

その観点からいえば、日本人の倫理観は西洋人の倫理観と比べて劣ると私は見なしています。「エリート階級で比べると、日本人の倫理観は西洋人の倫理観より劣っているかもしれない。だが、平均的な日本人の倫理観は、西洋人の倫理観と比べると、優秀なはずだ」と思っている日本人は多いかもしれませんが、それは誤解と断定します。

「学力」や「性格」については、「上位は日本が西洋に負けても、平均では日本が西洋に勝っている」分野ですが、内面(倫理観含む)においては、上位集団はもちろん、全体の平均でも日本は西洋に負けます。アメリカと東欧と南欧を除けば、多くの西洋人の倫理観は日本人の倫理観より優秀です。

これについて、次の記事でも触れます。

いじめを語る会を作るべきである

ある年齢以下の日本人なら、学校などで「戦争体験を語る会」に参加させられたことはあるでしょう。戦争体験者(空襲被害者や原爆被害者)の講演を聞く会です。そんな風に「戦争を語る会」があるなら、私は「いじめを語る会」があってもいいと思います。

私のいじめの記事を読むと、今の20代以下の世代は「日本中の全ての学校が荒れていたわけではないだろう。大げさすぎる」と思うかもしれません。確かに、私立中高一貫校まで荒れていませんでしたが、日本中の若者に不良文化が蔓延していたのは紛れもない事実です。中高生の暴力事件なんて、どんな田舎でもありました。昭和一桁世代(昭和元年~昭和9年までに生まれた世代)が全員戦争を経験しているように、1980年代と1990年代に少年少女時代を送った人は全員がいじめと不良問題を身近に経験している、と断定していいと私は考えます。

オタク文化隆盛の今からは想像もできないかもしれませんが、1990年前後、多くの若者向けマンガやドラマには不良少年少女が出てきました。しかも、不良たちは必ずしも悪役として登場していたわけではありません。1990年前後にデビューした若手テレビタレントは、お笑い系だろうと、歌手系だろうと、ほぼ例外なく元不良か現不良でした。少なくとも、そんな噂は立っていましたし、テレビやラジオで堂々と「シンナー吸ったことありますよ」「ムカついたんで、袋叩きにしました」「スカしてたんで、犯っちゃいました(強姦しました)」と自慢していました。公の電波を通じた犯罪告白ですが、以前の記事に書いたように、いじめ問題に限らず、少年少女犯罪だと警察はほとんど動かなかったのです。1980年代から1990年代、文部省がいじめの実数を正確に把握していないのと同様、警察も少年少女犯罪を正確に把握していませんでした。

嘘だと思うなら、近くにいる30代、40代の先生にでも聞いてください。当時の日本にいた若者なら知らない人がいないほど、不良文化は日本中に浸透していました。今でも、その世代の元不良の大衆小説家がベストセラーを何冊も書いていたりします。本を読めば、暴力や恐怖による威圧を肯定して、やたらとヤクザが出てくるので、反省していない、と怒りがこみあげてきます。

しかし、現在の若者は少年少女の非行問題を知らないし、その悲惨さを想像できないと思います。「いかにそれが非道であったか」「被害者がどれだけ身体的、精神的に苦しんだか」を伝えていく価値は十分にあるはずです。非行問題やいじめ問題は、現在も程度が軽くなったとはいえ、戦争よりも遥かに身近で発生しています。元不良のテレビタレントは今も普通に活躍していて、場合によっては「ヤンキー文化を復活させよう」などと懐かしむ愚か者たちまでいます。それが社会道徳的にいかに許されないか、なにも知らない若者たちに伝えていくべきだと私は考えます。

いじめ問題の教訓をパワハラ撲滅に活かすべきである

パワハラを漏らさず把握し、撲滅に専念する公的機関を新設すべきである」に述べた提案の実現は容易でないでしょう。その方法を実行するためには、新規の法律と予算が国会審議にて可決されなければなりません。多くの国民が上記の提案に賛同して、それを実現する政治家を選ぶ必要があります。しかし、日本は未だにパワハラを容認する者たちが少なくないと思います。それは使用者に限りません。労働者にも、あるいは労働者こそ保守的なパワハラ社会を認めているように感じます。

大量の労働者を採用して、薄給で過重労働させ、使い潰すブラック企業という言葉があります。過重労働を長期間続けられる者は限られます。仕事が十分にできない労働者には上司から厳しい叱責が、退職に追い込まれるまで、浴びせられます(パワハラが行われます)。我慢できずに辞める者が続出しますが、すぐに新しい労働者を補充するので、企業としては安価な商品を提供できます。使い捨てられた労働者としては、たまったものではありません。大した技能も身に着けられないまま、体力と精神力と人生の貴重な期間を消耗しただけに終わります。給与は低く抑えられているので、ブラック企業の従業員が多いほど日本の生産性は低くなります。

問題だらけにもかかわらず、過去にブラック企業大賞を受賞した企業は一流の誰もが知る名前が並んでいます。その経営者がカリスマとして称賛されている企業も少なくありません。パワハラが横行しているはずの企業の従業員たちが、パワハラではなく情熱のこもった指導だと、上司たちに本気で同調していることもあります。辞めていった者たちは根性なしと批判されていたりもします。それはまるで、いじめがあった時にいじめられた者の欠点をあげつらう、いじめた者やいじめの傍観者たちのようだと、皆が早く気づくべきです。

私の案の中でも、パワハラを行う者に解雇や停職の処分まで認める部分には反対が大きいに違いありません。他の従業員たちは耐えている、嫌になった者は去って他の会社で働けばいいだけだ、との意見もあるでしょう。もちろん、不満を持つ者が会社を辞める自由は認められるべきです。しかし、あえて公的に訴えてまでその職場に残りたい人がいるのに、パワハラ加害者ではなく被害者を解雇する処分が社会的に妥当だとは思えません。たとえば加害者に数日間の停職を命じて、被害者の気持ちを想像して反省する期間を与えたら、加害者が合理的に指導するようになり、職場の雰囲気が一気に改善することもあるはずです。全てのケースで訴えられた者を解雇や停職させるべきではありませんが、パワハラ撲滅のためには、そういった強い権限をパワハラ対処公的機関に認めるべきと考えます。

いじめ問題について国が始めて調査をして、取り組み出したのは、東京都中野区中2生自殺事件のあった1985年度からです。その後もいじめによる悲劇のニュースは途切れることがなく、2011年の滋賀県大津市中2生自殺事件が起こって、ようやく2013年にいじめ防止対策推進法が成立しました。国、地方公共団体、学校、教職員、保護者の全てにいじめ防止対策の責任があること、いじめた者を別の教室で学習させたり、出席停止させたりできることが法律に明記されました。

このいじめ対策の進捗具合からすると、日本からパワハラを撲滅させるには長い年月を要するのかもしれません。しかし、どんなに時間がかかっても、社会全体での精神的ストレスを激減させ、かつ、国の経済規模を増大させると理解して、諦めずにパワハラ撲滅を実現まで不断に訴えていくべきです。

パワハラ撲滅がもたらす経済効果

パワハラの撲滅に成功すれば、社会に高い寛容性が浸透して、これまで無職だった者も働けると期待されます。生活保護費支給の約3.8兆円も減額できるでしょう(厚生労働省 2015年 生活保護費負担金事業実績報告参照)。

特に若年無業者、いわゆるニートたちの多くは労働に参加できるはずです。内閣府の報告では、30代までのニートは2015年で約75万人もいます(総務省統計局2016年労働力調査参照)。このうち50万人が平均年収300万円で働いたとしたら、GDPが1.5兆円加増されます。

パワハラの撲滅で、障がい者が働ける職場も広がるに違いありません。2013年、744万人の障がい者のうち18~64才の在宅者は332万人です(厚生労働省2013年障害者の就労支援対策の状況参照)。雇用される障がい者は増えているものの2015年で45万人です(厚生労働省2015年障害者雇用状況の集計結果参照)。障がい者は全従業員の2.0%以上雇うように法律で定められていますが、47.2%の企業は守っていません。多くの企業は障がい者を雇用するより、法定雇用率に不足する分の一人当たり5万円の罰金支払いを選択しています。

精神科病院実習の経験から、私は上記の就業可能な障がい者332万人のうち184万人を占める精神障がい者の多くは就業を希望していると知っています。なんら生産的活動をしないままだと、自身の存在価値に疑問を感じ、大抵、精神疾患はさらに悪化していきます。障がい者施設でしか働けない者も一定割合いますが、少なくとも3割程度の精神障がい者は十分な配慮さえあれば一般企業でも働けると推測します。

ニート障がい者たちが職場に受け入れられるなら、それ以上に受け入れられやすい女性や高齢者や外国人たちはもっと働けるようになるでしょう。将来の人口減少で労働力不足が深刻に懸念される日本にとって、パワハラ撲滅による就業者数増加は有効な経済政策になります。

ただし、カナダのように能力に疑問のある人たちを就業に参加させると、日本で身近に接するサービスの質は落ちるでしょう。しかし、各人がそういったサービスに対価を与えることによって、同じ社会で経済活動に加わる者が増えます。自宅で無為に生活する者に公金を支給するより、よほど有意義な支出だと捉えるべきです。また、日本全体の富を増加させるので、大局的な視野からすれば、自身の幸福度を上昇させることを知るべきです。

パワハラを社会から撲滅し、これまで労働参加していなかった多くの者たちを職場に受け入れることができれば、巡り巡って日本人一人ひとりの物質的・精神的豊かさも増していくに違いありません。まさに「情けは人の為ならず」です。

パワハラを漏らさず把握し、撲滅に専念する公的機関を新設すべきである

前回の記事のような問題を生むパワハラ撲滅のため、まず、パワハラの完全把握に向けて、使用者から労働者へのパワハラ報告先の告知義務を提案します。既に雇用している人たちに最低でも毎年1回、新しく雇用する人たちには採用時に、パワハラがあれば相談窓口にただちに連絡するよう、伝える義務を使用者に課します。私自身、いわゆるブラック企業で働いていましたが、パワハラの公的相談窓口が日本にあると知りませんでした。相談窓口の存在を知らなければパワハラにあっても報告の仕様がありません。パートタイマーも含めた全雇用者に相談窓口の存在が必ず伝わるように法律で定めます。雇用契約書に小さい字でパワハラ相談先を書いてあるだけでは伝わりません。見やすく分かりやすいパワハラ防止対策パンフレットを作成して、使用者は全労働者にパワハラ遭遇時の相談先を公的パンフレットと口頭で伝える義務が課されます。

当然、パワハラを相談したことで、社内で不利益を被ることは法律で禁止されます。

社内でパワハラを指摘した者と指摘された者の対立関係の発生まで防ぐことは難しいでしょうが、公的機関が可能な限り長期間介入して、パワハラ指摘者を保護するよう法律で定めます。

職場でのパワハラは学校でのいじめと酷似しています。「いじめは絶対悪である」の記事に書いたように、かつてはいじめ問題について論じると、いじめられる側にも原因があるという意見が保護者会でも平然と主張されていました。しかし、1994年に愛知県西尾市で起こったいじめ自殺事件などの反省から、「いじめは人間として絶対に許されない」との強い認識を持つべきとの声明が文部省から出されることになりました。(文部省1995年いじめの問題の解決のために当面取るべき方策等について参照)

同様に、パワハラは絶対に許されないとの強い認識を全ての人が持つべきです。パワハラの報告があった場合に、個々の行為がパワハラに当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、被害者の立場で行います。パワハラと認定すれば、刑事や民事上の責任を問うだけでなく、加害者の解雇や停職などの処分を迅速に実行できるように法や行政を整備します。

パワハラを漏らさず発見して、その全てを失くすためには、対応する役人を大幅に増やす必要があるでしょう。現在、パワハラの公的相談窓口は労働局と労働基準監督署の総合労働相談コーナーになります。しかし、労働基準系、職業安定系、雇用均等系などの労働問題を全て扱う労働局の全国職員は2010年度にわずか2941人で、予算は276億円です(厚生労働省 2010年 労働基準監督業務について≪事務・事業説明資料≫参照)。こんな小さな機関が他の数ある職務を遂行しながら、日本中に蔓延するパワハラに対処することなど不可能です。前回の記事で示したように、うつ病や自殺の社会的損失、約2.7兆円の見積もりを考慮すれば、パワハラ撲滅に特化した公的機関を現在の労働局の数倍の規模で新設してもいいはずです。

パワハラの現状と日本の生産性の低さ

 日本の地方労働局に入る苦情のうち、最多の26.0%はいじめや嫌がらせ、いわゆるパワハラ報告です(厚生労働省労働基準局2014年個別労働紛争解決制度実施状況参照)。厚生労働省の2012年調査では、過去3年以内にパワハラを受けた社員は25.3%となっています(職場のパワーハラスメントに関する実態調査報告書参照)。パワハラにより被害者のみならず周りの士気も低下する、と答える社員は70%に達します(中央労働災害防止協会2005年パワーハラスメントの実態に関する調査研究参照)。

 このようなパワハラは少なくとも欧米では一般的でないようです。パワハラという言葉自体が和製英語で、海外では使われていません。アメリカでは「マネージャーが自分たちを尊重している」と感じている社員は79%ですが、日本でそう感じている社員はわずか39%に過ぎません(「日本企業の社員は、なぜこんなにもモチベーションが低いのか」Rochelle Kopp著、クロスメディア・パブリッシング参照)。

パワハラの横行もあり、日本の自殺率は国際的に極めて高く、カナダの約2倍です(WHO 2014 Preventing suicide:A global imperative参照)。日本より自殺率の高い先進国は韓国だけで、その韓国でも上司からの理不尽な横暴はあり、パワハラに相当する言葉が生まれています。(AERA 2014年12月29日―2015年1月5日合併号参照)

2010年の調査によると、63.5%の日本企業にはメンタルヘルスの不調のため1ヶ月以上欠勤している社員が現在います(財団法人労務行政研究所、企業におけるメンタルヘルスの実態と対策参照)。過去にメンタルヘルスの不調で休職した社員がいる企業になると92.7%とほぼ全てとなります。そのうち、全員が完全に職場復帰したと答えた企業は7.9%に過ぎません。

厚生労働省の2010年発表では、自殺やうつ病による社会的損失が1年あたり約2.7兆円となっています(自殺・うつ対策の経済的便益・自殺やうつによる社会的損失参照)。2020年の東京オリンピック予算は2016年12月の発表時点で、1.6兆円~1.8兆円です。これらの通りであれば、自殺とうつ病を救うだけで、毎年オリンピックが開催できて、お釣りまで出ます。

パワハラによって安い賃金にも我慢するせいか、日本の労働者に与えられる最低水準の金銭報酬は少ないです。全国平均の最低賃金は2014年で時給780円ですが(独立行政法人労働政策研究・研修機構 2015 国際労働比較参照)、これはG7で最下位です(OECD Statistics 2016 real minimum wages参照)。また、国別の平均給与に対する最低給与の比が日本は0.34となり、OECD諸国28ヶ国中26位となっています(OECD Statistics 2016 minimum relative to average wages of full-time workers参照)。日本は先進国にもかかわらず非正規雇用者だと低い賃金で働かされて、国内で比較してもわずかな給与しか得られないようです。さらに、雇用者に対する非正規率は日本でこの20年間一貫して増えており、2015年は37.5%に達しています(厚生労働省 2015 「非正規雇用」の現状と課題参照)。

必然的に、非正規だけでなく国全体の統計でも就業者一人あたりの給与あるいは生産性は低くなってきます。2014年のデータを引用すると、日本人の生産性はOECD34国中21位で72,994ドルです(公益財団法人日本生産性本部 2015 日本の生産性の動向参照)。この値はOECD諸国平均の87,155ドルを下回るだけでなく、経済危機で何度もニュースになったギリシアの80,873ドルをも下回ります。アメリカと比べた場合に生産性の低さが際立つのがサービス産業です。2013年の調査だと、非製造業の生産性は対米比53.9%であり、特に飲食・宿泊産業は26.5%と極めて小さい値となっています(経済産業省 2013 通信白書参照)。ただし、日本人によるサービスが悪いため、生産性が低いわけではありません。双方のサービスを知る日本人とアメリカ人に聞くと、下のグラフにあるように、どちらの国民も日本でのサービスの質が高いと答えています(社会経済生産性本部サービス産業生産性協議会 2009 同一サービス分野における品質水準の違いに関する日米比較調査・報告書参照)。

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日本人のサービスの質は高いのに、生産性(給与)になると低くなります。給与についてはともかく、日本と比べて北米のサービスの質が低いのは、私のカナダでの実体験と合致します。カナダでは、待ち行列が長くてもスーパーのレジ係同士が雑談していました。スーツを着ない語学学校教師が机に腰をかけて講義を行っていました。日本では考えられない光景です。

しかし、彼らの給料がそれほど高いはずはありません。彼らは賃金に見合った程度の仕事をこなしおり、非難される謂れはないのです。そんな相手でも質の高いサービスを提供して当たり前と考える日本人の感覚こそ、おかしいのではないでしょうか。そんな感覚を持っていれば、高い要求をされる相手だけでなく、自分自身にとってもストレスになってしまいます。

日本人のhospitality(おもてなし)の質の高さを自慢する人もいますが、それによる被害者がいることも忘れてはいけないと思います。質の高いサービスを受けるには、相応の対価が必要です。安い賃金の者にまで不当に質の高いサービスを要求する日本人の習慣は、日本人の労働参加率を下げ、結果として日本経済全体の足を引っ張っていると考えます。

次の記事からパワハラ撲滅ための方法を提案しますが、日本でパワハラが蔓延している理由の一つに、消費者の不当に高い要求があることは認識しておくべきでしょう。

いじめ防止対策推進法

前回の記事の大津中2いじめ自殺事件をうけて、いじめ防止対策推進法が成立しました。文科省による行政対策だけでなく、ついに立法政策まで進んだのです。

これまで、いじめなのか犯罪なのか曖昧な事件がありましたが、それらを包括して、いじめと定義しています。その中でも重大事案、いじめられている児童生徒の生命又は身体の安全が脅かされているような場合、ただちに警察に通報することが定められています。「子どもの悪ふざけだから」と民事不介入の原則でなにもしてくれなかった警察が出動する義務が生じました。また、「いじめを受けた児童・生徒が安心して教育を受けられるよう、いじめを行った側の児童・生徒は別の教室で授業を受けさせる」と具体的な対策を条文化しています。それまで、いじめを受けた側が登校拒否になるのをほぼ全ての学校は黙認していましたが、それは適切な処置ではなく、いじめを受けた側はそれまで通り登校させて、逆に、いじめた側を他の教室に移すべきだ、と法律で定めたのです。

いじめ防止対策推進法がその通りに実施されれば、いじめ問題は究極まで減少していくでしょう。日本国憲法戦争放棄条項は、第二次大戦で犠牲になった多くの生命の上に成立した人類究極の理想の提示だ、と誇る人がいますが、いじめ防止対策推進法は、それまでの30年間に生じたのべ100万人以上のいじめ被害者の犠牲の上に成り立った金字塔だと私は思います。新聞報道を読む限り、いじめ防止対策推進法は現場でまだ十分に活かされていないようですが、1日でも早くこの理想的な法律が日本中の学校で実施されることを期待しています。

また、いじめ防止対策推進法の理念は、日本に蔓延する類似問題に対応する指針になると私は考えています。特に、大人のいじめとも言えるパワーハラスメントについては、ほぼ同様の法律を定めていいと私は考えています。次の記事から、日本のパワハラ問題について論じていきます。